惑溺
 
「何か飲む?」

部屋に入り上着を脱いだリョウは、顔にかかる黒い髪を無造作に掻きあげる。
何気なく動くその腕が余りにも優雅で綺麗で、思わずみとれてしまう自分に気が付いて、慌てて顔を反らすとバッグから赤い手帳を出した。

落としたり無くしたりしないようにと、手帳に挟んでおいた銀色の鍵。
それをガラスのテーブルにカチン、と音をたてて置いた。

「何もいらない。私、鍵を返しに来ただけだから」

そう、強い口調で言うとリョウは呆れたように笑った。

「そんなに俺の部屋に入るのがイヤなら、鍵を郵便受けにでも入れて黙って帰ればよかったのに」


……確かに。
そうすれば良かったんだ。

鍵を郵便受けに、なんて単純な事も思い付かない自分が悔しくて唇を噛んだ。

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