時は今



「ふうん…」

(好きな人、か)

 そう言葉にされている時点で、もう、自分は雛子の好きな男ではない、と言われていることになるのだ。

 そこで嫉妬して、他の男の話をするな、と思う男は多いだろうが、好きな人がいる女の側からしてみれば「彼氏でもないのに独占欲をひけらかして何様?」と、想ってもいない男の所有物になるのを拒否するのだろう。

 だから樹はそんなことは口にはしない──が。

(恋愛って難しいな)

 好きになった時にはもう、その相手に好きな人間がいるだけで、勝てないだとか。

 物理的にモノにしたいなら簡単だが人の心だけは簡単ではない。

 それが高遠雛子のような気性の人間となると、なおさらだろう。

 樹がそれっきり言葉を途切れさせてしまったため、雛子は変には思ったが、屈託のない様子で歌の続きを歌い始めた。

 好きだと思った雛子の歌。それはたぶん四季のことがひたむきに好きな雛子だから魅力的に感じる歌になるのだろう。

 もし雛子が万が一、自分を好きになってくれたとしても、魅力的な歌になるだろうか。

 好きになる度合いや、細やかな感情の機微は好きになる相手によっても違うからだ。

 雛子を好きになった理由が、四季のことを好きでいる雛子であるのだとしたら、自分は相当にどうかした恋をしている。

 報われない。

 この感情を言葉にして伝えても、雛子の心とは永遠に交わることはない気がした。自分が雛子のことを好きであるように、雛子もまた四季のことが好きでしかない。

 樹は雛子の歌の旋律に合わせるように、歌い始めた。

 高過ぎもせず低すぎもしないバリトンの音域。樹の歌い方は楽器のように絶対音感のしっかりした、ブレない、聴きやすい歌声だ。

 聴いているとチューニングの正しい歌い方になってくる。

 雛子が興味を引かれて樹の横顔を窺う。

 あんなめちゃくちゃなことをする男なのに、音楽だけは至極均整の取れた、クリアな世界を持っているのだ。

 雛子にはわけがわからない。この樹が本来の樹なのか、それとも、雛子に対して理解し難い接し方をしてくるのが本来の樹なのか。


     *



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