時は今



「鬼…」

 四季からのメールの文面を見て、由貴はそうひとりごちた。

『真白にはツェルニー40番は全体的にだいぶ厳しいと思うんだけど、由貴が弾きやすいと思うのは何番?僕、ツェルニーは弾き過ぎてて、どの曲が弾きづらいとか、感覚的にわからなくなってる。由貴の意見参考にさせて』

 確かに四季は弾きすぎていて、小さい頃にピアノ経験なしだとか、しばらくピアノを弾いていない人の感覚はわかりづらくなっているだろう。

(俺が単純に弾きやすいもの…)

 今日はツェルニーの楽譜を持って来ていたので、由貴は30番の本と40番の本をそれぞれ見始めた。

「…おはよう」

 小さく透明な声がした。

「桜沢さん…。おはよう」

 由貴が見ているものが楽譜だったからか、涼の方から興味を示してきてくれた。

「ツェルニー…。涼、40番練習曲は好き」

 楽譜をのぞきこんで来た涼の髪がさらりと肩からこぼれて、由貴に触れそうになった。

 由貴は思わずドキッとしてしまったが、涼は楽譜に夢中になっている四季みたいな感じで、それを気にするようなそぶりもない。

「これ…40番練習曲になってくると、曲を聴いた時の雰囲気が練習曲じゃなくて、ひとつの美しい小曲になってるの。そういうところが好き。涼、手が小さいから、オクターヴ以上のグリッサンドがある曲は苦労したけど」

「そうなんだ…。俺、40番練習曲は初見で思ったのは速度表記がプレストとかざらだから、それで『これ弾けるのか?』っていうのが先に来たんだよね」

「速度は最初びっくりするよね。でも早いからと言って最初から弾き飛ばすと絶対に弾けないよって言っていたから…」

「言っていたって?先生が?」

「ううん。…お兄ちゃん」

 会話が自然に繋がっていたので由貴も自然に聞いてしまったのだが、涼も無意識のうちに答えてしまったようだった。

 今、兄の静和のことを、普通に話せていた…。涼は自分自身のその静穏さに驚いたのか、言葉を途切れさせた。



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