結婚したいから!

強引な依頼は三人目のお客様から

「石原。この前の顧客、Aブースね」

事務所に入るなり、部長さんが、ちらりとわたしと理央さんを見て、そう告げた。お昼休みが終わるまでにあと2分。理央さんを訪ねて、お客さんが来ているらしい。

「あ」と理央さんがかすかに声を漏らして、「海空ちゃん、えーっと、私が行くまで、Cブースでこの書類、A41枚にまとめておいて」と慌てたように言うと、そのまま消えていく。


ん?なぜ、Cブース?

今は、誰かのプライバシーに関わるような話を、理央さんとすることもほとんどないから、わたしも一般の社員と同じように、事務所の机を一つ使わせてもらって仕事をしているのだ。

だから、彼女の指示に違和感を覚えたけれど、そこは上司の指示、とりあえずは従って、Cブースに籠る。


読んだ資料の内容が、大方理解できて、それを持ち込んだノートパソコンで、要約してうち直す作業に差し掛かった時だった。

「ちょっと、いい?」

理央さんがノックもなく入ってきて、ちょっとびっくりしたけれど、作業を中断して、「いいですよ」と答えた。


「平河祥生(しょうせい)って人、知ってる?」


その名前が、鼓膜を震わせた瞬間から、たくさんの思い出が胸から溢れてくる。

「知って、ます!」


祥くんだ!!


わたしの、北海道時代の、幼馴染。紗彩と出会う前の親友と言っても過言ではない存在だった。

「…そう。今、Aブースにその人が来てて」

続きの言葉は、聞こえなかった。足が勝手に動いて、Cブースのドアを突き飛ばさんばかりにして、Aブースに向かっていたから。

ガン!!って派手な音がして、Aブースの簡素な扉は跳ね返ったんじゃないかと思う。バタン!!って勝手に閉まった音までしたから。

ほんの数メートルの距離を走っただけなのに、息切れして、動悸がして。

机に頬杖をついたままだけど、ちょっと頬を浮かせて、驚き顔になっているその人は。


「祥くん!!」


やっぱり、幼い頃の面影が残る、祥くんだった。
目にうっすらと張った涙の水面を通して、それを確認できたと思ったら、もう前が見えないくらい、ぼろぼろぼろぼろ、熱い涙が落ちて行く。

こういう温度の高い涙は、久しぶり、だった。


「海空、まだ泣き虫なおってねえんだな」


いい大人の涙を見ても、ちっとも動揺しないでくくっと笑っている彼の様子を見て、わたしってそんなに泣き虫だったっけ、って思う。


「…振られたんだもん。結婚しようって言ってたのに」

あれ、わたしって、こんな子どもっぽい涙声だったっけ。

ぐるぐると時計の針が逆戻りして、時間が戻ったみたいだ。祥くんとは、何年も会ってなかったのに、いきなりこんな話ができるんだな、わたし。
「なんでだ?」

頬杖をついたままで、静かに祥くんが訊く。相変わらず偉そうな態度。でも、いつでも、こうして、理由をちゃんと訊いてくれたっけ。

「ほかの女の子に、彼の赤ちゃんができて」

紗彩に説明するときには、ここにたどり着くまでに、もっともっと時間がかかったのに。


「その女には子どもを堕ろすように言い聞かせて、その男とは無理矢理結婚しちゃえばよかったのにな」


…。

「えええっ!?」

わたしが目を見開くと、祥くんはにこりともしないで、私の顔を見つめ直してくる。

「そんなことも思いつかねえの、お前」

びっくりして、すっかり涙が止まっていたことに、気がつく。祥くんに再会できて高揚していた気持ちも鎮まって、ゆっくりと、冷めていく。


「赤ちゃんがいなかったら、って考えたことは、あったよ」
…何度も、あった。

早川さんもそこがキーポイントだから、わたしを産婦人科での診察に立ち合わせたんだし、わたしが、身を引くことにしたのも、赤ちゃんの存在が一番の理由だと言ってもいい。

赤ちゃんはできてなかった、って結果だったら、もう一度考え直して、って、玲音さんに言ったかもしれない。彼は、別の女の人と寝たってことだけでも、わたしに顔向けできないって考えてたのかもしれないけど。

