検品母
山口秀子の方も、保護室から一般病棟にきていた。寛之は精神病院には一切来ない。社会的には、体裁を取り繕っても、精神病院なんて、精神のおかしな人の居る所には、踏み入れたくもないし、妻が精神を病んだことを認めたくない事位、秀子にも想像できた。それでも寂しくなんか無い。秀子と寛之もまた、お互いの役割を演じているだけだったのだ、と倒れてから、正気に戻った今はわかる。あんな事件をあゆみが起こしてしまっては、もはや妻や母という役割など意味をなさなくなってしまった。そう、秀子と寛之の結婚は、自己の外面ばかり育てるのに熱心だった家庭の、娘と息子が番(つがい)になっただけ。知り合って、デートし、婚約し、と言う流れの中で、寛之は、出来るだけのことをしてくれた。2人の娘も育ててきた。それらはすべて、役割だったのだ。今はただ、記者もこの事件以来牙を剥いた、ママ友も来ない。精神病院は、とても安らげた。
時に喚く人、看護師と取っ組み合いする人、プライバシーが無い事、があったとしても。いや、ここの人々は、人より自分の症状とお付き合いするのに忙しいので、下世話な主婦たちといるより、プライバシーがある。この心地よさは、バイキング会場と似ている。そこでは食欲という人間の基本的欲望が、全開になるので、人のこと気にしている余裕がないのである。かつて秀子もママ友たちと、ランチバイキングによく行ったが、食欲と同時に、人といながら人同士の面倒な意識のぶつかり合いがない、というユートピアを求めていたのかもしれない。
















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