はらり、ひとひら。


つきっこない、だって蛟だよ? と絞り出した声は驚くくらい頼りなかった。

静かに師匠が嘆息する。


「…お前は神の逆鱗に触れたことがないからそう言えるんだ。そもそも、お前ひとりを殺めることなぞ赤子の腕を捻るより簡単なこと。奴は何を考えているか読めないのだ。…恐ろしい。絶対に行くな」

これだけ強い口調で言うのは珍しい。気迫に押し負けてそれ以上は何も言えなくなってしまった。

師匠は蛟を、信用していないのか…



「それに近ごろ奴から妙な人間の匂いがする。それも鼻が曲がりそうな、嫌いな匂いが」

「人間の?」

「あぁ。神気で誤魔化そうとしているようだが一瞬、途切れたときに香った。…この流れは、まずいかもしれんな…」


憔悴したように目を伏せた師匠に焦りが生まれる。何の話をしているの。


「蛟は、悪い人と手を組んでいるの?」

「…さあな」

「今、言ったよね」

「忘れろ」

「悪い人って誰なの?」

「…お前は知らなくていいことだ」


─その言葉だけは、聞きたくなかった。


「っなんでよ!!」

どうして誤魔化すの! しっかりとした強く肩を揺すっても目すら合せてくれない。それにまた傷ついて、息を呑みこむ。


「私のことすら、信用してくれないって言うの…」


もう、三年も一緒にいるのに? あれだけ一緒に頑張って、妖を助けたり、時には邪鬼を祓ったり…苦しみも喜びも、痛みさえ一緒に乗り越えてきたじゃない。


「話してよ…私だって、力になれるよ」

お願いだから。



「なれない。お前には関係ない」


きっぱりと再度言われ、掴んでいた肩から腕が滑り落ちる。

ぎゅっと胸が縮こまったようになって、目が熱くなった。
いやだ。泣きたくないのに、勝手に瞳が曇っていく。


─考えれば考えるほど、私は師匠を知らなかった。


「師匠の過去も、桜子さんのことも、私、何一つ聞いてない…」

「それは」

「それも"関係ない"こと? ねえ、師匠にとって『私』ってなんなの? 妖祓いの、便利な道具? それとも、いっときの気まぐれで助けただけの、暇つぶし?」


ぴくりと形のいい眉が動いたのを見逃さない。けれど、言葉は止まらない。
どうして、こんな、私。師匠を傷つけたくないのに─


「いっつもそうだよね。使えるときだけ良いように使って、痛いところを突かれると"関係ない"って突っぱねて。もう、いやだよ…」

「杏子。落ち着け」

「落ち着いてるよ? 焦ってるのは師匠じゃない。ねえ、何を隠してるの?」

 
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