結婚したいから!
やっぱりお盆は実家に帰省
「盆は実家に帰るのか?」
祥くんが作った、美味しいうどんに夢中だったから、彼の言葉をつい聞き流してしまった。
んー、朝から、ちゃんとおだしをとったおつゆで、お野菜たっぷり、しかもとろとろの卵入りのうどんなんて、最高!!
「あー、おいしい!寝起きの体に沁みわたる!」
「俺の話を無視すんじゃねぇよ」
頭を叩かれて、ようやく、祥くんの方に「なんだっけ」と向き直る。
「盆は実家に帰るぞ」
あれ、微妙に言い方が変わった気がするんだけど。それと同時に、どことなく、堅い、祥くんの顔にも気がついて、はっとする。
「うん。祥くんと一緒に帰る」
彼は、頷きながら、小さなため息を漏らしたこと、自分では気づいてないんじゃないだろうか。
そのため息は、不安から来るのか、安堵から来るのか、わたしに対する呆れから来るのか、わたしには判別ができなかったけど。
きっと、一緒について行った方がいい、って直感が働いた。わたしも、気にはなっていた。何度か、訊いてみようと思ったこともあった。
祥くんのお母さんのこと。おばさんは、今、どんな容体なのか、ってことを。
萩原コンサルティングサービスの相談用ブースで再会した、あの日以来、祥くんは、一度もおばさんの話をしない。
それは、特に話すことがないだけなのかもしれないけど、話したくないのかもしれないって思うと、結局、こちらから訊きだす気にはなれなかった。
祥くんにとって、たった一人の家族であるおばさんが、長期入院してるなら、彼は実家を引き払ってここに越してきたんだと思う。空き部屋のクローゼットには、おばさんのものが詰まっているらしい段ボールが、ガムテープで封をしたまんま、いくつも押し込まれてる。
だから、祥くんはわたしの状況に合わせて「実家に帰るぞ」って言ったけど、あっちに実家のない彼は「札幌の病院に行くぞ」って、言いたかったんじゃないかな。
何も話さない祥くんは、わたしに頼るつもりなんて、ないんだと思う。
だから、今のところは、彼が唯一わたしに頼んだ「俺と結婚するふりをしろ」ってことを、全うしようと思う。
何をしたらいいのかよくわからないけど、おばさんに、祥くんはひとりじゃないよ、ってことをわかってもらえたらいいんだよね?
おばさんに、祥くんの優しい気持ちが、伝わるように。そのお手伝いが、できるように。
札幌に帰ったらがんばろう!って、決意を固めて、久しぶりに自分が元気になった気がしたところで。
「お前、なんか変じゃね?」
って、祥くんがぽつりと言うから、ぎょっとする。
「ええ?わ、わたし?どこ、が?」
「めそめそ泣くことは減ったけど、ぼけっとしてることが増えただろ。ここ1週間くらいのことだけど」
そう、だっけ。
自分では思いも寄らなかった変化を指摘されて、思わず黙り込んだ。
その時、祥くんの仕事用の携帯電話が、ピリピリと鳴って彼を呼んだ。
「また今度訊く」と、短く言うと、電話で話し始め、通話を続けながら歯磨きをし、そのまま仕事に出かけてしまった。
ここ一週間、か。
早川さんが、会社に訪ねてきたのが6日前のことだ。彼女と話をしたことが、わたしに微妙な変化をもたらしたに違いない。
知らないと余計に気になるってことが、あると思う。だから、早川さんが、自分と玲音さんの近況を教えてくれたことで、ある程度、堂々巡りの思考が落ち着いた、と、自分では思ってた。
ちょっとしたことで、だらだら涙が流れることもなくなったし。
そのかわりに、ぼけっとしてるのかな、わたし。まあ、いつものことだよね、って紗彩あたりには言われちゃいそうだけど。
じゃあ、何かやろうかな、って思って、ピンクさんの美容院に電話をかけてみた。予約カードの裏を見ると、前回の日付は1か月前。
