佳き日に
エナカの家は小さな古本屋を営んでいた。
どちらかというと大人向けな、漢字や英語がたくさんで大きくて古い本を売っている。
漫画などは扱っていなかったので、同級生には不評だった。
だがエナカは古い紙の匂いもクタッと疲れた古本特有の雰囲気も好きだった。
学校から帰れば自分の家の店の一角でずっと本を読んでいた。
男に声を掛けられたのは14歳の時だった。
雨の日で、カビくさい雨の匂いがすごくいいと思った。
海が好きか、と聞かれ反射的にコクンと頷いた。
その時に読んでいたのが人魚姫だったからそんなことを聞かれたのか。
どちらにせよエナカは海が好きだった。
将来は海女さんになって10分でも20分でも潜って海中の静寂を味わう毎日を送りたいと思っていた。
そのために息を止めたままでも走ったり、ジャンプ出来るよう練習した。
練習の成果か、3分程は息を止めていられるようになった。
もちろん、水泳も200mは泳げるように練習した。
「海のどこが好き?」
「冷たくて静かなところ。」
二度目の質問でようやく顔を上げて相手の顔を見た。
黒い服に黒い髪。
ビー玉のような茶色い目。
黒ぶち眼鏡で静かそうな男だった。
「海に行ったことは?」
「あるよ。夏で、人がたくさんいた。」
話しをしていても、男はこちらを見てくることはなかった。
それをいいことに、エナカはその綺麗なビー玉みたいな目をずっと見つめていた。