はらり、ひとひら。
綺麗な名前、と率直に思った。
「薫…薫ね。私は杏子。椎名杏子っていうの」
「よろしくしない」
「うっ、手ひどい」
「…ウソだよ」
ぱしんと払いのけられたあと、薫は私の手を痛いくらい掴んだ。やめい、折れるじゃろうが。
「…苗字も生まれも、家すら思い出せないけど…ここにいたら、何か思い出せそうな気がする」
「そう…。思い出すまで、いていいからね。納屋にやたら文献とか、小難しい本とかいっぱいあるしそれも好きに読んでいいから!」
あ。何なら神崎くんにもお手伝いしてもらおうかな。
物知りな神崎くんならきっと何か知っているかもしれない。
「友達にも協力してもらうから。絶対、思い出して家に帰ろうね!」
「…」
こくりと頷いた薫に安心すると、ぐううとお腹から見事な音色が。
うそでしょう、なんてタイミングで鳴るんだ! 全身の血が顔に集まっていくのがわかる。恥ずかしすぎてそっぽを向くと、からから、薫は笑った。
「色気がない」だの「女としてありえない」厳しい罵詈雑言が飛んだが、薫の笑った顔を初めて見られたことによる嬉しさの方が上だった。
つられて緩む頬を隠せずにいると、階段の下から聞きなれた声がした。
「杏子ー、ご飯ー」
「あ、お母さん。はーい! 今行く!」
「っちょ、うわ」
はい立って立って! と強引に引っ張って部屋から薫を連れ出す。
「ま、って! 俺も…行って、いいの?」
「? 当たり前でしょ? 薫は今日から我が家に居候の身なんだから。家族同然だよ」
「だけど…!」
うちの家族の順応性なめちゃダメ。伊達に私の親と弟じゃないんだから。
「あったかくて美味しいご飯食べて、いっぱい寝て、そうしなきゃ自分のことも知れないでしょ? 腹ごしらえ、大事!」
だからほら、行こう? と繋いだ手に力を込めれば、薫は少しだけ金色の目を揺らして、こっくり頷いたのだった。
あ、この匂いは…今日はシチューだな。つい零すが、薫はなにそれと首を傾げただけだった。
「食べたら思い出すかもしれないよ」
「…どうだか」
つれない返事が薫らしいや。
─こうして私と、名前以外の記憶を失った、ちょっと不思議な男の子…薫との同居生活が始まったのだった。