三日月の下、君に恋した
「あの本は、私の画家としての最後の仕事だった。彼女が故郷の森を思って書いた本だということも知っていた。だからすべてを捧げるつもりで絵を描いた。あのときの私たちは、あの森の中にいて、いつも同じ声を聞いていた。あなたが聞いた、夜の森の声を」

 彼の手はもうスケッチブックの上をさまよってはいなかった。絵筆を握るように、右手が軽く握りしめられている。


「彼女に別れを告げられたとき、私は何も言わなかった。画家の道を棄てる決意をした時点で、わかっていたから。それから二度と会うことはなかったけれども……今になって思うんです。あの本は、彼女にとって何か特別な意味があったのではないかと……故郷の思い出とは別に」

 そして、彼は淋しい笑顔を浮かべた。


「だがもう、尋ねることもできなくなってしまった」


 そのまま何も言わず、彼はしばらく目を閉じていた。ふたたび目を開いたとき、スケッチブックに視線を落とした。彼はスケッチブックを手に取ると、菜生の前に差し出した。

「あなたに差し上げます」


 菜生が断ろうとするのを無視して、彼はベンチの上にスケッチブックを置いて立ち上がった。

 戸惑う菜生に笑いかけて、「絵を描こうとしたのは、彼女に会うためだったんです」と言った。
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