わたしは、早川さんのお腹に赤ちゃんがいなかったら、玲音さんに会えないって言われても会いに行ったんじゃないか、と思う。

今までみたいに、物わかりのいいわたしで、終わることができない恋だった。

赤ちゃんがいなかったら、って、怖くて汚いことも、何度も考えた。


「じゃあ、今からでも、そいつらのところへ行って来い」


じっとわたしの目を見据えてくる、祥くん。わたしの心の中みたいに、怖い目でも、汚い目でもない、澄んだ目で。


「…行かないよ」


彼のまっすぐな視線を見つめ返していたら、静かな声が出せた。
「赤ちゃんができたことは、現実に起こった出来事だから。わたしと彼は、もう二度と、元通りにはなれないもの」

たとえ、早川さんが赤ちゃんを堕胎したとしても。

玲音さんは、元通りの優しいだけの眼差しをわたしに向けてくれることはない。


「じゃあ、もう泣くな」


やっぱり、静かな祥くんの声が、心地よく耳に響く。



…そっか。

わたし、どこかでちゃんとわかってたんだ。

玲音さんが、自分の過ちを許せないのと同じように、わたしも、玲音さんが変わってしまったことに耐えられないってこと。

玲音さんは、早川さんと結婚しちゃうのかなって考えることもあったけど、そのことだって、今ではもう、どうでもよかった。

ゆっくりゆっくり、わたしたちらしく、結婚に向かって恋を楽しんでいける関係が、楽しくて、嬉しくて。あんな空気は、二度とわたしたちの間には流れないのだから。
わたしももう、玲音さんには、会いに行けない。

会いに行かない。



このことに気がついた今。

気がかりなのは、玲音さんの苦しみが、少しでも取り除かれたかどうか、ってことだけ。こんな思いを味わう羽目に陥っても、彼からもらった幸福感は、決して偽物じゃなかった。一生、わたしは玲音さんを恨むことはないと思う。

楽になってほしい。

わたしの心残りは、最後に見た、彼の、辛そうな表情だけ。


玲音さんが、あの魅力的な、笑顔を取り戻せますように。


もう二度と会えなくても、わたしは静かにそれを、祈ろう。

彼の胸中を、思いやる気持ちになれたのは、あの小さな公園で「もう会えない」って、言った彼の表情を見たとき以来のことだった。
「海空、落ち着いたら、さっきの担当者呼んで来い」

「うん」

言われたとおり、立ったままだけど、もう少し落ち着こうとグラスに注いであった水を一気飲みする。あ、祥くんのだったかもしれない。ま、いっか。

「お前のケータイ持って来い」

「うん」

言われたとおり、相談用ブースを出て、自分の机で仕事をしながら待っていたらしい理央さんに声をかけ、自分の机から携帯電話を持ってくる。

「貸せ」

わたしの携帯電話を貸すと、それを操作して、ポケットから出した自分の電話に付き合わせている。赤外線通信を使っているのだろう。


気だるそうなその表情も、大きい態度も、変わらない。

でも、大人になった。当たり前だけど。お互い様だけど。

あんなに手も肩も大きくなかった。こんなふうに、シックな色のシャツを着こなす人じゃなかった。目の力が強くなった。声が、ずいぶん低くなった。


見慣れていたのに見慣れない、祥くんの姿が、新鮮。
「今日、仕事が終わったら、すぐに俺に電話しろ」

「うん。わかった」

…ん?

