三日月の下、君に恋した
「待ってください」

 菜生は立ち止まり、つかまれた手をふりほどいた。


「もういいです」


 足もとが揺れて、地面が傾いているような錯覚を覚える。

 これ以上、何も知りたくない。


 悔しさと情けなさがこみあげ、全身の神経が拒絶していた。誰とも話したくないし、何も聞きたくなかった。ひとりになりたかった。


 葛城リョウは黙っていたが、冷たく透きとおる灰色の目を見れば苛立っているのは明らかだ。

「一度でいいから」と彼は怒りを抑えるような低い声で言った。

「これを見てくれ」


 菜生が無視しようとすると、ふたたび手をつかんで引っ張った。彼の背後で古びたドアが開き、無理やり部屋の中に押しこまれた。

 特別な匂いが鼻をつく。

 窓にはカーテンがかかり、光が閉ざされていた。部屋中に暗く重い空気が満ち、床は四角い板のようなもので埋まっていた。

 灯りがついた瞬間に、それがさまざまな絵の具の匂いだと気づく。

 菜生が後ずさった拍子に、すぐ後ろに積み上げられていたキャンバスがくずれて、足もとに散らばった。
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