ひとまわり、それ以上の恋
「ますます迷うな。君さえよければ、だけど。カタログのモデルを引きうけてくれないかな?」

「えっ……む、ムリです。今でさえいっぱいなのに……」

 咄嗟に本音が口をついて出た。

 立って、といわれても腰が抜けてしまって、立ち上がれなかった。
 市ヶ谷さんが手を差し伸べてくれて、ようやく捕まってふらつく身体を支えてもらった。

 嵯峨野さんが大事な電話が入ったようで席を外し、私と市ヶ谷さんは二人でソファに座った。あと何回か着替えをして見せて欲しいと言われたので、嵯峨野さんを待たなくてはならない。

 市ヶ谷さんはソファにかけてあったカーディガンをとってくれて、私の背にかけてくれた。透明な茶色の瞳と目があうと、さっきまでのことが急に恥ずかしくなる。

「……ありがとうございます」とお礼だけ言って、テーブルに並べられているサンプル生地とカタログに視線を移す。

「欲情するぐらいよかったって言ってもモデルはやらない?」
 誘惑めいた市ヶ谷さんの甘い声。私は失礼と分かっていても隣を見られなかった。

「ズルイです。そうやって……」

 あの晩だって、あのキレイな女の人を誘惑していたの?
 ……子ども騙しだって分かってる。そういえばやる気になるとでも思ってるんでしょ。

「本当だよ。いつもの君と違ってた。昨晩、ちゃんと帰していて良かったよ」

 今度は社交辞令だ。本当に意識していたのなら言えない台詞だもの。頭をなでなでとされて、すっかり娘同然扱い。セクハラと言ってやれないのは惚れた弱味……そんな私の気持ちだって、もう分かってるくせに。
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