祥くんの言うことは、全部、命令口調。なのに、全部、言うこときいてるし、わたし…。幼い頃も、いつも、こんなふうだったかもしれない。

普通なら、いくらわたしと言えども、ここまで命令され続けたら、さすがにムッとくるんじゃないかな。祥くんなら大丈夫なのは、どうしてだっけ?


あ、そうだ。いつでも、祥くんの言う通りにしておけば間違いなかったから、だ。

祥くんが、心底、意地悪な気持ちから、わたしに命令することってあんまり(全く、と言いきれないのはどうしてだろう)なかった気がする。


「いいですか?」

理央さんが、ノックとともに扉を開けて、中を覗きこんだ。

「どうぞ」

祥くんの声は低くて、威圧感すら感じる。と、思う、普通の人は。
「話は済んだ?」

理央さんは、こういう人にも慣れてるのか、部屋に入ると、わずかに口角を持ち上げた表情を作って、わたしに訊いてくる。

「はい。済みました。北海道に住んでた頃の、同級生です」

祥くんとの関係を、うまく説明するのは難しくて、それだけを伝える。理央さんは、頷くだけだ。

「じゃあ、事情は直接、九条と話してください。今回の紹介の話は、なかったことにしましょう」

理央さんが、祥くんにそう告げる。わたしは、その言葉を反芻してびっくりした。


「…しょ、紹介!?祥くん、お見合いするつもりだったの!?」

祥くんが、露骨に嫌そうな顔に変わっていく。

「そ、それに…、まだ結婚してないの!?」

よくモテたような記憶がある。と言っても、小学校の頃までしか、知らないんだけど。


「うるせえな。お前もしてないくせに」

うっ!

な、何かがざっくりと胸に突き刺さった!!
心底、鬱陶しいという顔で、鋭い言葉を吐きだされて、わたしはもう何も言えなくなった。何と言っても、初めて「この人と」結婚したい、と思った人に、振られたところだから。


わたしと祥くんのやりとりをみて、くすっと理央さんが楽しそうに笑うのを見て、ほわっと心が温かくなる。

そういえば、理央さんが笑うのを、久しぶりに見た。心配掛けてたんだろうな、わたし。手のかかる部下で、ごめんなさい。心の中で謝ってみる。

ありがとう、理央さん。


ありがとう、祥くん。


こんなタイミングで、現れた祥くんが、神様みたいに見えた。こうして、わたしが困っていたり、落ち込んでいたりするときには、いつも助けてくれたな。どうしてって不思議に思うくらい、いいところで登場するんだから。


子どもの頃、お別れするときには、言えなかった。でも、いつもいつも、感謝してたよ。


「ありがとう、祥くん」


言える。

今なら、言える。

わたしだって、大人になったから。こうして、感謝してるって気持ちを込めて、笑って言える。


「いつも、ありがとう」


感謝してたよ、って、子どもの頃のわたしの気持ちだって、一緒に込めて。

祥くんも、少し目を細めて、かすかに笑ったみたいだった。

この気持ちは、伝わったんじゃないかな。そう、思えた。

…やっと、終わった!!

終業のベルが微かに鳴って、ごそごそと机の上の片づけをはじめる。理央さんをはじめ、まだ残業をしそうな人たちも目に入るけど、今日は構っていられない。

「やっと」終わった、だって。この頃は、「もう」終わっちゃった、って、仕事が終わることが残念なくらいだったのに。この心境の変化をもたらしたのは、間違いなく祥くん。


彼があっさり帰ってしまった後、さまざまな疑問がわきあがってきたけれど、理央さんに質問しても「私もよくわからないから、直接、平河さんに訊いてみて」と言われるだけで。

終業時間を猛烈に気にしながら仕事をしていたら、短い夢でも見たかと思うくらい、大人になった祥くんの顔の記憶がおぼろになって、今はまた幼い頃の彼の顔しか思い出せなくなっちゃったけど。