まだそれだけしか経ってないのか。玲音さんに会えなくなって。早川さんの妊娠を知って。仕事でも恋でも戦力外になって。祥くんに再会して。
嵐みたいな1か月だな…。
「もしもし?」
ああ!電話中だった。耳元で人の声が聞こえて我に返る。
ピンクさんを指名して、メニューはおまかせで午後からの予約を取ることができた。
ピンクさんにパーマをかけてもらったときのあのうきうきした気持ちを、もう一回感じてみたいな、と思う。
祥くんいわく、「ぼけっとしてる」ことが多いらしいから、いつも行くあのボロボロのスーパー以外の、どこかに出かけた方がいいよね。
午前中は、ベッドのシーツを洗って、部屋中に掃除機をかけた。料理は苦手だけど、掃除は嫌いじゃない。
特に、こうして気分が塞ぎがちな時には、体を動かしているだけでも、無心になれるのがいい。作業が終わったときに、部屋がきれいになってると、またそこで気持ちが落ち着く。
なんだか、ぐちゃぐちゃに散らかった心の中の整頓をしてるみたいだな、って、いつも思う。
「あれぇ?雰囲気変わったぁ…」
ピンクさんが、わたしを見るなりそう言った。服装が変わったら、雰囲気も変わるものなんだろうな。
「決戦は終わったのぉ?」
ピンクさんは、わたしのふわふわの髪を撫でて、バランスを確かめるように、鏡の中でもわたしの髪の毛しか見ていない。
「終わりました。負け試合でしたけど、綺麗にしてもらってたから、みじめな気分にはならずに済んだ気がします。ありがとうございました」
詳しく知らない人が相手だからなのか、泣きそうになることもなく、そう言うことができて、とりあえずは自分の精神の回復具合に一安心する。
「そぉ。ヘアとメイクのことなら、まかせてぇ。今日は、またテイストを変えてみるかぁ」
ピンクさんは、楽しそうににこにこし始める。この人も、本当に仕事が好きなんだなぁ。
どピンクの眩しい髪の毛も、グリーンのアイシャドウの上にキラキラのストーンまでくっつけた瞼も、もうわたしを不安にさせることはない。
きっと、わたしに似合うように、考えてくれるはず。
…と、思ってたけど。
「あ、なんか懐かしい」
テイストが変わったっていうよりは、元に戻った、という感じだ。
「ふふふふふ。そぉなのぉ?これ、海空ちゃんの地毛に近いんだぁ」
そう。ピンクさんは、限りなく黒に近い焦げ茶色に髪を染めてくれて、ストレートパーマをかけたらしい。流していた前髪を短く切って、額に下ろしてある。
「なんかぁ、生地のいいシンプルなワンピースをさらっと着てるでしょぉ。小物も革とかで、ナチュラルな感じ。
無理に大人っぽくしなくても、海空ちゃんらしい髪形がかわいいんじゃないかって、勝手にイメージしてみたんだよぉ」
そっかぁ。わたし、無理な格好してたのかなぁ。自分ではよくわからないけど。
ピンクさんは、サイドの髪を器用に編んで、反対側まで持ってくると、そこでバックの髪もすべて編み込ん行く。最後に、耳の傍に小さな花がついたピンを刺してくれる。
「森でお花を摘んできた女の子、って感じぃ」
そう言って、メイクも色を抑えたナチュラルなものにしてくれる。最後に、チークだけは綺麗なピンクで。
「ほらぁ、これも良く似合うぅ。ふふふ。楽しいわぁ」
ピンクさんが楽しそうだから、わたしまで楽しくなってきて、ここに来てよかったなって素直にそう思った。
たまたま予約が2時から取れたけど、ピンクさんのサロンは、平日でも結構お客さんが来る。わたしがお店に入ってからも入れ替わり立ち替わりお客さんが来て、その中でのカラー、パーマ、メイクってフルコースだったから、サロンを出るときでも、もう6時を過ぎていた。
晩ごはん、どうしよっかなぁ。どこかで食べるのもひとりは寂しいし、買って帰った方がいいかな。
いやいや、でもその前に、祥くんの作ったごはんの残り物がないか、冷蔵庫覗いちゃお。
