佳き日に
人間って、未知だ。
数年前、手術が終わった後の弟を見舞いにいったときエナカはそう思った。
漠然とした恐怖と、父と母の疲れた顔と、げっそりと痩せてしまった弟の顔。
「手術が嫌いなのかどうかは分からない。弟も別に嫌がってないし。でも、手術が終わった後の数週間は弟は何食べても吐いちゃうの。全部。拒食症かっても疑われたけど、数週間過ぎれば普通に食べられるようになってる。」
「ストレスとか?」
「そうかも。よく分からない。会話も出来ないくらい意識が朦朧としてたり、急に大泣きしたり。なんなんだろうね。」
雨は何も言わず、色あせた表紙の本を手に取り眺めていた。
「きっと、お父さんもお母さんも弟の看病に疲れて、私の文化祭には来れないよ。そのぐらい、手術後の弟の看病は大変なの。」
久しぶりに弟が帰ってくるのは嬉しい。
でも、お父さんとお母さんが疲れた顔ですぐ布団に入っちゃうのは寂しい。
手伝いもしないエナカがそんなこと言ってはいけないのは分かってる。
足がすくんで、病室の入り口で突っ立ていることしか出来なかった。
あの時の、ゲェゲェ吐きながら泣き叫んでいる弟が、怖かったのだ。
私の知っている弟じゃない、って。
エナカが昔のことを思い出していると、雨が本を開いて話しかけてきた。
「じゃあ、やっぱり俺が行くよ。」
「・・・なんで?」
「君の親の代わり。ビデオも撮っておいてあげるから。弟が安定したときにでも家族みんなで見ればいいよ。」
本に目を向けたままの雨。
人に親切にするのに慣れてないのだろうか。
フッ、とエナカの口元が緩んだ。
「何照れてんの。」
笑いながらそう言えば、無言で本で叩かれた。
その痛みさえも愛おしかった。
嬉しかったのだ、雨の気遣いが。
『何かをー探してーこの星に生まーれたー』
ラジカセからは雨が好きだと言った歌詞が流れていた。
お約束というかなんというか。
安いドラマではよくあるパターンか。
その日から、雨がエナカのいる古本屋を訪れることはなかった。