万年樹の旅人

 本当に無意識だった。そろりと伸ばしたユナの細く短い指が、女性の頬に触れるか触れないかのところで、ハッと我に返り動きが止まった。だがその瞬間、今まで感情を一切見せなかった女性の瞳が揺らぎ、柳眉が何かを訴えるように動いた。

 触れた、と思った指先は、空を切る。まるで、ユナと女性との間に一枚、水の壁でも置かれているかのようだった。ゆらりと波紋を広げ、ユナの小さな指が女性の体を貫いた。しきりに何かを告げようと、女性の口が動く。だが、暗い空間にいたときと同じく、一切の音はユナに届いてはこなかった。

 今にも泣き出しそうな女性の表情を見つめながら、ユナは唇を噛んだ。

 助けを求めているのかもしれない。身を刻むような痛みをたたえた瞳だった。見ているだけで、自分も涙が出てしまいそうなほど、痛い面持ち。けれど、彼女が何を求めているのかもわからない。声が聞こえなければ、手を差し出すことすら正しい行動なのかもわからない。わかったところで、小さな子供である自分に何かができるとも思えなかったが、それでも、もしかしたらたったひとつでも何かあるかもしれないのに。

 自分は一体どうしてここにいるのだろう。何かを訴えかける女性の瞳が激しさを増していくのをただ見つめながら、ユナは泣きたくなった。暗闇の中で絶望と恐怖のみに支配されていたときとはまた違う、もどかしさだった。

 ――ジェス!

 突如聞こえてきた声に、俯きかけていた顔を上げ、目を見開いた。

 想像していたよりもずっとはきはきとした声だった。もっと、ゆかしい声音だと思っていたユナは、思わず言葉を失った。

 女性はそんなユナの驚きを無視して悲痛な叫びをあげる。声をからしながら何度も何度も同じ名を呼んだ。ユナに向かって、違う名を。

 ジェス、とユナに訴えながら、細い腕を伸ばす。瞳にたくさんの感情をのせて。ユナは、その中に強い期待の色を感じて、彼女が伸ばしてくる手を受け取っていいものかどうか、判断できずに困惑していた。伸ばしかけたユナの腕が、あと少しのところで硬直する。

 ――違う。僕はジェスじゃない。僕は――……


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