自分の携帯電話の電話帳を開いてみる。

「は行」のところに、ちゃんと「平河祥生」の名前が見つかって、自分の頭におおよそは問題がないことを確認し、安心する。
「お先に失礼します!」

いつもはこそっと帰るくせに、気分が高ぶっているらしく、勝手に大きな声が出てしまって、自分でもびっくり。理央さんの苦笑いに、慌てて会釈をして、会社を後にした。

家まで帰って、ゆっくり電話をかけるなんて、できなかった。待ちきれない、っていうのもあったけど、祥くんが「仕事が終わったらすぐに」って言ったせいだと思う。

それに、こうして人通りの多い歩道を歩きながら、話した方が、気持ちは落ち着くような気がした。


カツ、カツ、カツ。控えめなヒールの音が、いつもより威勢よく聞こえるのは気のせいじゃなさそうだ。


数回のコールの後、「はい」って声がして、お昼に祥くんと再会したことが、妄想じゃなかったんだってわかる。

でも、電話を通じての声は、子どもの頃の名残が全くない。本当に、あの、祥くんかな?って不安になるくらい、低く響く声。知らない男の人にかかってたりして。


「わ、わたし。海空」

声を絞り出すと、「わかってるし」って馬鹿にしたような返事があって。

「今から俺んちまで来い」

って、また命令される。「うん」

ああ、間違いなく祥くんだと思う。この話し方に、自分中心のペースでの展開。

あ、そう言えば、電話での会話の進め方は、紗彩に似てる。そのことに気がつくと、わたしはかすかに微笑んでいた。

紗彩といて安心するのは、その前に祥くんと過ごした時間があったことも理由の一つだったのかな、って思った。


大きいマンションだなぁ。

電話で指示されたとおり、会社の最寄り駅からいくつかの駅を、私の家とは反対方向に通過して、ここにたどり着いた。

それにしても、北海道にいるとばかり思ってたから、意外と近くに祥くんが暮らしていたってことがわかって、びっくりだ。わたしの出た短大とも、働いたところとも、離れていて、たまたま縁がなかった場所だ。

「北口から出てすぐに目に入る、背の高い、茶色のマンションだ」って言ってたから、これだと思うけど。おじさんもおばさんも一緒に、家族3人で東京に引っ越してきたのかなぁ。指示されたとおり、部屋番号の後に呼び出しのボタンを押すと、カチャッと共用玄関のドアから音がしてから、「入れ」って低い声がした。普通、「はーい、開けるね♪」とか言ってから、ドアを解錠しないかな?なんか、その手順の違いも祥くんっぽいけど。

部屋番号のプレートを確認ながら、角部屋までたどり着く。あ、ここらしい。

チャイムを鳴らすと、すぐにドアが開いた。


「よく来たな。入れ」


少し笑って、祥くんは、わたしの頭にポン、と手を乗せた。開いた扉から、先にわたしを中に入れてくれる。

こうして近くに立つと、背が伸びて、手が大きくなって、ずいぶん大人になったんだなぁ、って、少し感動していたのに。


「迷子にならなかったか、泣き虫」


って、後ろから笑いをこらえた声で言われたら、そんな感動は吹き飛んだ。もうっ!

「もう大人ですから!」

ふくれっ面で振り返ると、やっぱり、見上げないといけないくらいのところに祥くんの意地悪な笑みを浮かべた顔がある。

「大人?ガキの頃から全然進化してないように見えるけどな」

「ええっ!?わたしだって、ちょ、ちょっとは成長してるはず!!そんなこと言って、祥くんだって、祥くん……は、大人、になったね……」


…惨敗。


顔とか体とかの成長だけじゃなくて、なんだか雰囲気が落ち着いた。祥くんは、悪ガキって言ってもいいくらい、やんちゃだったと思うけど、そんな感じはもうしない。

それに比べて、わたしは、いまだにふわふわふらふら、ぼんやりしながら漂ってるままみたい。


「だろ。わかったら、さっさと靴脱いで上がれ」

うん、と頷いて、パンプスを脱ぐ。その時初めて、この玄関に、靴が1足も出ていないことに気がつく。

「あれ?おじさんもおばさんも出かけてるの?」

おじさんはいないかもしれないけど、おばさんは専業主婦だったはずだから。買い物かな?