そんなどうでもいいことを考えながら、「ただいま」って呟いてドアを開けたら「おかえり」って返事があった。
祥くんが帰ってる!玄関に並ぶ靴を確認したけど、祥くんのレザースニーカーが1足あるだけだ。
嬉しくなって、急いで靴を脱ぎ捨てる。リビングのドアを開けると、ソファで座って読んでいた雑誌から、祥くんが顔を上げて、固まった。
「え?なに?ああ、髪形が変?だって、祥くんがわたしのこと、ぼけっとしてるっていうから!どこかに出かけてみようかと思ったんだけど、美容院くらいしか思いつかなくて。
…ねえ、祥くん?」
わたしじゃなくて、祥くんの方が、よっぽどぼんやりしてる。
「どうしたの?」
隣に座って、顔を覗き込むと、ようやくはっとした様子で、彼が瞬きをした。
「まるで10歳のガキみたいだったから、びっくりしただけ」
その顔には、今ははっきりと意地悪な笑みが浮かんでいて、心配しかけていたわたしが馬鹿みたいだった。10歳と言えば、まさに、わたしと祥くんがお別れした歳だ。
「もうガキじゃないの!25歳のレディーだから!」
結局、わたしは、毎度毎度、ふくれっ面を晒すことになる。
「で?そのレディーに、何かあったわけ?」
今日は、幸くんも来ていないみたいだし、立て込んでいた仕事が片付いたんだと思ってたけど。もしかしたら、そうじゃないのかもしれない。
朝「また今度」って言ったのは、社交辞令じゃなくて、本当に、近いうちにわたしの話を聞こうって、思ってたのかもしれない。
「…何ってほどじゃないんだけどなぁ…」
祥くんに言われなければ、自分の変化にだって気がつかないくらいだったから、大したことじゃないんだと思う。だから、そう前置きしてみるけど、祥くんは返事もしないし、静かな表情も変えない。
「えっとね、前に話した、妊娠した女の子がね、わたしに会いに会社まで来たの。彼女は子どもを産む決意をして、彼とは結婚しないでひとりで育てるつもりなんだって、教えてくれたんだよ」
話してしまえば、それだけのこと。短い話だ。
「なんで、そうぼんやりしてるんだろうな、お前は」
「…わからないよ。自分では気が付かなかったくらいだから」
「じゃあ、いつも何を考えてる」
何って、何って言われても、…何だろう。まとまったことは、考えてない気がする。
「男のことだろ」
まっすぐわたしを見つめる祥くんの目は、少しも揺れていない。
揺れてるのは、わたしの目の方だ。「ちがう」
「ちがわねぇ」
「もう忘れた」
「忘れてねぇ」
「もう嫌い」
「嫌いじゃねぇ」
―――嫌いになれたら、いいのに!!
心の中で、そんな言葉が弾けた。
早川さんのことも嫌いになり切れなかった。玲音さんのこともひどい人だって、嫌いになれたら、もっと早くふっ切れる気がするのに。
持ったままのバッグから、わたしがハンドタオルを出して、涙で濡れた顔をごしごし拭いていも、祥くんは知らん顔をしてる。
もう、せっかくピンクさんにつけてもらったチークが、早速剥げたでしょ!意地悪!
寝てるときだけは、優しく指で拭ってくれるくせに!…心の中でだけ、毒づいておく。
「海空、やっぱり、そいつに会って来い」
祥くんは、どこまでも意地悪なことを、言ってくる。
「会えない!会わない、会いたくない」
玲音さんがわたしと会いたくないんだ。どんな理由にしても、会えないって、言ったんだから。
かたくなに、抵抗するわたしに、祥くんが大きなため息をついた。
「おまえは、まだ納得してないんだよ。何かがひっかかったままで、前に進めない」
祥くんの視線も緩んだから、わたしも、彼を睨むのをやめて、真意を探ろうと、表情を見つめるけれど。
「何が気になってるのか、よく考えろ。考えてもわからないなら、なおさら、そいつに会った方がいい。会ってもわからなかったら、とりあえず一発殴って来い」
一発、殴る!?…わたしが、玲音さんを!?
