としサバ
 信彦は格子戸をガラッガラッと開けた。

 「お帰りなさい。あら、今日は早いわね、深ちゃん」

 中から女将の聞き慣れた声がした。

 「今日で、ていね・・・いや・・・」

 信彦は定年と言いかけて、話題を変えた。

 定年を肴にして酒を飲むなら、間違いなく悪酔いする、と思ったからだ。

 「今日のお勧めは」
 「今日はね。鰯の煮付け。油がのっていて、おいしいわよ。それに、蛸ときゅうりの酢の物.蓮根のきんぴらかな」

 「じや、それでいい」
 「お酒はいつものね」

 女将はお手伝いの広ちゃんに、「ビール」と言った。

 「悪い。酒にしてくれ。冷で頼む」

 ビールの栓を今にも抜こうとしていた広ちゃんが、びっくりしたような顔をして、女将を見ている。


 「深ちゃん、珍しいわね。何かあったの」

 「今日は飲みたいんだ。飲ませてくれ」
 「はいはい、じゃ、お酒にして上げて」

 木の枡に入ったコップ酒が運ばれて来た。それを、信彦は一気に飲み干した。

 「女将、もう一杯」
 「ピッチが早いわね。やけ酒?」

 「飲みたい時もあるんだ。俺にだって」
 「はい、どうぞ」


 広ちゃんが信彦の前に酒を差し出した。
 信彦は、それをまた一気に飲み干した。




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