結婚したいから!

新しいお仕事は刺激的

「おまたせしました」

さっそうと歩いてやってきた彼女の孕む風が、かすかに私の前髪を揺らす。慣れた様子で、ほんの少し腰から体を折って頭を下げ、目線を私に戻す。

その1分にも満たないような仕草と表情から、彼女がきちんと接客を重ねて、立派に成功しているのだということが伺える。
素敵だな。同じ社会人として、素直に羨ましく思う。できる人、かっこいい人、だと思う。

なのに、化粧っ気のない顔を、くしゃっと笑顔にして、理央さんはいつも「海空ちゃん、こんにちは」と挨拶してくれるのだ。そうすると、もういつもの打ち解けた様子の理央さんになる。

このギャップも、わたしには嬉しい。不思議と、なれなれしい感じはしなくて、親身に相談を聞いてくれる雰囲気だけが伝わる。彼女の人柄だろうか。わたしの性格では、担当が彼女じゃなければ、この萩原コンサルティングサービスとの関わりは、なかったかもしれないと思う。
「しばらくご無沙汰だったね。あ、そういえば、この前の電話、こっちの用件だけ押しつけちゃってごめんなさい」

はじめに、こうしてぺこっと惜しげもなく頭を下げて謝ってしまう。きっと、元々、正直で誠実な人なんだろう。

「いえ。わたしもぼーっとしてたので。えっと、もう、彼とは別れちゃったんです」

理央さんは、大方予想してたんだろう。一瞬わたしの目を見つめ返しただけ。

「そう。きっと、海空ちゃんが原因じゃないんでしょう。今度は、私が素敵な人を紹介しましょうか」

そう言うと、邪気のない微笑みを浮かべる。

「はい…。それを、お願いしようと思って、お電話したんです」
理央さんは、頷くとすぐに、「ちょっと待ってて」と言うと、席を立った。「はじめまして。部長の萩原勇哉です」

線の細い、整った顔立ちの男性が、理央さんと並んで立っている。40歳過ぎたくらいの年だろうか。かすかに笑うと、目じりに優しい皺が引かれて、ぱっと見たときの印象よりは年上なのだろうと、推測した。

「はじめまして。えっと…、あ、九条海空と申します」

とっさに立ちあがったのはいいものの、状況が飲み込めず、隣の理央さんをちらちら見ながら、なんとか返事をした。どうして、偉い人がわたしに挨拶をしに来てくれるんだろう。わたしの視線に気がついて、理央さんが大丈夫、とでも言うように、にこっと笑う。

「突然申し訳ない。楽にしてください」

そう言うと、部長は、自分が先にソファに座ってみせる。わたしも少しほっとして、ソファに座りなおした。

「海空ちゃん。私から、思いきって、あなたにお願いしたいことがあるの」

身を乗り出して、わたしの目を覗きこむ理央さんの顔は、いつになく真剣だった。

「えっ…」

突然壁に背中を押し付けられて、一瞬止まった息を吐きだそうとしたら、もう目の前に彼の顔が迫っていて、反射的に手で顎を押し返してしまった。

「つれないね」

その声が笑いを含んでいて、ほっとした。

彼の名は、確か、結城晃一さん。

まだそれを頭の中に思い浮かべなければいけないくらいの、最近の知り合いだ。

「ごめんなさい。びっくりして」

ようやく喉から絞り出した声は、ごまかせないくらい震えていて、今度こそ彼は、くすくすとはっきり笑った。

それと同時に、肩を掴んでいた両手を離してくれて、ようやく息が苦しくなくなった。

「どうしてびっくりするのかな。結婚する可能性があると思うから、こうして俺と会ってくれるんでしょ」

結婚。

友人には、あれほど結婚したいと放言できるわたしも、異性には決して言えない単語。なんとなく、わたしが言うと、切羽詰まって聞こえそうな気がして。

それを、逆に異性に言われてみると、どきりと心臓が音を立てる。いい感じなのか嫌な感じなのかはわからないけれど、変な刺激を与える言葉であることは確かだ。

「そ、そうですけど…」

否定もできずに、もごもご口を動かす。
理央さんと、部長の顔がぱっと浮かぶ。

あの日、萩原コンサルティングサービスで聞かされた、理央さんの「お願い」とは、「紹介する男性と、結婚を前提に付き合ってみること」だった。

彼女に男の人を紹介してもらうのは、初めてではない。
そう。理央さんが働くのは、いわゆる「結婚相談所」だ。

最近は「婚活」なんて新しい言葉が使われているけど、萩原コンサルティングサービスのマリッジ部は、老舗の結婚相談所だ。長い歴史の間に、当初の結婚相談だけでなく、資産の運用相談、会社経営の相談、弁護士事務所、などなど、ありとあらゆる相談事を請け負うようになったので、今では、結婚相談所としての機能はマリッジ部と言うひとつの部になったそう。
『まだ25歳でしょ』と言った、真面目な紗彩の顔まで思い出す。

