結婚したいから!
疲労困憊の社員に長期休暇を

上司からの戦力外通告

「しばらくの間、有給を消化したらどうかな」

「…はい」

そう言うしか、なかった。


すっかり大した緊張もなく通えるようになった、萩原コンサルティングサービスの、おなじみのマリッジ部にて。


あれから、どれくらいの時間が経ったのかなぁ…。

玲音さんに会えなくなって、早川さんの話を聞いたのは、梅雨まっ盛りの頃だったはず。もう、雨もあんまり降らなくなっていて、いつの間にか梅雨は明けてしまったんだと思う。いつ梅雨明けしたのかすら知らないなんて、我ながら、社会人としてどうかとも思うけど。


ああ、7月も半分過ぎたのか。

なんて、考えながら、カレンダーを見て、ぼんやりしていた時だった。


いつの間にか、わたしの机の横に、部長さんが立っていた。静かな声がして、顔を上げると、彼は心配そうに眉尻を下げて、冒頭のごとく、提案したのだ。
無理もない。

わたしは、また、泣いてたらしい。

はあ、って、自分でため息をついて、ほっぺをぐりぐりとタオルで拭う。気が抜けている時は、無意識にだらだらと涙が出てるから、困る。いや、困るのは、たぶん、わたし以上に周りの人なのだ。

自分から、しばらく休ませてくださいって、頼むべきだったのかもしれないけど、それはそれで辛かった。ここで、家でひとり、ぼんやりする時間が増えたら、それこそ涙の止まる暇がないんじゃないか、って思ったりもする。

だから、部長さんや理央さんをはじめとする、会社の人たちに、心配どころか迷惑をかけてでも、出社し続けていた。

はあ。涙は気合を入れれば止まるのに、ため息は勝手に出る。


あ、理央さんが事務所に戻ってきた。気がついて、出入り口近くに席があるわたしは、
すぐに彼女を引きとめた。

「今日、一緒にランチしませんか」「あ、いいよ。あたしも、海空ちゃんに話したいことがあるんだ」

理央さんは、相変わらず忙しそうだ。でも、あれっきり、わたしにお見合いの話を持ってくることはない。

結城晃一さんとのことがうまくいかなかったときは、怒涛のごとく紹介カードを押し付けてきたのが、嘘みたい。仕事の鬼だと思ったけど、実はきちんと、わたしの状態を見極めてくれていたようだ。


迷惑かけて、申し訳ないな。なのにまた、お休みを貰うなんて、「営業の仕事」どころか、事務の仕事でも役に立てない。

だめだな、わたし。


戦力外通告!


そんな言葉が、わたしの頭の中に響く。

それは、仕事の世界で?それとも、恋をするうえで?今のわたしの中では、仕事も恋もごちゃ混ぜ。…ってことは、やっぱり、恋も戦線離脱、だな。

はあ。

また、しつこいため息が、ひとつ、冷たい机の上に、こぼれた。「あっついねー」

言葉とは裏腹に、強い日差しをものともせず、颯爽と、会社の外に歩いて行ってしまう理央さん。玄関で、もたもたと日傘を開くわたしは、相変わらず彼女とは程遠い存在みたい。

「うどんなら、大丈夫?」

理央さんが、さっぱりした口調で訊いてくれるから、「はい」って、素直にうなずいた。

理央さんが連れて行ってくれたお店に入って、冷たいうどんを注文してみると、期待通り、飲み込むことができて、ほっとした。いつの間にか、わたしを見つめていた理央さんも、ほっとしたように微笑むのを見て、ちょっと恥ずかしくなる。

気づいてるんだ。

わたしの食欲が落ちてるってこと。もちろん、全く食べられないってわけじゃない。その時の気分だとか、状況だとかで、多少何かを食べることができる。だけど、あったかいものとか、炊き立てのご飯とか、煮物とか、揚げ物とか、今までは好きだったものの方が、食べにくくなった。

なんだか、つわり、みたい。ふと、そういうことを思いつくと、駄目だ。ほろほろと涙が頬をこぼれて落ちて行く。理央さんは、なんだか自分が傷ついたみたいな顔になって、わたしをちらっと見ただけだ。

