結婚したいから!
休暇は心身の療養に最適
「は?」
紗彩が、お箸でつまんでいたレタスを、ぽとりとテーブルの上に落とした。
今日は少し早く上がれそうだから、夕飯だけ一緒に食べない?っていう内容のメールが来たのは、わたしが、家でひとり分のパスタソースを作り終えた時だった。
紗彩と会えるのは久しぶりだったから、急いで電車に飛び乗って、こうして洋風の居酒屋に来てる。
「だから、そう言うわけで、祥くんの家に居候してる」
うーん、紗彩がすると、ぽかんとした口もなんだか色っぽいように見えるのは気のせいだろうか。どうしてまぬけ面にならないんだ!と、ひがみから、どうでもいいことを考えていたので、久々の紗彩からの爆弾攻撃に、備えができていなかった。
「もう寝ちゃった?」
「え?まだ8時だし、起きてるでしょ。会社で仕事してるかもしれないけど、なんで?」
「…何寝ぼけたこと言ってんの?わざと?あたしは、あんたがその幼馴染に抱かれたのか、って訊いたんだけど」
「へっ!?ななななないない、そんな事実はない!!」
紗彩の発言の指すところを、ようやく理解して、全力で否定する。
「ふーん」
なんだか、変な顔で見てくるんだけど、紗彩ちゃんが。いや、顔は変じゃない。綺麗。表情が、訝しげ。訝しげな表情が、徐々に柔らかく緩んで。
するり、とわたしは頬を細い指で撫でられて、その指の優しさを感じる。
「まあ、それはどっちでもいいんだけどさ。あたし、とにかく安心した。一時期よりもずいぶん元気になったし、お肌もつやつやになったし…。うーん、あと、やけにあんたが自分に似合う服を着てるし…、いろいろ気になっただけ」
そう、なんだ。わたしを何年も見てきて、玲音さんと別れて以来、かなりの心配をかけてきた紗彩が言うなら、きっとそうなんだろう。
「それは全部、祥くんのおかげ、ってことは確かかも」
一緒に暮らすようになって、まだ1週間。いや、もう1週間か。ずっと前から一緒にいて、北海道から一緒にこっちに出てきた、みたいな感じすらする。
そうは言っても、家で祥くんと顔を合わせる時間は、それほど長くない。
わたしは、お盆休みまで、ずっと仕事を休むことになっているから、好きな時間に寝て、起きる、といういい加減な生活だ。
でも、祥くんはびっくりなことに、IT関係の会社を立ち上げて、経営してるらしいから、一応は毎日会社に出かけていく。
それでも唯一、必ず顔を合わせる時間がある。
それは、朝ごはんのとき。
なぜなら、問答無用で朝の6時に叩き起こされるからだ。
わたしは、朝が苦手だ。それなのに、祥くんは容赦なく毎朝、布団をはぐ。「ひどい!」って文句をぶーぶー言ったのは、はじめの朝だけだった。
なぜなら、祥くんの作る朝ごはんが、美味しいから。
祥くんが強引にわたしを家に連れて帰ったあの日、彼はあのボロボロのスーパーで、お惣菜を買わずに、お肉やお魚、そして野菜を買った。ソファーの隅でうたたねして、いい匂いで目が覚めたら、子どもの頃の一番の好物、ハンバーグができていたのだった。
泣けた。ほんとに。
憶えていてくれたんだと思う。わたしの好きな食べ物を。自分でも、すっかり忘れてたのに。
「しょーもねぇ。今時、食べ物のことくらいで泣くな」って、祥くんはまたトレイでわたしを叩いたけど、わたしは、泣きながら、ハンバーグを食べた。
たくさんは食べられなかったけど、美味しくて、嬉しくて、ちゃんと飲み込むことができた。
それから、彼は毎朝、わたしの分のご飯も作ってくれる。炊き立てのご飯に煮魚やお味噌汁が出てくる日もあれば、フレンチトーストにサラダやスープが付いてくる日もある。間違いなく、わたしが居候をする前から自炊していたんだろうな、っていう腕前だ。
味は、罰当たりなことに、すっかり忘れていた、祥くんのおばさんの料理のことを思い出させた。わたしたちが通っていた幼稚園の保護者会の会議で、運悪く会長のくじを引き当てたおばさんと、同じく副会長のくじを引き当てた母は、任期の1年で、すっかり意気投合。家も近かったから、わたしの母が不規則な勤務で留守がちなこともあって、わたしはおばさんに夕飯をごちそうしてもらうことも多かった。
祖母の作った食事を食べることが多かった私は、シチューやスパゲティやグラタン、という、洋食を作れるお母さんが存在するってこと自体に驚愕したものだ。そういうものは、外食にしかありえない、よそいきのメニューだと思っていたから。
美味しかったな。おばさんのご飯。
そう考えると、祥くんは、やっぱり、わたしにとってはただの同級生じゃなくて、兄弟にも近い人だと思う。
「手作りのご飯を食べる生活って、実家を出て以来なんだよね、恥ずかしながら。祥くん、野菜もたくさん入れてくれるんだ。だから、栄養状態がいいんだと思う。自分でも、体調がいいってわかるもん」
そう言うと、紗彩は、はあ、とため息をついて「羨ましい」と言った。わたしが彼女によく言う台詞だけど、言われたのは初めてかも!
