時は今



「音が違う」

 声楽講師の八木美里が手を叩いた。

「揺葉さん『ラ』の音ちょうだい」

 忍がAの音を歌う。正確だ。ア・カペラから入って後から伴奏が入る曲が難しいのは、人間の歌声は歌っている途中でも少しずつ音程が狂ったりしてしまうからだ。

 歌い始めた時より、高い調になったり低い調になったりしてしまうのである。

「──揺葉さん、すごい…」

 高遠雛子の横で井上環が忍の歌声に聞き入っている。

 雛子も環の言葉に異論を唱えなかった。

 四季とつき合いはじめた忍が、その後何か変化があるかを見ていたが、声やヴァイオリンの音が明らかに変わってきた。

 忍自身の深みが加わってきたような気がする。

 声の芯に揺らぎがないのは忍の意思の顕れだ。

(負けたくない)

 気持ちが焦る。

 忍はこんな気持ちになったことがあるだろうか。自分よりも先に、自分よりも輝いたものを持っている人を見て、嫉妬するような気持ち。

 譜面をにらんでいる雛子を見て、古谷武人が声をかけた。

「なあ雛子、お前さ」

「何よ」

「どうせなら、もっと楽しい気分で音楽やれば?お前が揺葉さんみたいな人見て焦る気持ちわかるけどさ、向上心のカタマリ剥き出しになってたら、何か違うだろ」

「──」

「せっかく可愛い顔してんのに、勿体ないし」

「…放っておいて」

 雛子がわずかに緊張のとけた表情になる。

 武人の言う通りだった。音楽は楽しむもの。それを忘れて音ばかりを追求するようになってしまったら、違うだろう。

 環が言った。

「揺葉さん、音楽を楽しんでいるものね。音楽をするために生まれてきたのかっていうくらいの表情している時がある。たぶんあの人、私たちみたいな勝ち負けの感覚ないのよ。うまく言えないけど、そんな感覚とはもう別物の次元で音楽を考えている気がする」



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