「む、むり!!絶対に無理!!」
「…嫌いじゃないんだろ」
「…うん」
「忘れてないんだろ」
「うん」
「何でもいい、考えながらしゃべってみろ。俺がまとめてやる」
「うん」
どうせ、わたしは祥くんには抵抗しきれない。性格を読まれちゃってるから。
それだけじゃない。わたしは、祥くんの、意地悪の中に優しさが包まれていることを知ってるから。
玲音さんに「もう会えない」って言われた日、大山さんから聞いたこと、その後早川さんと産婦人科に行って、話したこと。
それらを、祥くんに話す間は、1滴の涙も出なかった。やっぱり、ある程度の諦めはついている。
「そのときからね、…心配なことが、ふたつ残ってた」
そう。たぶん、そこが、祥くんの言うように、わたしが「気になってる」ところなんだ。
「ひとつめは、彼女が、彼に妊娠の事実を打ち明けてくれるかどうかってこと。
ふたつめは、その後、彼が笑えるくらい元気になれるのかってこと」
あのコーヒーショップで、早川さんと別れてから、一番よく考えていたのはこのことだと思う。玲音さんにもらった、恋をする幸せな気持ちや、嬉しい言葉のことを、思い出す時間はほとんどなかった。
今、彼がどうしているのか、そのことが気がかりだったんだ、わたし。
「彼女が、きちんと話してくれたって、わかって…、でも、彼はまだ笑えないって、聞いて…」
ぽとり。熱い涙がこぼれて、膝の上で握りしめたままだったハンドタオルに落ちて、吸い込まれる。
「だから、会って来いって言ってるだろ」
祥くんの声が、静かに耳に届く。
「ううん、やっぱり、会いたいわけじゃないみたい。笑えない彼を見たら、またわたしも泣けちゃうかも。
でも、でも、もし、彼がまた笑えるようになってたら、わたしも泣かないようになれる気がする」
自分の内面の、ぐちゃぐちゃに散らかったものを、ひとつずつ拾って片づけていくと。
「彼の笑ってるところが見たい」
そこに、残ったものは、それだけだった。
祥くんの言う通り、一発殴る、って決着の付け方をする人もいるんだろう。
でも、わたしの心配を消してくれて、さらにわたしの背中を押してくれるのは、玲音さんの笑顔の様な気がする。
「お前、どれだけ好きだったんだよ、そいつのこと」
祥くんが、呆れたようなため息をついた。こちらを見透かすような目は、もう、していないで、いつも通りだ。
「もう、好きじゃない、と思う。嫌いにも、なれないけど」
小さな声で呟く。
「そいつ、そんなによかった?」
「ん?」
「女って、ヤった途端、執着してくる気がする」
「…はい?」
ぽかんとして祥くんを見上げるけど、彼の方は、つまらなさそうな顔をして、再び雑誌を読み始めている。
「や、…や?や、やってない!!『よかった』ってそういう意味…?」
「はあ?そういう意味以外になんかあんの?」
し、しまった。思う壺的な反応を返してしまったらしい。例の、意地悪そうな顔がこっちを向いている。
「祥くんのエッチ!ヘンタイ!女ったらし!!」
「ヤらないで『付き合ってる』って、中学生かよ」
「う、…うるさい!!もう、もう、それ以上変な言葉しゃべらないで!!頭がおかしくなりそう!!」
思わず鞄を投げつけて、リビングを飛び出してしまった。
どうやら鞄はいいところに命中したらしく、後ろから「いって!」って祥くんの声が聞こえたけれど、当然、謝ってなんかやらなかった。
祥くんが作った、美味しいうどんに夢中だったから、彼の言葉をつい聞き流してしまった。
んー、朝から、ちゃんとおだしをとったおつゆで、お野菜たっぷり、しかもとろとろの卵入りのうどんなんて、最高!!