「で、その服も、幼馴染が見繕ってくれたってこと?」
「う、うん」
正確に言うと、見繕ってくれただけじゃなくて、買ってくれた。あのときは、祥くんは洋服買うのが仕事なんだろう、って思ってたけど、そうじゃなかった。結論から言えば、あの洋服は全部わたしのものだった。
家に戻ったら、「クローゼットに入れとけ」って言われたから、包装を解いて言われたとおりに片づけておいた。翌朝、前日と同じ服を着てリビングに行くと、「馬鹿じゃね?着替えて来い」って言われて初めて、あれがわたしの服だったってことに気が付いた。わかりにくい!
びっくりしたけど、前日に片づけながら「こんな服も素敵だなぁ」なんて思ってたから、遠慮なく1枚のワンピースを選んで着てみた。サイズもちょうどいい。自分では選ばない色で、デザインで。
…なのに、どうして、似合うんだろう。
祥くんって、センスがいいのかな。仕事では、ホームページのデザインとかも、引き受けてるみたいだし。
そう思って、再びリビングに戻ると、まだ不満げな様子で、今度は祥くんが部屋を出ていく。戻ってきた彼の手には、それに合わせるらしい、アンダースカートや小物が握られていた。
そんなことで、毎日、わたしは自分に似合う服を着ることができるようになった。「完璧な男だね。どうせ顔もいいんでしょ」
「…うーん、『完璧』とは、ちょっと違うかも。確かに目立つ欠点はないんだけど、素直じゃないって言うか、意地悪って言うか、そうそう、わかりにくいって言う人が多かったかなぁ。
それに、わたしは、きりりとしたいい顔してると思うけど、他の友達には、怖い顔とか、冷たい顔とか、言われてたよ」
思い返してみると、そうだった。
「なんか、誤解されやすい人」
鬱陶しがられても、祥くん祥くんって言って、付きまとってたのはわたしくらいだった。祥くんは、男女を問わずたくさんの人から好かれてたと思うけど、それは親しみを感じるようなものじゃなくて、遠巻きに憧れの目で見られてる、っていう表現が一番近かった。
詳しくは知らないけど、誰かと喧嘩したって噂を聞いたこともあったっけ。
それが本当かどうかはわからないけど、そういう噂もあって、皆に怖がられてたのかな。
「周りの意見なんか、どうでもいいでしょ」
くだらないと書かれた顔で、紗彩は、はっきりした声でそう言い捨てて、わたしの方へ目を向ける。
「え?」
「海空から見て、どうなの?」
わたしから見た、祥くんは…。
「…完璧、かも…」
確かに、わたしは、彼のことを無条件に信じてるし、大切な人だと思っている。わかりにくくても、本当は、絶対に優しい人だと言い切れるし、わたしが辛いときには必ず助けに来てくれるって、ずっとずっと思ってた。
「だろうね」
ぱあっと華やかに、紗彩が笑う。いつでも、なんでも、親友はお見通しだ。
「…なんなの?」
気がつく前に、口から言葉がこぼれていって、「は?」って紗彩が訊き返してくる。
「紗彩、また綺麗になってるんだけど…、なんで?」
黙っていても、冷たい表情を作っていても、紗彩は美人だ。笑ったら、もっと綺麗。
でも、さっきの、笑顔の華やかさは、前に会ったときの比ではない。
「…あんたって、鈍いのかと思うと、妙に鋭いところもあるよね」
「え?どういうこと?」
「あたし、彼氏ができた」
きょとんと見つめ返すわたしから、さっと目をそらした紗彩。そのきめ細やかな頬は、かすかに桃色に染まっている。
「あ、ええっ!?彼氏!?お、お、おめでとー!!」
「もう、声でかすぎる!」って紗彩がわたしの口を手で塞ぐ。申し訳ないけど、まわりのお客さんなんか全く目に入らない。だって、紗彩が、紗彩が赤面したのなんか初めて見たんだから!!
かわいい!かわいすぎる!!
「そう言えば、いつぶりだっけ、紗彩に好きな人ができたのって…。なんかいつもわたしの話ばっかり訊いてもらってて、ごめんね」
少なくとも、ここ数年は…、いや、もしかして、短大の頃、以来?ええっ!?
外も中も綺麗な人だから、何の心配もしてなかったけど、よく考えてみれば、長い間、男の人の気配が全くなかった。「…あれ?紗彩ってもしかして…、すっごく奥手だった…?」
まさかだけど、その可能性がないわけじゃない、って気がついて。でも、あれ?過激な発言の数々は、何だったんだろう、とも思う。
「…元は、そうじゃない。自分から積極的に追いかける方だったと思う」
うん。そうだ。そういうイメージが強かった。
「でも、今付き合ってる人は、だめだった。彼を好きになったときから、あたしらしい恋っていうものが崩壊した気がする」
何かを思い出すみたいな目をしている紗彩。彼女は、元来、しっかりと自分の考えや理想を持っている人だ。それは恋に関してもそうだったはずだ。
それが崩れるくらいの人って、一体どんな人なんだろう。
「うまく言えないけど。海空には、また彼を紹介するから」
少し微笑んだだけなのに、紗彩のさらっとした空気がふんわりと柔らかいものに変わる。
これって、いわゆる「幸せオーラ」だよね。
紗彩の話をもっともっと聞いていたかったけど、彼女は翌朝早くから仕事があるらしくて、また次に会う約束をして、わたしも電車に乗った。