佳き日に



「お前が幸せになんなきゃ、あの男だって報われねーぞ。」


せんべいの声が、心の中にこだまする。

帰りたい、と思った。
生まれてからずっと住んでいた、あの年期の入った家に。
雨がいなくなって、家族も、祖父母もいなくなった家。

今では、たまに琥珀が遊びにくるだけの家。

エナカは逃げるように駅に向かって歩く。
琥珀は今どうしているかな、とも思った。
秘密警察が保護しているなら大丈夫だろう。
彼女ののんきな声が、ぼんやりと思い出された。

『人の指がなんで十本だか知ってる?』

いつだったか、琥珀は両手を顔の前に出してそう言ってきた。

『インドだかどっかの言い伝えではね、指が十本しかないのは、人が本当に欲しいものは十個もないからなんだって。』

本当に欲しいもの。

いつか、せんべいにこの話をしてあげよう、とエナカは思った。
両手分の幸せは、もう十分に貰ったことを。


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