三日月の下、君に恋した
 ほんとうに届けたいのは言葉じゃない。

 言葉にのせる想いだった。

 菜生の話を聞いたあと、彼は静かに息を吐き、「そうですか」とつぶやいた。


「彼女は──亡くなったのですね」


 スケッチブックの表紙をなぞる指が、かすかに震えていた。

 長い沈黙が訪れ、菜生は彼が悲しみに身を委ねるのを黙って見守った。何時間でも待つつもりだった。


 渡っていく風の中に夏の匂いを感じた。

 羽鳥克彦とこの場所で最初に会ったのは、去年の夏の終わりだった。たった一年前のことなのに懐かしい。


「あの頃は、絵を描くことが生きることのすべてでした」

 風の行く先を追うように、彼は遠くを見つめた。

「彼女は私の個展を見にきた客のひとりで、私が描いた森の絵を好きだと言ってくれた。故郷の森に似てると言ってね。最終日にもういちど訪ねてきて、お金の都合がついたからと言ってその絵を買ってくれた」


 その日のことを思い出す彼の頬にゆっくりと笑みが漂い、消えていく。

「私には兄がいてね。会社は兄が継ぐことになっていた。私は会社の経営には何の興味もなくて、まさか自分がその立場になるとは考えもしなかった。兄が病死するまで」

 その日を境に私の世界は一変した、と彼は遠い目をしたまま言った。
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