「あー、おいしい!寝起きの体に沁みわたる!」
「俺の話を無視すんじゃねぇよ」
頭を叩かれて、ようやく、祥くんの方に「なんだっけ」と向き直る。
「盆は実家に帰るぞ」
あれ、微妙に言い方が変わった気がするんだけど。それと同時に、どことなく、堅い、祥くんの顔にも気がついて、はっとする。
「うん。祥くんと一緒に帰る」
彼は、頷きながら、小さなため息を漏らしたこと、自分では気づいてないんじゃないだろうか。
そのため息は、不安から来るのか、安堵から来るのか、わたしに対する呆れから来るのか、わたしには判別ができなかったけど。
きっと、一緒について行った方がいい、って直感が働いた。わたしも、気にはなっていた。何度か、訊いてみようと思ったこともあった。
祥くんのお母さんのこと。おばさんは、今、どんな容体なのか、ってことを。
萩原コンサルティングサービスの相談用ブースで再会した、あの日以来、祥くんは、一度もおばさんの話をしない。
それは、特に話すことがないだけなのかもしれないけど、話したくないのかもしれないって思うと、結局、こちらから訊きだす気にはなれなかった。
祥くんにとって、たった一人の家族であるおばさんが、長期入院してるなら、彼は実家を引き払ってここに越してきたんだと思う。空き部屋のクローゼットには、おばさんのものが詰まっているらしい段ボールが、ガムテープで封をしたまんま、いくつも押し込まれてる。
だから、祥くんはわたしの状況に合わせて「実家に帰るぞ」って言ったけど、あっちに実家のない彼は「札幌の病院に行くぞ」って、言いたかったんじゃないかな。
何も話さない祥くんは、わたしに頼るつもりなんて、ないんだと思う。
だから、今のところは、彼が唯一わたしに頼んだ「俺と結婚するふりをしろ」ってことを、全うしようと思う。
何をしたらいいのかよくわからないけど、おばさんに、祥くんはひとりじゃないよ、ってことをわかってもらえたらいいんだよね?
おばさんに、祥くんの優しい気持ちが、伝わるように。そのお手伝いが、できるように。
札幌に帰ったらがんばろう!って、決意を固めて、久しぶりに自分が元気になった気がしたところで。
「お前、なんか変じゃね?」
って、祥くんがぽつりと言うから、ぎょっとする。
「ええ?わ、わたし?どこ、が?」
「めそめそ泣くことは減ったけど、ぼけっとしてることが増えただろ。ここ1週間くらいのことだけど」
そう、だっけ。
自分では思いも寄らなかった変化を指摘されて、思わず黙り込んだ。
その時、祥くんの仕事用の携帯電話が、ピリピリと鳴って彼を呼んだ。
「また今度訊く」と、短く言うと、電話で話し始め、通話を続けながら歯磨きをし、そのまま仕事に出かけてしまった。
ここ一週間、か。
早川さんが、会社に訪ねてきたのが6日前のことだ。彼女と話をしたことが、わたしに微妙な変化をもたらしたに違いない。
知らないと余計に気になるってことが、あると思う。だから、早川さんが、自分と玲音さんの近況を教えてくれたことで、ある程度、堂々巡りの思考が落ち着いた、と、自分では思ってた。
ちょっとしたことで、だらだら涙が流れることもなくなったし。
そのかわりに、ぼけっとしてるのかな、わたし。まあ、いつものことだよね、って紗彩あたりには言われちゃいそうだけど。
じゃあ、何かやろうかな、って思って、ピンクさんの美容院に電話をかけてみた。予約カードの裏を見ると、前回の日付は1か月前。
まだそれだけしか経ってないのか。玲音さんに会えなくなって。早川さんの妊娠を知って。仕事でも恋でも戦力外になって。祥くんに再会して。
嵐みたいな1か月だな…。
「もしもし?」
ああ!電話中だった。耳元で人の声が聞こえて我に返る。
