三日月の下、君に恋した
 父が生きていたときも、死んだあとも、後を継げと言われたことは一度もない。それでも思う。

 黒岩が大切に守り続けてきた、財産とも言える彼らの存在がなかったら、経験の足りない若輩者の自分が黒岩と同じ場所に立つことはできなかっただろうと。


 たった一片の鱗のようなかすかな光でも、誰かの灯りになることがある。


 それが、この会社を創った早瀬と黒岩の願いであり希望でもあった。そんな灯りになれる本を創ることが、彼らの夢だった。

 ふたりの夢を自分が引き継ぐのは、今でもおこがましい気がしている。


 けれど、自分に託してくれた黒岩や、快く迎えてくれた社員たち、それに──経営が悪化してもうほかに打つ手はないと途方に暮れていたとき、自身の名誉と引き替えに救ってくれた偏屈で情け深い不良作家のためにも、今できることをやるしかない。


 よけいなことを考えている暇はない。

 ふりかえる暇も、悔やんでいる暇もない。

 こんなところでぐずぐず迷っている場合ではないのだと、何度も自分に言い聞かせた。


 それにしても、松田はいったい何の用だったのだろう。

 会社にもどってからというもの、顔を合わせるたびに留守をしていた間の小言を聞かされているが、もう携帯には仕事の連絡以外でかかってくることはない。

 しかしそれなら、留守電にメッセージを残すとか、会社にいる誰かに伝言を頼んでもよさそうなものだった。
< 233 / 246 >

この作品をシェア

pagetop