弟矢 ―四神剣伝説―
乙矢は、おきみに人の温もりを思い出させてくれた。乙矢は怖くない。乙矢の瞳は優しく、お日様のように暖かい。
 
乙矢に逢いたい――。
 
必死に願うおきみの鼻に、先刻から血の匂いが届いていた。

それは、母の体から吹き出した、真っ赤な血飛沫の匂いだ。拭っても洗っても落ちない、命が最後に放つ赤い色の匂い。


ザザッと、正三がおきみを隠すために覆った枝葉が揺れた。その隙間から、血に塗れた人の手がおきみの眼前に突き出される。


「……!」


反動で枝は表に向かって倒れ、咽返る血の匂いに高円の里での惨劇が脳裏をよぎった。

あっという間に、小さな洞の中は生々しい臭気で満たされ、おきみは吐きそうになる。とうとう耐え切れず、目の前に倒れる蚩尤軍兵士を乗り越え、外に飛び出した。


方向などよくわからない。ただ、その場から逃げたくておきみは走った。走って走って、気付くと里の入り口が見える。逃げ込むべきかどうか、里人が首筋に突きつけた包丁の冷たさに、おきみは身震いする。そこに味方がいないのは明らかだ。

その時、背後から凶悪な気配を感じ、おきみは振り返った。


そこに立っていたのは、両親を殺した男と寸分違わぬ人の形をした獣であった。


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