弟矢 ―四神剣伝説―
「姫様、大丈夫でございますか?」

「ああ、すまない。このような時に……情けない」


まずは凪の元にと考えたが、弓月がそれを嫌がった。


二人は里の端に流れる小川のほとりまでやって来ていた。弓月の希望だ。

水辺に屈み、手ぬぐいを浸して、弓月は丁寧に身体を拭って行く。一矢の指の感触を、一刻も早く消し去りたかったのだ。

本音を言えば、すぐにも川に飛び込み、全身を洗い流したかったほどである。その、乙女らしい潔癖さを、正三は理解して優先させたのだった。

他の者が来ないように、と正三は弓月に背を向け、土手の上に立っている。


「もう、大丈夫だ。正三。すまなかった」


着衣を整え、何もなかったかのように振る舞う弓月が痛々しい。


「大事がなくて何よりでした。しかし、何ゆえあのような男が神剣の持ち主なのか。私には納得が行きませぬ!」


珍しく、正三の声は怒気を含んでいた。

当然だろう。あれが一矢でなければ、足腰が立たぬようになるまで、数十発は殴りつけねば気が済まない。


「一矢殿の言うことは嘘です。乙矢殿は……私の手が触れることさえ、拒まれておいででした。人の道に外れるような行いはなさってはおりません。あんな……あのような真似は」

「わかっております。奴は頼りなげに見えて、おなごの扱いは心得ておりました。その辺は新蔵などより、自制心をお持ちの方です」

「なぜなのです? 何ゆえ、あの乙矢殿が、裏切り者、愚か者と呼ばれるのか? そして、一矢殿が勇者として神剣に選ばれるのか? 私にはわかりません。――四神剣の伝説を、信じられなくなりそうです」


弓月は、一矢に簡単に組み伏せられてしまった己の力のなさを嘆いた。それと同時に、長く心酔してきた伝説に、疑いすら持ち始めていたのだった。


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