その両手の有意義な使い方
「風が気持ち好くて、暑くも寒くもない。おなかも空いていないし、喉も渇いていない。完璧に満ち足りている」

「満ち足りているのに、終わっちゃえば好いワケ?」

いやに静かに、高遠が訊いてくる。

青空を背負っている、高遠。白い雲が背後でふわふわ動いていた。

「だって、ここで終わっちゃえば、好いままだわ」

大学生になった文佳は家を出て、もう彼女に手をあげる親はいない。

実家にいた頃、ぶたれる瞬間と平穏無事な時間は、カードをひっくり返すようにすぐ、入れ替わった。
ささいな言葉ひとつで、一家団欒は断ち切れ、硬い拳が降ってくる。

繰り返される転換に馴れ、文佳は期待しなくなった。

「いま、あんたがいるのは悪くない感じ」

「…この先も一緒にいたいなあって、俺は思っているよ」

「ありがと」

この瞬間の感情を共有できるなら、悪くない気がする。
くすくす、文佳は笑った。

「好きだよ、フミさん」

「ありがと」

笑いながら答える。すると、くしゃん、と高遠の表情が崩れた。
< 9 / 35 >

この作品のキーワード

この作品をシェア

pagetop