三日月の下、君に恋した
 ふいに羽鳥がこちらを向いた。航が返事をしないので、不審に思ったらしい。

 予期せず目が合って、航は思わず視線をそらした。頭上を覆う枝葉の影が、足もとに斑模様を描いている。


 今、自分はいったいどんな顔をしているのだろうと思った。


「社長の絵を、見たことがあるそうです」

「ほう?」

「森の──夜の森の絵だと言っていました」


 羽鳥は黙りこみ、また前を向いて、噴水のあたりをぼんやりと眺めた。


 隣に並んで座っていると、彼はとても小さかった。病みあがりのせいかもしれないが、力強さはどこからも感じられず、普通の老人に見えた。

 菜生がずっと気づかなかったのも、無理はないと思う。

 この老人のささやかな平穏を、奪う権利などどこにもない。


「葛城先生の次回作の舞台は、森だそうです。その森を、ぜひ描いて欲しいと」

「君も、私の絵を見たことがあるのか?」

 航は噴水がたてる水の音だけを聞いていた。

「はい」

「それは、ほんとうに私が描いた絵だったのかね?」


 羽鳥は、にこにこした顔を航に向けた。

「どこかの誰かが描いた絵を、私の絵だと勘違いしているんじゃないかな? 葛城先生も、君も」
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