時は今
[101〜200]
(忍の音──)
虚無。虚空。
そこから紡ぎ出されるもの。
静かだ。
まだ誰もそこに立ち入ったことはないであろう、聖域。
絶望を見ながら、何処か清らかさがたゆたっているのは、忍自身が無になっているからだろうか。
何にでもなれる、何処へでもゆける、無限の可能性。
汚れなきもの。
頑ななまでの0の空間をピアノの音が揺るがし始めた。
忍は目を開ける。
(四季?)
──何故?
弾き方を変えたのは意図的に?
とても小さな変化だったが、この曲を幾度となく弾いてきた忍には気になる変化だった。
(四季、何か言おうとしてるの)
ヴァイオリンの音が耳を澄ますようにピアノの音に沿った。
四季は忍を見ない。見ないというより鍵盤を見ていない。目を閉じている。
(え──。四季)
思っていることがわからない。わからないと合わせられない。
不安になる。
傍らで聴いていた吉野智もピアノとヴァイオリンの微妙な空気に気づいた。
不安な音。
(──四季?)
と──。
今度は不安なヴァイオリンの旋律をピアノの音が奏で始めた。
それはピアノの楽譜にはない。
(四季──)
ほっとする。四季はわかってそう弾いているのだ。
四季はそこで目を開けた。忍と目が合う。
なぜか笑顔が生まれた。
(ああ…そうか)
音楽という言葉は、音を楽しむ、だったね。
忍は何か解き放たれたように、ヴァイオリンを弾き始めた。
もう長い間、こんなふうに純粋に音を楽しむなんて出来ていなかった。
心の響きは、響かせたい音になる。
音が生きている。
今ここに。
音を愛するあなたとともに。