弟矢 ―四神剣伝説―
随分長い時間が過ぎたように思う。だが、高円の里での一件から、まだ十日も経ってはいない。肩の傷は、熱や腫れは治まったものの、そう簡単に癒えるわけはなかった。野宿などすれば尚のことだ。
(弓月殿はどうしているだろう……。一言残して出るべきだったろうか?)
結局、寝ても覚めても、ふとした拍子に思い浮かぶのは弓月のことだけだ。
本音を言えば、今すぐにも引き返して彼女の傍に駆け戻りたい。義弟として、情けを掛けて貰えるだけでもいいから……。そこまで考え、首を左右に振り溜息を吐いた。
そんなものは嘘だ。ただのごまかしに過ぎない。すぐに忘れられる、諦められると思っていたが、遠ざかるほどに弓月が恋しくなる。彼女を妻にできる一矢が羨ましい、その想いは醜い嫉妬を生み、それはいずれ憎悪へと変わるかも知れない。
それに、神剣を手にした時のあの感覚……。
あの瞬間、乙矢の中の何かが目覚め、身体を突き動かした。それは今も、乙矢の胸の片隅で、「逃げるな、戦え」と言っている。
正三が言っていた「私の心には鬼がいる」と。
乙矢は、その言葉に怯えていた。もし自分の心の鬼が目覚めたら、弓月を慕うあまり、一矢を憎み本物の鬼へと変わるかもしれない。
初めての恋と、兄弟の情……そして、両親を死なせた罪の意識を抱え、乙矢の心は迷路の中を彷徨っていた。
途方にくれ、涙が浮かんできたのを再び川の水で流し、乙矢は顔を上げた。
日暮れまでには領地に入りたい。どこに身を隠そうか、と考えながら山道に戻ろうと草むらを掻き分ける。斜面を登り、急な部分を一気に登りきった時、なぜか二本の足が目に入った。
足があるということは、当然胴もあり、その上には頭もあるだろう。今の彼に近づく者は、敵以外にはいない。
そう思うと同時に、乙矢は身を屈め地面に転がっていた。
朝靄を斬り裂くように、鞘から抜かれた刀身が、乙矢の頭上スレスレを掠める。痛む左肩を押さえ、地面に片膝をついたまま、乙矢は敵を見上げた。
――そこにいたのは、桐原新蔵であった。
(弓月殿はどうしているだろう……。一言残して出るべきだったろうか?)
結局、寝ても覚めても、ふとした拍子に思い浮かぶのは弓月のことだけだ。
本音を言えば、今すぐにも引き返して彼女の傍に駆け戻りたい。義弟として、情けを掛けて貰えるだけでもいいから……。そこまで考え、首を左右に振り溜息を吐いた。
そんなものは嘘だ。ただのごまかしに過ぎない。すぐに忘れられる、諦められると思っていたが、遠ざかるほどに弓月が恋しくなる。彼女を妻にできる一矢が羨ましい、その想いは醜い嫉妬を生み、それはいずれ憎悪へと変わるかも知れない。
それに、神剣を手にした時のあの感覚……。
あの瞬間、乙矢の中の何かが目覚め、身体を突き動かした。それは今も、乙矢の胸の片隅で、「逃げるな、戦え」と言っている。
正三が言っていた「私の心には鬼がいる」と。
乙矢は、その言葉に怯えていた。もし自分の心の鬼が目覚めたら、弓月を慕うあまり、一矢を憎み本物の鬼へと変わるかもしれない。
初めての恋と、兄弟の情……そして、両親を死なせた罪の意識を抱え、乙矢の心は迷路の中を彷徨っていた。
途方にくれ、涙が浮かんできたのを再び川の水で流し、乙矢は顔を上げた。
日暮れまでには領地に入りたい。どこに身を隠そうか、と考えながら山道に戻ろうと草むらを掻き分ける。斜面を登り、急な部分を一気に登りきった時、なぜか二本の足が目に入った。
足があるということは、当然胴もあり、その上には頭もあるだろう。今の彼に近づく者は、敵以外にはいない。
そう思うと同時に、乙矢は身を屈め地面に転がっていた。
朝靄を斬り裂くように、鞘から抜かれた刀身が、乙矢の頭上スレスレを掠める。痛む左肩を押さえ、地面に片膝をついたまま、乙矢は敵を見上げた。
――そこにいたのは、桐原新蔵であった。