ピンクさんを指名して、メニューはおまかせで午後からの予約を取ることができた。
ピンクさんにパーマをかけてもらったときのあのうきうきした気持ちを、もう一回感じてみたいな、と思う。
祥くんいわく、「ぼけっとしてる」ことが多いらしいから、いつも行くあのボロボロのスーパー以外の、どこかに出かけた方がいいよね。
午前中は、ベッドのシーツを洗って、部屋中に掃除機をかけた。料理は苦手だけど、掃除は嫌いじゃない。
特に、こうして気分が塞ぎがちな時には、体を動かしているだけでも、無心になれるのがいい。作業が終わったときに、部屋がきれいになってると、またそこで気持ちが落ち着く。
なんだか、ぐちゃぐちゃに散らかった心の中の整頓をしてるみたいだな、って、いつも思う。
「あれぇ?雰囲気変わったぁ…」
ピンクさんが、わたしを見るなりそう言った。服装が変わったら、雰囲気も変わるものなんだろうな。
「決戦は終わったのぉ?」
ピンクさんは、わたしのふわふわの髪を撫でて、バランスを確かめるように、鏡の中でもわたしの髪の毛しか見ていない。
「終わりました。負け試合でしたけど、綺麗にしてもらってたから、みじめな気分にはならずに済んだ気がします。ありがとうございました」
詳しく知らない人が相手だからなのか、泣きそうになることもなく、そう言うことができて、とりあえずは自分の精神の回復具合に一安心する。
「そぉ。ヘアとメイクのことなら、まかせてぇ。今日は、またテイストを変えてみるかぁ」
ピンクさんは、楽しそうににこにこし始める。この人も、本当に仕事が好きなんだなぁ。
どピンクの眩しい髪の毛も、グリーンのアイシャドウの上にキラキラのストーンまでくっつけた瞼も、もうわたしを不安にさせることはない。
きっと、わたしに似合うように、考えてくれるはず。
…と、思ってたけど。
「あ、なんか懐かしい」
テイストが変わったっていうよりは、元に戻った、という感じだ。
「ふふふふふ。そぉなのぉ?これ、海空ちゃんの地毛に近いんだぁ」
そう。ピンクさんは、限りなく黒に近い焦げ茶色に髪を染めてくれて、ストレートパーマをかけたらしい。流していた前髪を短く切って、額に下ろしてある。
「なんかぁ、生地のいいシンプルなワンピースをさらっと着てるでしょぉ。小物も革とかで、ナチュラルな感じ。
無理に大人っぽくしなくても、海空ちゃんらしい髪形がかわいいんじゃないかって、勝手にイメージしてみたんだよぉ」
そっかぁ。わたし、無理な格好してたのかなぁ。自分ではよくわからないけど。
ピンクさんは、サイドの髪を器用に編んで、反対側まで持ってくると、そこでバックの髪もすべて編み込ん行く。最後に、耳の傍に小さな花がついたピンを刺してくれる。
「森でお花を摘んできた女の子、って感じぃ」
そう言って、メイクも色を抑えたナチュラルなものにしてくれる。最後に、チークだけは綺麗なピンクで。
「ほらぁ、これも良く似合うぅ。ふふふ。楽しいわぁ」
ピンクさんが楽しそうだから、わたしまで楽しくなってきて、ここに来てよかったなって素直にそう思った。
たまたま予約が2時から取れたけど、ピンクさんのサロンは、平日でも結構お客さんが来る。わたしがお店に入ってからも入れ替わり立ち替わりお客さんが来て、その中でのカラー、パーマ、メイクってフルコースだったから、サロンを出るときでも、もう6時を過ぎていた。
晩ごはん、どうしよっかなぁ。どこかで食べるのもひとりは寂しいし、買って帰った方がいいかな。
いやいや、でもその前に、祥くんの作ったごはんの残り物がないか、冷蔵庫覗いちゃお。
そんなどうでもいいことを考えながら、「ただいま」って呟いてドアを開けたら「おかえり」って返事があった。
