弟矢 ―四神剣伝説―
『鬼』と大人たちは呼んでいた。


おきみの中で一番怖い獣は熊である。子熊を連れた母熊に遭遇したことがあり、随分怖い思いをしたけど、父が助けてくれた。


でも、その父はもういない。


「お……とや。おと、や。おとやぁ」


おきみの口をついて出たのは、乙矢の名だった。『鬼』は近づいてくる。しだいに速度を増して。獲物を見つけた熊のように――。


「おとや! おとやっ! おとやーっ!」


一歩も動けず、おきみは『鬼』の餌食になるのを待つしかない。彼女の頭上に振り下ろされた『青龍一の剣』は、汚泥の沈んだ沼を思わせる濁った光を放ち――。


不意におきみ体が宙に浮く。

誰かが抱いて横に飛んだからだ。声を聞くまで、おきみはそのことに気付かなかった。


「乙矢じゃないが、とりあえず、俺で勘弁してくれ」


正三だ。


「絶対に暴れるなっ!」


一言叫ぶと、正三はおきみを横抱きにしたまま里の中に向かって駆け出した。


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