「いや、ふたりとも一緒には住んでない。そのことを話そうと思ってた」

へえ。この広い家にひとりで住んでるのかぁ。…寂しくないのかな。わたしなんて、あの小さな部屋でも、広く感じることがあるのにな。

リビングのソファも大きくて落ち着かない。コーナーも入れて、3人くらい寝れそう。片方の隅っこの肘かけにくっついて座っていたら、考えを読まれたみたいで、コーヒーを持って来た祥くんに笑われた。

「どうせミルクも砂糖もいるんだろ。っていうか、コーヒー飲めるの?」

「飲めるよ!ミルクも砂糖も欲しいけど…」

やっぱり、祥くんの記憶の中のわたしから、あんまり成長してないのかも…。

祥くんはおもしろそうに笑っていたから、続けて聞えてきた台詞が、本当に彼の口から出てきたのかどうか、疑わしいくらいだった。


「両親は離婚した。お袋は末期ガンで、入院してる」


すぐには、なんて言葉をかけたらいいかわからなかった。
良くも悪くもたいした変化のないわたしと比べて、祥くんの周りの変化の大きいことに、絶句したまま。

おじさんと、おばさんと、祥くん。どの人にも、助けてもらった記憶がある。今、そんな平河家の人たちが、バラバラだなんて。わたしの心もバラバラになりそうで。


「ばーか。俺のことで泣くんじゃねえよ」

「いたっ」

コーヒーを運ぶのが役割のはずのトレイで、遠慮なくバコンと頭を叩かれて、瞬きしたら、確かに涙がぽとぽととラグに落ちて、沁み込んでいった。


…っていうか、ほんとに頭が痛い!だから、自然と、返す言葉も乱暴になる。

「だから、お前に頼みがある」

「何よ!」

「俺と結婚するふりをしろ」

「はあ!?」


「お袋が、俺を一人で残して死ねないって、うるせえから」


心底、面倒くさい、って顔をしてるだけの、祥くん。

でも、やっぱりわたしは言葉を失ってしまう。どうしてこんな広い家でひとりで暮らしているのか、うちの会社でお見合いしようとしていたのはなぜか、その理由がわかったから。

癌で入院しているおばさんに、結婚するから心配するなって、言いたいだけなんだ。

祥くんらしいな。

ストレートなのかまわりくどいのか、よくわからないけど、聞いてしまえば、素直な優しさだと思う。

「わかった」

今まで、祥くんがわたしに頼みごとをしたことなんか、なかった。いつもいつも、わたしが何も言わなくても、わたしを助けてくれた彼に、何か恩返しができるなら、何でもしたいと思っていたのは、何年も前の日々なのにまるで昨日のことのようだ。

「頼むな」

「うん」

だから、頼まれたら、引き受けるに決まってる。笑いはしないけど、祥くんの顔が、少し穏やかになる。
「あれ?でも、どうして、あの会社で、わたしが働いてるって知ってたの?」

「は?お前、あの会社の社員?今日はたまたまいたんじゃねえの?」

「そうだけど…」

話してみると、多少、食い違いもあったみたい。


小学校4年生のある日、突然、北海道の片田舎に引っ越してしまった祥くん。彼が中学校を卒業すると同時に両親は離婚。大学卒業間近まで、母子二人で静かに暮らしていたらしい。

ところが、おばさんが乳癌を発病。祥くんの就職先がある東京まで、一緒に出てくるのは取りやめて、しばらく治療に専念することにした。

が、それから2年経っても、癌の転移や進行が止まらず、とうとう札幌の病院に転院したところ、そこで看護師をしているわたしの母と再会したらしい。


先月、母が家に来た時には何も言ってなかったから、あの後のことだろう。本当につい最近の話だと思う。
母は、おばさんに、わたしが東京の大手お見合い会社に登録してる、とだけ、話したらしい。ひょっとしたら、転職したのは別の会社だと勘違いしているのかもしれない。

