としサバ
 いつもの信彦なら、酒を2合も飲めばほろ酔い気分になる。
 それが今日は、素面同然である。

 酒とは、気分次第で回り方がかくも違うものなのか。

 「女将、もう一杯」
 「そんな早いスピードで飲めば、身体に悪いわよ」

 「頼む、今日は飲みたいんだ」
 「わかった。わかった。飲ませて上げるわよ。深ちゃん、私が介抱して上げるから、今日は徹底的にお飲み」

 「いいのかい」

 「いいわよ。誰にでも飲みたい時はあるものよ。訳はきかないから、好きなだけ飲めばいいわ。私が面倒みて上げる」

 「嬉しいな。本気にしてもいいのかな」
 「いいわよ」

 信彦は女将の優しい言葉と、酒を飲むピッチが早かったせいか、コップの酒を4杯ほど飲み干したあたりで、急に酔いが回り始めた。


 「嬉しいな。お、女将に介抱してもらえるなんて。俺は幸せ者だ。なあ、女将、そうだろう。ウイッ」


 「そうよ。深ちゃんは世界一の幸せ者よ」


 信彦は酔った頭で、女将に介抱してもらっている自分自身を想像してみた。

 定年の嫌な気分は、甘い風景が頭を占領してしまっているせいか、不思議と吹き飛んでいた。





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