祥くんが帰ってる!玄関に並ぶ靴を確認したけど、祥くんのレザースニーカーが1足あるだけだ。
嬉しくなって、急いで靴を脱ぎ捨てる。リビングのドアを開けると、ソファで座って読んでいた雑誌から、祥くんが顔を上げて、固まった。
「え?なに?ああ、髪形が変?だって、祥くんがわたしのこと、ぼけっとしてるっていうから!どこかに出かけてみようかと思ったんだけど、美容院くらいしか思いつかなくて。
…ねえ、祥くん?」
わたしじゃなくて、祥くんの方が、よっぽどぼんやりしてる。
「どうしたの?」
隣に座って、顔を覗き込むと、ようやくはっとした様子で、彼が瞬きをした。
「まるで10歳のガキみたいだったから、びっくりしただけ」
その顔には、今ははっきりと意地悪な笑みが浮かんでいて、心配しかけていたわたしが馬鹿みたいだった。10歳と言えば、まさに、わたしと祥くんがお別れした歳だ。
「もうガキじゃないの!25歳のレディーだから!」
結局、わたしは、毎度毎度、ふくれっ面を晒すことになる。
「で?そのレディーに、何かあったわけ?」
今日は、幸くんも来ていないみたいだし、立て込んでいた仕事が片付いたんだと思ってたけど。もしかしたら、そうじゃないのかもしれない。
朝「また今度」って言ったのは、社交辞令じゃなくて、本当に、近いうちにわたしの話を聞こうって、思ってたのかもしれない。
「…何ってほどじゃないんだけどなぁ…」
祥くんに言われなければ、自分の変化にだって気がつかないくらいだったから、大したことじゃないんだと思う。だから、そう前置きしてみるけど、祥くんは返事もしないし、静かな表情も変えない。
「えっとね、前に話した、妊娠した女の子がね、わたしに会いに会社まで来たの。彼女は子どもを産む決意をして、彼とは結婚しないでひとりで育てるつもりなんだって、教えてくれたんだよ」
話してしまえば、それだけのこと。短い話だ。
「なんで、そうぼんやりしてるんだろうな、お前は」
「…わからないよ。自分では気が付かなかったくらいだから」
「じゃあ、いつも何を考えてる」
何って、何って言われても、…何だろう。まとまったことは、考えてない気がする。
「男のことだろ」
まっすぐわたしを見つめる祥くんの目は、少しも揺れていない。
揺れてるのは、わたしの目の方だ。「ちがう」
「ちがわねぇ」
「もう忘れた」
「忘れてねぇ」
「もう嫌い」
「嫌いじゃねぇ」
―――嫌いになれたら、いいのに!!
心の中で、そんな言葉が弾けた。
早川さんのことも嫌いになり切れなかった。玲音さんのこともひどい人だって、嫌いになれたら、もっと早くふっ切れる気がするのに。
持ったままのバッグから、わたしがハンドタオルを出して、涙で濡れた顔をごしごし拭いていも、祥くんは知らん顔をしてる。
もう、せっかくピンクさんにつけてもらったチークが、早速剥げたでしょ!意地悪!
寝てるときだけは、優しく指で拭ってくれるくせに!…心の中でだけ、毒づいておく。
「海空、やっぱり、そいつに会って来い」
祥くんは、どこまでも意地悪なことを、言ってくる。
「会えない!会わない、会いたくない」
玲音さんがわたしと会いたくないんだ。どんな理由にしても、会えないって、言ったんだから。
かたくなに、抵抗するわたしに、祥くんが大きなため息をついた。
「おまえは、まだ納得してないんだよ。何かがひっかかったままで、前に進めない」
祥くんの視線も緩んだから、わたしも、彼を睨むのをやめて、真意を探ろうと、表情を見つめるけれど。
「何が気になってるのか、よく考えろ。考えてもわからないなら、なおさら、そいつに会った方がいい。会ってもわからなかったら、とりあえず一発殴って来い」
一発、殴る!?…わたしが、玲音さんを!?