とにかく、その話をおばさんから聞いて、祥くんが萩原コンサルティングサービスに出向いてきた、と言うのがこの奇跡的な再会の布石だった。

もう結婚相談所の顧客としての登録は抹消済みなんだけどなぁ。わたし、戦力外だし…。


「昨日の夜、九条海空って奴が登録してるか、って訊いたら、あの担当者、妙に冷たい目で俺を見やがるから、変だと思った。登録してるかどうか確認してみるから、って言われてとっとと帰されたぞ。今日、無理矢理来てみて正解だったな。

それにしても、登録を取り消して、社員になってるなんて、お前らしくて笑える」

どうやら、昨日、初めて会社に来た祥くんのことを、今日のランチのときに話すつもりだったんだな、理央さん。わたしを名指しで探している人がいるって。


でも、わたしの様子を見ると、もうお見合いの話をするのもどうかと思って迷ってたに違いない。

結局、時間切れで会社に戻ったら、すでに祥くんがアポなしで来てた、ってことなのだろう。

部長さんの話から、そのことを察した理央さんは、とりあえず、わたしをCブースに隠したのかな?


「だって、ね。もうお見合いなんかできる状態じゃないんだもの」
わたしは、笑えないよ、まだ。


今日、祥くんに言われて、もう玲音さんとは会わないって、わたしも思うことができたけど。でも、まだ彼のことを忘れられそうにはない。長い時間がかかるのかな。

だらだら涙が出てくるわたしを見て、あろうことか、祥くんは舌打ちする。


「海空、ここに住め」


「ええ?」

さすがに、「うん」とは言わなかったわたし。

なんで、舌打ちするんだ。なんで、祥くんの家に住まなきゃいけないんだ。

だいたい、ここは、広すぎて居心地が悪い。


「お袋の容体が落ち着いて一時退院できたら、こっちに呼び寄せるつもりだ。病院も転院させる。ここで、約束どおり、嫁のふりをしろ」

「はああああ!?」

ちょっと、待って。いやいやいや、なんか、本格的すぎない?

おばさんもここに引っ越してくるから、その目の前で、祥くんと夫婦のふりをしろって!?

「ムリムリムリムリ!そんなに長い時間一緒にいたら、嘘だって、ばれちゃう! 」

「なんでだよ」

「わたし、お母さん以外の人と暮らしたことないし、なにかと挙動不審になりそう!!」

「挙動不審は普段からだろ」

…えええっ!?そうなの、わたし!?


「そ、それに、おばさんにも嫌われると思う!」

「なんで」

「アイロンかけたら皺になるし、料理もできないし、いいお嫁さんの真似ができない!!」

勢いで言ってしまうと、とうとう祥くんがお腹を抱えて笑いだして、わたしは一気に赤面した。うわぁ、言わなくていいことまで暴露してしまった…。

「お前、そんなんで、よくまあ、結婚しようとか考えたな」

た、たしかに。でも。でも。


「だって、寂しかった」


何の考えもなしに、そうやって、本音を言ってしまったのは、わたしの育った環境もよく知ってるはずの、祥くんだからかな。
「じゃあ、なおさらここにいればいいだろ」

「ここは広すぎて寂しいよ」

「お前、ひとりで住むつもり?」

「ん?ああ、そっか。祥くんもいるのか。…って、寂しくない代わりに、いじめられそうだし…」

いや、いじめられる、確実に。絶対こんなところに来るもんか!そう、固く決心をした。…はず、だった。


「じゃないと、お袋が死ぬ前に、海空が死にそうだろ」


そうぽつりと呟いた、祥くんの目は、静かだけど、わたしの目の奥まで覗き込んでくるみたいだった。

わかりやすいような、わかりにくいような、その優しさから、わたしをここに呼び寄せようとしていたのだということに、ようやく気が付いた。

そして、「お袋が死ぬ前に」というその言葉の響きの切なさ。わたしにも、家族は母しかいない。その一言をさらっと言えるのは、すでに覚悟をしているから?
「女癖の悪い男に振られたくらいで、めそめそすんな。もっとがっつり飯食って、出るとこ出して、見返してやれ」


……?

