結婚したいから!
幾分すっきりした頭になって、わたしたちは、札幌市内の母のアパートに帰り、荷物を置いて、その足で母の勤務先の病院に向かった。わたしが高校生だった時、祖父母がなくなってから、母と引っ越してきたそのアパートは、病院まで歩いて行ける距離にある。

ほんの15分ほどの短い時間だけど。祥くんは、いつものように「早く歩けよ」とか、ときどき意地悪を言ってくるけど。

わたしの目を、一度も見なかった。


彼が、最後に自分の母親に会ったのかはわからないけれど、少なくとも、わたしが祥くんの部屋で暮らすようになってから、1か月が過ぎている。

その間は、北海道に戻った様子もない。

おばさんの癌が末期だと言うなら、その症状は進んでいる可能性が高い。

わたしには、それくらいのことしか推測できないけど。いつものように強いまなざしを向けてこない祥くんは、もっと多くのことを具体的に考えているんだろう。


受付で、おばさんの入院している病室の番号を確認して、廊下を歩いている間は、ふたりともすっかり黙り込んでしまった。

わたしも、こういう状況でなければ、きっと、おばさん再び会えることに、うきうきしたはずなのに。おばさんの名前が書かれたプレートが壁に見える、その病室の前。祥くんは、立ち止まる。小さく息を吐くのが聞こえた気がする。


「手ぇ貸せ」


囁き声で言われて、祥くんが出した左手に、訳も分からず右手を乗せた。

ぎゅっと力強く握られて、思わずどきっとしたけど、そのままこちらを見もしないで病室のドアをスライドさせる祥くんを見て、「演技スタート」の合図なんだ、ってことがわかった。

そうだ、「わたしは祥くんと結婚するんだ」って顔しなくっちゃ。…って、どんな顔だ、それ。

ええっと、まだ結婚してない、って段階なのかな?設定としては、恋人?婚約者?

そういえば、事前の打ち合わせとか、一切なかったんだけど!!


動揺がもろに態度に表れて、足がもつれるまま、祥くんに引きずられるようにして、窓際のベッドに辿りいたときには、緊張のあまり顔が真っ赤になっていたはずだ。


「具合どう」


聞いたことのないような優しい声音に、はっとして祥くんの背中を見る。その先のベッドを見やると、会うべき人が、そこに横たわっていた。
「祥生」

高く澄んだ、綺麗な声は変わらない。

でも…、痩せた。とにかく、痩せてしまってる。

「み、く、ちゃん…?」

優しげな目が、わずかに見開かれて、わたしの姿を捉えている。

そのことに気が付いた瞬間、わたしは祥くんの手を振り払っておばさんの手を握りしめてしまった。

「はい!海空です。おばさん、お久しぶりです」

わたしのこと、憶えていてくれた。もう15年も経つのに。

ほら、こうして、昔みたいに優しく微笑んでくれる。その目にみるみるうちに涙が膨れ上がって溜まって、ぽろりと枕に転がり落ちていく。


もちろん、わたしの母親と同様、おばさんも歳をとったってこともわかる。皺だって出てるし、綺麗な白い手も、昔より骨ばってる。

でも、この人にかわいがってもらった、って記憶が、一瞬で鮮明にあふれ出てきた。
母と子で出かける、幼稚園の遠足の日、わたしの母は仕事で来られなかった。欠席しようかって、母は言ってたのに、その話を聞いたおばさんはおじさんと2人で参加した。

祥くんをおじさんに任せて、まるでわたしのお母さんみたいな顔をして、手をつないで動物園を回ってくれた。

子どもっぽい母と違って、ふわふわした綺麗な色のスカートをひるがえして、踵の高いピカピカの靴で歩くおばさんと一緒にいると、いい匂いがしてドキドキしたっけ。

2番目のおかあさんみたいに、大好きな人だ。


「海空ちゃんは、大人になったわね。まだ、祥生が、意地悪するでしょう?」

「うん。します」

あっさりわたしが認めるから、「おい」って後ろから低い声がするけど、おばさんが涙をぬぐいながらくすっと笑うと、祥くんはそれ以上何も言わなかった。


「相変わらず、素直じゃなくて、子どもなのよ。せっかくまた会えたのに。ずっと、み」

「余計なこと言うんじゃねえぞ」

強引に言葉をさえぎって、今度はおばさんを威嚇する祥くん。いつもの調子を取り戻したらしい。

わたしもだけど、おばさんも、ほっとしたようににこにこ笑いだした。
「でも、楽しいです」

嬉しくなってそう言うと、おばさんの顔から、突然笑顔が滑り落ちて、真剣な眼だけが残る。


「祥生のこと、お願いね。そうは見えないけど、繊細な子なの」


胸が、ずきずきと痛む。この人は、もう、覚悟をしているのかもしれない。

「何言ってんだよ」って、祥くんが文句を言う声にも、いつもほどの力はなくて、わたしの耳には入らなかった。恋人のふりをすることなんか、すっかり頭から抜け落ちてしまって、うまい台詞も思いつかず、わたしはおばさんに、頷いて見せることしかできなかった。


「海空ちゃん、優実(ゆみ)さんを呼んできて。リハビリテーション科よ。今ならちょうど休憩時間だと思うから」そう言われて、病室を出た途端、なんだかよくわからない涙がぼろぼろとこぼれ落ちてきた。
優実って言うのは、わたしの母の名前だ。

とぼとぼとおぼつかない足取りで、リハビリテーション科を探し当てた。

3か月ぶりに会った、今日はナース姿の母は、そんなわたしを見て、「ひっどい顔。しっかりしな」と言って笑った。

なんだか、いつもより、母が大きく見えた。こういう場面には幾度となく立ち会ってきたんだろう。わたしが知らないだけで、この世界で長い間仕事をしてきた母の姿を垣間見た気がした。


すたすたと歩く母についていくと、あっという間に、おばさんの病室の前に着いていた。そこで、わたしを振り返ると、母は大きなため息をついた。

「海空、今日は帰りなさい。その顔見たら、みんなで落ち込むことになるから」

「え、でも」

このままじゃあ、祥くんの役に立たず仕舞いなんだけど…。

「じゃあね。後でね。大丈夫、うまく言っとくから」

ささやかな抵抗などものともせず、母はわたしをあっさり追い払って、目の前ではぴしゃんとドアを閉めてしまう。
仕方なしに踵を返してエレベーターホールに向かうわたしの耳に、母の信じられない発言が、かすかに届いてきた。


「ごめんねぇ、透子さん。海空、アレの2日目だから、お腹が痛いみたいで、帰った!」


…ちょっと!!お母さん!!その声の音量!!しかし、何よりも、信じられない、その理由!!

娘の体の状態を読めている上に、なぜかばっちり日数まで合ってて、それだけでもびっくりだけど!

それよりもびっくりなことに、おばさんだけならまだしも、そこには祥くんがいるでしょー!さらに、その部屋、大部屋だったでしょー!!


病室に飛び込んであれこれ叫びたいのは山々だったけど、今更どんな顔をさらせばいいのかもわからず、行き場を失った言葉をなんとか飲み下し、実家のアパートに逃げ込むしかなかった。

図らずも、多くの人に、女の子の日の2日目であることを知られてしまい、明日から、おばさんのお見舞いに行きづらくなったことは言うまでもない。
< 19 / 73 >

この作品をシェア

pagetop