三日月の下、君に恋した
 社長の顔がゆっくりとほほえむ。

「もちろん」

「うまく話せないかもしれません。それに、長くなってしまうかも」

「いいですよ」

 そして少し悪戯っぽい目をして「私はずっと、あなたの話を聞きたいと思ってました」と言った。


 菜生は小さな声で話しはじめた。


 子供の頃に両親から愛されず孤独だったこと。一冊の本との出会いが孤独を癒してくれたこと。

 作者に手紙を書かずにはいられなかった気持ち。手紙の返事が届いたときの喜びと興奮。幸せな文通の思い出。彼女が大好きだったこと。

 大人になってからも忘れられず、つい最近、彼女の故郷を訪ねたこと。そこで彼女の死を知ったこと。


 そして、三日月の森を見たこと。


 菜生はできるだけ自分の気持ちを正直に伝えようと思った。


 大切にしているものを語るのは、とても怖い。

 声に出して言葉にすれば、それは輝きを失ってしまう。胸の奥深く、誰の目にもふれることのない静かで透明な水の底に、いつまでも沈めておきたいと思う。

 だけど、航は菜生の大切なものを大切なものとしてそのまま受けとめてくれた。彼に届いたその瞬間に、菜生の言葉はただの記号からぬくもりをもった記憶になった。
< 219 / 246 >

この作品をシェア

pagetop