…ちょ、ちょっと!!失礼な表現、満っ載なんだけど!!


「悪いのは女癖じゃなくて酒癖だし!!そそそそそれに、出るとこ出てないってこと!?祥くんのエッチ!!無神経!!変なとこ見るな!!」

きーっ、と、頭に血が上ってしまって、再び、言わなくてもいいことまで口走ってしまう。

もう!一瞬で消えた、さっきの感動を返してほしい!

祥くんは再び、大笑いしながら、「お前みたいに貧相な体型、わざわざ見る気もしねえよ」って言い放つ。

女として見られてないんだな、ってことに、どこか残念な気持ちと、なぜかずいぶんと安心する気持ちとが、生まれてくる。


「食材買いに行くから、ついてこい」

なんとか笑いを抑えて、祥くんは、わたしの返事も聞かずに、コーヒーを飲み終えたカップをキッチンに持って行ってしまう。
彼について、車に乗せられてから、ふと、思った。

「あれ?車があるのに、なんで会社まで迎えに来てくれなかったの?」

「ついでに会社から帰る道を覚えておいた方が、効率いいだろ」

…どれだけ、計画的犯行なんだろう!そこまで考えてたんだ…。わたしは、祥くんの掌の上で踊らされているみたい。

どうやら、どう転んでも、しばらくの間、わたしはこの家に住むことになりそうだ。「えっと…、彼女にプレゼントでもするの?」

立ち寄ったセレクトショップで、適当にポンポンと洋服を選んで、店員さんに持たせていく祥くん。

「彼女がいればお前に偽装結婚持ちかけたりしねえよ」

「確かに」


じゃあ、何に使うんだ、この大量の洋服!!効率がいいのか大胆なのかよくわからない、この買い方!

もしかしたら、祥くんは同業者?婦人服のバイヤーとか、なのかも。

だってだって。わたしの場合、自分の洋服を買うときには、ぐるっと店内を、せめて一周はしてから、どの服がいいかな、って考える。

でも、祥くんは店に入って通りすがりに次々と、服を手にして、一周もしないうちに店員さんは両手がいっぱいになっている。あれでもちゃんと選んでるのかな?


「これで支払いたい」

そう言って、祥くんがカードを渡すと、店員さんがきらきらした目で「かしこまりました!」と答えた。そりゃあ、これだけたくさん買ってもらえたら嬉しいよ…。


そのまま、祥くんはさっさと店を出ていく。

え、もう終わり!?

小心者のわたしは、お店の真ん前に違法駐車している車のことがずっと気になってたけど、このスピードで買い物するなら、平気なのかも。祥くんは、もうお店を振り返ることもなく、運転席に乗り込んでいる。

店員さんも、慣れた様子で、カードを祥くんに返しにやってくる。それから、2人がかりで大量の紙袋を、「トランクに」と言われたとおりに詰め込んで、バタンとトランクも閉めてくれたらしい。

再び車が動き出してから、10分くらい経っただろうか?

「ちょっと会社に寄ってくるから、着替えを買って来い」って、街の中で車から降ろされた。やっぱり、洋服を扱う会社で働いてるのかな。さっき買った服、全部置いてくるのかな。


「30分でここに戻って来い」

「ええっ!!」

…って!!返事も聞かないで走り去っちゃったけど!!
なんとか、すぐ近くのランジェリーショップで下着と部屋着を買ったけど、走って戻ってきたら、もう同じ場所に、祥くんの車が停まっていた。

30分で買い物なんかできないってば!!

