暁に消え逝く星

「――」
 結局、イルグレンは何も買うことができなかった。
 初めて自分で金を稼いだという喜びも、すでになかった。
 アウレシアは軽くイルグレンの肩をたたき、帰り道を促した。
「別に、買いたいものがないのなら無理をして買うことはないさ。使う時までとっておけばいい。あたしらは自分で稼いで金を得る、そうして生きていくと、それがわかったのなら、上出来さ」
 市場を出て、アウレシアは小路を抜けて、宿屋までの最短距離を歩く。
 道幅が狭いので、自然とアウレシアが前に、イルグレンが後ろになる。
「レシア――」
「ん?」
 振り返るアウレシア。
 イルグレンは立ち尽くし、じっと乾いた土を見つめていた。
 その上に立っている自分の脚を見つめていた。
 旅人用の軽い革紐を編んで作った履物は薄汚れ、剥出しの肌もすでに埃塗れだった。
 もしも普段彼の着ているもので出歩いたのなら、床まで届く長い衣服の裾は、きっと同じように埃塗れだったろう。
 舗装もされない道では、これは当然のこと。
 だが、美しい大理石を敷き詰めた故国の宮殿内しか知らなかった彼は、今初めて、自分が過ごしてきた偏った生活を虚しく思い知る。
「グレン?」
「レシア。働かねば、金はもらえんのだな」
 抑揚のない声だった。
「ああ」
 優しく、返る声。
「金をもらわねば、欲しいものは手に入らんのだな」
「ああ」
「手に入らねば、餓えて死ぬんだな」
「ああ」

 たったそれだけのことでさえ、自分は知らずに十七年も生きて来たのだ。

 そして、きっと自分にはわからずに通り過ぎていくだけのことが、これからもあるのだろう。
 アウレシアが教えてくれなければ、そして、自分で気づこうとしなければ、これからもたくさんの大事な何かを知らないまま、生きていくのだ。

 それでも、生きていけるのだ。

「グレン?」
 訝しげなアウレシアの顔が視界に入る。
 彼女とて、全知ではないのだ。
 自分より遥かに物事を知っている彼女とて、知っているのはやはり一部分なのだ。
 世界はたくさんのもので溢れているのに、人間は、自分は、ほんの一部分しか知らずに生きて、死んでいく。
 なんて恐ろしいことなのだろう。

 人間とは、なんと無知で、愚かな生き物になれるのだろう。

 行き着く考えに、イルグレンは身震いした。
 今はただ、恐ろしかった。
 無知なるゆえの純粋な慄きに、ただ言葉もなく立ち竦むだけだった。



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