「迷惑を、かけて、ごめんなさい。わたし、すこし休むことにしました」

お互いに、わたしが泣いていることを口にするのももう面倒で、少し呼吸を整えて、すぐにわたしはそう切り出した。

「そう。しばらくは、それがいいかも」

理央さんは、そう言っただけ。届いた熱々の煮込みうどんに箸をつけて、ふうふう息を吹きかけている。

また、あんな熱いものもおいしく食べられるように、なるのかなぁ。

だと、いいな。


…ああ、また紗彩に「しっかりしな」って言われるな。ときどき心配して、連絡をくれる親友のことを思い出すと、涙は自然に止まった。


「私が、海空ちゃんに、変な仕事を依頼したせいで、ごめん」理央さんは、俯いて、ずるずるうどんをすすっているままだったので、一瞬、聞き間違いかと思った。

「海空ちゃんは、一生懸命、恋をし過ぎる。それを利用したのは、私だから、海空ちゃんが傷ついてることも、私の責任だと思ってるよ」

もぐもぐ、ごっくん。食べながら一気に話して、「ごめんね」って、今度はちゃんとわたしの目を見て言う。だからわたしは、あ、聞き間違いじゃなかった、って思う。


「給料は減るけど、普通に、私みたいに、萩原の社員になってみない?もちろん、休暇が終わってからのことだけど」

短い休憩時間、気が急いているのだろう。一気にそう言うと、理央さんは、わたしの返事も待たずに、またうどんをすすり始める。

理央さんが謝るようなことは、何もなかったと思う。


彼女が紹介してくれる人と、真面目に恋をする、という仕事を、むしろオイシイ話だと思って引き受けたのは、わたし。

玲音さんを紹介してもらって、一目惚れしたのも、わたし。

玲音さんに「会えない」って言われたのも、やっぱり、わたし。


また、とろとろと涙が目から流れる。
でも、それを気にとめている暇も、わたしたちにはない。会社に戻るためにかかる時間も計算に入れると、お昼休みは、残り少ないから。

こうして、少し遠いところにあるお店を選んでくれたのは、理央さんが、同じ会社の社員のいないところで、わたしが話しやすいように、って配慮してくれたような気もする。


「理央さん。ありがとうございます。そうしてもらえると、助かります」

ちょっぴりわたしのお腹に収まってくれた、冷やしうどんのお皿の前で、彼女に向かって頭を下げた。


これって、まさに「戦力外通告」だな、なんて思いながら。


だって、理央さんが紹介してくれた人と、真面目に恋をして、結婚を目指すこと。それが、わたしのしごとだった。でも、それが全然できなくなった。

元々、うまくいかなかったからって、「はい、次!」って新しい恋に踏み切るのが苦手だ。それが、今回に限っては、ある程度の時間が経ったと言うのに、踏み切るどころか足が動く気配すらない。

でも、このまま立ち止まり続けることになったら、どうしよう、って怖くなる気持ちも一切ない。

このままなんじゃないかな、ってうっすら思うこともあるけど、それはそれでいいか、ってひとりで納得してしまう。
わたしが「早く結婚したい!」「すぐに結婚したい!」って、騒いでいたなんて、そんなこと、あったっけ?って思うくらいだ。

結婚どころか、恋すらできそうにない。紗彩からは惚れっぽいなんて言われてたわたしは、どこに行っちゃったんだろう。

惚れっぽいかどうかは別として、自分でも認める恋愛依存症なわたしが、どこかに隠れてるだけなのか、消えてしまったのかは定かじゃないけれど、とにかく今はお見合いなんかできそうにない、ってことだけは間違いない。

だから、お見合いするのはこの際やめてしまって、理央さんみたいにサポートする側の仕事を、このまま手伝えるなら。渡りに船ってやつだな。生活していくには収入が不可欠だから。

理央さんの配慮に感謝して、一生懸命働こう。休暇の間に、へたばったりしないで、新しい仕事に集中できるくらいには、回復できるよう努力しよう。


そう、決心しながら、理央さんの後について、会社に戻ったのだった。
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