弟矢 ―四神剣伝説―
湯治場の宿を出る直前のこと。用足しに一人になった弥太吉に、一矢が近づいた。


『どうやら、弓月殿だけでなく、遊馬の者は皆、乙矢の術中に陥ってしまったようだ。私は弓月殿の身が心配なのだ』


一矢の纏う禍々しい気配に、舞い降りようとした雀さえ空へと逃げる。


『……おいらも、そう思います。でも、一矢さまっ! 織田さんが亡くなったって本当ですか? それに、新蔵さんまで。やっぱりあの時、引き返してたら』


弥太吉は、正三や新蔵のことを思い出しながら、彼らの名を口にした。

何かが、胸の奥を揺さぶっている。その時、茅葺屋根に止まった数十羽の雀が、一斉に森の向こうへ飛び去った。先の一羽が上げた甲高い声は、およそ警鐘だったのだろう。

それは、弥太吉の胸にも――『目を覚ませ!』と響く。

だが……。


『弥太吉! 私の目を見るのだ。――おぬしは正気であろう? 歳若くとも、おぬしは立派な剣士だ。ゆくゆくは遊馬を背負って立つ最強の剣士となる。神剣の鬼を抑えるのは、我ら四天王家の役目。織田正三郎は、役目を果たしたに過ぎぬ。……そうであろう』


がっしりと両肩を掴まれ、一矢の声が弥太吉の耳の奥に届いた。

人として大事なことが、少年の胸から消えていく。いや、確かにそこにあるのに、見えなくなっていくのだ。


『弥太吉、神剣を取り戻した暁には、必ずやおぬしの功に報いるつもりだ。私に力を貸せ。おぬしならできる』


流れるように耳触りの良い声であった。

それは少しずつ、少しずつ、弥太吉の心に忍び込む。そして、少年は一矢に言われるまま、道標を残して来たのだった。


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