はらり、ひとひら。
合っていた目を逸らされ、反対に今度は強く掴まれていた腕を振り払った。
「…私には、言えないこと、か」
「…すまない」
謝らなくてもいいのに。すこしだけ冷静さを取り戻して、自分の口から静かな声が出たことに安堵する。
「私が弱いのが、いけないんでしょう。…いいの。わかってるから」
「っ、それは違うぞ」
「じゃあなんなの?」
「いや…それもあるか。その通りだ、お前は弱い」
わかっている。こればかりは否定できない。
「優しすぎる」
と漏らした師匠の言葉には聞き覚えがあった。
考えて数秒後、蛟にも同じことを言われたことをぼんやり思い出す。
やさしい。
そうだろうか。自分ではわからない。けれど「人に優しくしなさい」ということは小さい頃から母に刷り込まれているから、本当にできているなら嬉しいのだけど。
「要は時として優しさを捨てることも必要だ。今のお前は、ただの優しいだけの娘になっている」
「じゃあ昔の私はなんだったの?」
「…少なくとも私とお前が出会って日の浅い頃の方が、迷いも情けもなかったな。妖に対して」
そうだっけ。そんな昔のこと、忘れちゃったよ。
「心優しい妖に出会いすぎたな。お前は幽世(かくりよ)を知りすぎた、触れすぎた」
「…っ」
脳みそをフル活用しても言い返す言葉が見つからない。
思い返してみれば積み重ねた思い出は、本当に優しいものばかりだった。
妖を見るようになってから修羅の血を求めて襲ってくる妖も勿論数多くいたけれど、そのぶん、優しい妖にもたくさん出会った。
救いを求められればすぐ応じたし、喜ぶ顔が見たくて力を貸して─
知らず知らずのうちに、私はひどく弱くなってしまったようだ。
「今のお前に覚悟はあるのか」
「覚悟?」
「それがなければ、話すこともできない」
…覚悟って、なんだろう。
きっと私の想像でも思い浮かばないことが、師匠の頭の中には詰め込まれているんだろうけど、今の私にそれを訊く勇気は…ない。
首を横に振ると師匠の平坦な「そうか」が響いた。
「だが、お前が望むなら全てを話しても構わん。いつでもいい。覚悟が決まったら声をかけろ」
「うん。…ありがとう師匠。怒鳴っちゃってごめん」
「…構わん。いや…今回ばかりは私にも非がある。すまなかったな」
しいんと沈黙が訪れて、エアコンの機械的な音ばっかり耳につく。
誰ひとり身動きもしない。どれくらいじっとしていたかはわからないけど、おもむろに腰を上げた師匠が、足音も立てずにドアの方へ向かった。
「師匠、どこか行くの?」
「あぁ。少し出てくる」
「…そっか。気を付けて」
返事のかわりに青い瞳がすっと細まって、消える背中を見送った。