「む、むり!!絶対に無理!!」
「…嫌いじゃないんだろ」
「…うん」
「忘れてないんだろ」
「うん」
「何でもいい、考えながらしゃべってみろ。俺がまとめてやる」
「うん」
どうせ、わたしは祥くんには抵抗しきれない。性格を読まれちゃってるから。
それだけじゃない。わたしは、祥くんの、意地悪の中に優しさが包まれていることを知ってるから。
玲音さんに「もう会えない」って言われた日、大山さんから聞いたこと、その後早川さんと産婦人科に行って、話したこと。
それらを、祥くんに話す間は、1滴の涙も出なかった。やっぱり、ある程度の諦めはついている。
「そのときからね、…心配なことが、ふたつ残ってた」
そう。たぶん、そこが、祥くんの言うように、わたしが「気になってる」ところなんだ。
「ひとつめは、彼女が、彼に妊娠の事実を打ち明けてくれるかどうかってこと。
ふたつめは、その後、彼が笑えるくらい元気になれるのかってこと」
あのコーヒーショップで、早川さんと別れてから、一番よく考えていたのはこのことだと思う。玲音さんにもらった、恋をする幸せな気持ちや、嬉しい言葉のことを、思い出す時間はほとんどなかった。
今、彼がどうしているのか、そのことが気がかりだったんだ、わたし。
「彼女が、きちんと話してくれたって、わかって…、でも、彼はまだ笑えないって、聞いて…」
ぽとり。熱い涙がこぼれて、膝の上で握りしめたままだったハンドタオルに落ちて、吸い込まれる。
「だから、会って来いって言ってるだろ」
祥くんの声が、静かに耳に届く。
「ううん、やっぱり、会いたいわけじゃないみたい。笑えない彼を見たら、またわたしも泣けちゃうかも。
でも、でも、もし、彼がまた笑えるようになってたら、わたしも泣かないようになれる気がする」
自分の内面の、ぐちゃぐちゃに散らかったものを、ひとつずつ拾って片づけていくと。
「彼の笑ってるところが見たい」
そこに、残ったものは、それだけだった。
祥くんの言う通り、一発殴る、って決着の付け方をする人もいるんだろう。
でも、わたしの心配を消してくれて、さらにわたしの背中を押してくれるのは、玲音さんの笑顔の様な気がする。
「お前、どれだけ好きだったんだよ、そいつのこと」
祥くんが、呆れたようなため息をついた。こちらを見透かすような目は、もう、していないで、いつも通りだ。
「もう、好きじゃない、と思う。嫌いにも、なれないけど」
小さな声で呟く。
「そいつ、そんなによかった?」
「ん?」
「女って、ヤった途端、執着してくる気がする」
「…はい?」
ぽかんとして祥くんを見上げるけど、彼の方は、つまらなさそうな顔をして、再び雑誌を読み始めている。
「や、…や?や、やってない!!『よかった』ってそういう意味…?」
「はあ?そういう意味以外になんかあんの?」
し、しまった。思う壺的な反応を返してしまったらしい。例の、意地悪そうな顔がこっちを向いている。
「祥くんのエッチ!ヘンタイ!女ったらし!!」
「ヤらないで『付き合ってる』って、中学生かよ」
「う、…うるさい!!もう、もう、それ以上変な言葉しゃべらないで!!頭がおかしくなりそう!!」
思わず鞄を投げつけて、リビングを飛び出してしまった。
どうやら鞄はいいところに命中したらしく、後ろから「いって!」って祥くんの声が聞こえたけれど、当然、謝ってなんかやらなかった。