…あ、祥くんはできるんだったか…。


「おっせえ。飯買いに行くぞ」

「うん。ごめん」

「息切れしてんのか」って、祥くんは笑いながら、アクセルを踏んで、車を発進させる。まあ、許してやるよ、って言いたいんだと思う。

そのまま、たぶん、彼のマンションの方へ向かっているんだと思う。


「ごはん、食べに行くんじゃなくて、買いに行くんだ?」

「心配しなくても、お前のまずい飯なんか食う気ねえし」

「ちょっと!!すごく失礼なんだけど!!」

さっき口が滑ったことを思い出す。まあ、ほんとのことだけど…、たしかに、作らなきゃいけないことになったらどうしようって、心配してたけど…。
祥くんに向けた小さな怒りが収まると、次第に自分の中へと、意識が向いてくる。

通り過ぎる景色の中に、ケーキ屋さんを見つけるたびに、ちくん、ちくん、と胸の棘が自己主張してくる。小さな公園を通り過ぎるたびに。背の高い男の人を見るたびに。

ちくん。ちくん。

気持ちの上で、ある程度は区切りがついたと思う。それでも、痛みだけは正直で、受けた衝撃の大きさだけは、いつまでも伝えてくる。


「着いたぞ、泣き虫」


はっと気がつくと、広い駐車場に、祥くんの車が停められた後だった。

今にも潰れそうな様相のスーパーが、目の前に建っている。

「うん」と言いながら、慌てて頬をごしごしと拭う。どうやら、またトリップして泣いていたらしい。

さっさとスーパーの出入り口に歩いて行く祥くんの後を追う。


「…ぶっ」
まずい、と思いながらも、我慢できずに吹き出したら、祥くんが明らかにムッとした顔で振り返った。

「なんだよ」

「…買い物かご、似合わないね!」

開き直って、笑ってやる。だって、あんなむすっとした冷たい顔してるくせに、深い青のシャツを綺麗に着こなしてるくせに、古めかしい黄色のレジかご持ってるんだもん。

「うるせえ」

口ではそう言ったのに、祥くんはわたしの頭を叩いたり、暴言を吐いたりしなかった。


「あれ?怒らないの?」

一瞬、祥くんは迷ったように沈黙したけれど、諦めたように、こう言ったんだ。


「お前が笑うなら、いくらでもこのきったねぇかご、持ってやる」


胸に、その不器用な優しさが、沁みていく。

祥くんはと言えば、もう前を向いて歩いて行ってしまってる。どんな顔をしてるんだろうな。

どうせ、優しさなんて、よく探しても、滲んでもないような表情を作ってるんだろうな。
そういえば、おかしくて笑ったのなんて、いつぶりだろう。少なくとも、祥くんに再会したお昼から考えたって、初めてだし、もしかすると、何日も笑ってなかったかもしれない。

昔、祥くんと一緒に遊んでた頃は、毎日げらげら笑ってたような気がするのにな。

懐かしい人に会えたのに、わたしは、まともに笑うこともできない状態で。涙線はゆるゆるのぼろぼろで。

祥くんは、乱暴な口調で、そんなわたしに好き勝手なことを言ってるだけ、みたいなのに。


再会した時から、わたしの様子が、おかしいって気がついてくれて。

短い言葉で、わたしの心境をまとめてくれて。

強引に、自分の傍にとどめて見守ってくれて。

一歩引いたところで、わたしの様子を静かに見つめてくれている紗彩や、理央さんとは、また少し違う優しさで、わたしを癒してくれている。


「…ほんと、似合わない。祥くん、このスーパーも全然似合わないよ」


少し、笑ってみる。


きっと、これが、祥くんの優しさに対するお礼になるって信じながら。きっと、この笑みが、そのうち自然に出るようになるって信じながら。
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