検品母
正覚寺の住職、早瀬一徳は、朝のお勤めが終わって、朝食を摂っていた。僧職だが、修行を終えた後は、トーストにハムエッグ。菜食はどこへやら。多くのお坊さんは、そうだ。
子ども達は、学校に出た後だ。
新聞を広げると、応援しているマラソンランナーが、新記録を更新した事が出ていた。
「悟りも同じかもしれぬ。」
一徳は、修行時代を思い出した。
所属している宗派は、曹洞宗。日本で一番修行がきびしい。
普通に修行と言うと、座禅を組んだり、お経を上げたりということを、思い浮かべるだろう。
曹洞宗の場合、そこへ食事(粥座・斉座・薬石)、風呂(開浴)、トイレ(雪隠)など、あらゆる日常生活の作法が加わる。
宗門の大学をでたばかりの一徳には、「なんの根拠があるの?!」
と感じられたが、修行を続けるうちに、わかってきたことがあった。
これらは、みんな悟りのためのアプローチなのだ。そうして、曹洞宗のやりかたで悟ろうとすると、このプロセスは、どれも抜かしてはいけないのだと。そうして、浄土真宗や真言宗では、また、悟りに到達する、過程がちがうのだろうと。
その後、修行が進んで、悟りかと思われた事があった。
ただ、本山から自坊に帰ってみると、現役の父親の手伝いから、晋山式(新しく住職・副住職が就任するときのお式)、境内の整備、葬儀業者や石材屋との交渉...
と、結構俗世にまみれた生活が待っていた。あの悟りの感覚を忘れるくらい。
そんな中で、お経を上げたりしているときに、あの感覚を、フッと思い出す。
悟りは、ふいにやって来る。風呂場で悟りを開いた跋陀婆羅菩薩、掃除中に悟りを開いた、周利槃特がおられると言うが、まさに時を選ばずやってくる。
あの、のぞみ台小学校の事件も、 ふいにやって来るような出来事ではなかろうか?
そして、そんな悪しき来訪者をブロックするのが、我々宗教家の役目ではなかろうか?
ただ、 日本のお寺は、葬式仏教と陰口を叩かれているが如く、葬儀・法事・諸行事に忙殺されていて、なかなかそこまで手が回らない。
お寺の配置も、山から、一直線に結界を作っている。法華経も和泉山脈に一部ずつ、ポイントごとに納経されていて、結界を作っている。
一人連想していると、妻が、集落の正佐ヱ門(屋号)の、三吉さんが亡くなったと知らせてきた。

< 89 / 114 >

この作品をシェア

pagetop