そう、紗彩はこのこともあって、そう言ったのだろう。自由恋愛が当たり前のこの時代、23歳で結婚相談所に登録する人って、あんまりいないんだと思う。

それでも、わたしはすぐにでも結婚したいと言う意思をきちんともって、萩原コンサルティングサービスのマリッジ部を訪ねたのだ。そのとき対応してくれたのが、理央さんで、彼女を通じて、数人の男性と知り合って、そのうちの幾人かとはお付き合いもした。

なのに、結婚には至らなかった。
「こんなときに、考え事なんていい度胸だね」


鼓膜を打つ低い声に、背筋がびくりと冷えて、意識が現実に引き戻される。

「『そうですけど』のつづきは、何?」


…ああ、そんなことを言ったような気もする。

「えっと、そうですけど、…もうすこし、お互いのことがわかってからがいいと思うんです」

再び、紗彩に言われた「時間をかけて」のアドバイスが耳によみがえって、わたしを助けてくれたようで、とっさにそう言っていた。

けれど、結城晃一さんは、鼻でちょっと笑っただけだった。

今度は、両方の手首をしっかり掴まれて、体全部を壁に押し付けられた。
「んっ」


彼の前髪がわたしの目にかかって、瞬きした時にはもう、唇を奪われていた。


「お互いのことを知るには、こういうことをするのが一番早い」


そう言い捨てて、彼は再び唇を重ねてくる。

今度は抵抗できない。長い片腕で、わたしの体を両腕ごと拘束して、もう片方の手で、後頭部をしっかり固められている。

やわらかく、何度も触れてくるその微妙な角度の違い。この体勢。

「この人は、女の人の扱いに慣れている」と言うことが、直感的にわかる。彼の言うことも一理あるようだ。


危ない。


一見真面目な人に見えたのに。

第一印象との違いに気がついて、口をぎゅっと閉じて、できるかぎり「拒否」の姿勢を示す。


だめ。

こういう人と結婚すると、きっと辛い。

それなのに、くす、と、彼が笑うような息を漏らして、今度は唇をついばんでくる。

身をこわばらせていたはずなのに、彼の唇がかすかに吸いついてくるころには、自分の頬がはっきりと上気していることを無視できなくなってきた。


恥ずかしい。

ため息なのか鼻息なのか、自分でもよくわからない乱れた呼吸を整えようと、息を吸い込むと、見計らっていたように、緩んだ唇の間を、舌が割って入ってくる。

「んん、ん、…はぁっ」


耐えきれないで漏れたため息に反応して、ようやく彼が少しだけ離れる。新鮮な空気を肺いっぱいに吸い込む。


「臆病で奥手だけど、一度心を許すと一途」


一息で言うと、ぽかんとしたわたしの唇に、またぺろりと舌を這わせる。

それが、この短時間でのわたしの印象、と言いたいのだろう。わたしが、彼についてあれこれ思いを巡らせているように、彼の方でもわたしの性格を探っていたということか。


「あ、…んぅ、…んんんっ」


だめだ。わたし、やっぱり、だめだ。


思っていたよりも、優しく舌が絡められると、わたしは観念するしかなかった。

根っからの恋愛依存症だと思う。

自分では、自分自身の危うさに気が付いている。


紗彩は、わたしが嫌なのに断れない、というニュアンスで、わたしと男の人との付き合いを語ったけれど、実際はそうではないのかもしれない。
はじめはこわかったり、嫌だったりするのに、こうして迫られていると、拒否できなくなる。

もっと子どもだったときには、わたしってエッチなのかなって、ひとりで真剣に悩んだこともある。

でも、今はそれもちょっと違うような気がしてる。


好きな人が、触れてくれると、どこか安心する。そして、求められると、自分が必要とされているんじゃないかって、勘違いする。


それが、わたしの弱さだ。

父親がいないせいもあるんだろうか。カンカンカン、と、夜の湿った冷たい空気を震わせる金属音が響いて、必死でもがくと、ようやく結城晃一さんは、腕の力を緩めた。

そうだ、ここはわたしの住むアパートの廊下だった。

誰かが、階段を上ってきている。それは、別の階の住人かもしれないし、誰かの訪問客かもしれないけれど、このフロアでこちら側の廊下を歩いてこないとも限らないのだ。


「あ、あの、送っていただいて、ありがとうございました」


なんといって部屋に入ろうかと、乱れた呼吸を整えながら、言葉を探す。


「どういたしまして。じゃあ、おやすみ」

くすくすと笑いながら、彼は、そう言って、わたしの頭をそっと撫でると、あっさりと背中を向けて帰っていく。


うん。経験上なのか、生まれつきなのかはわからないけど、乙女心も読めるみたい。
冷えた暗い部屋に入って、鍵をかけると、がちゃんとやけに大きく音が響いて、ひとりになったのだと思い知る。

ほっとする気持ちの中には、すうっとした寂しさが一抹、含まれている。


結婚したら、家に帰るとほっとした気持ちだけが湧いてくるんだろうか。

一人暮らしするようになってから、一度だけ、母に訊いてみたことがある。でも、「あたし結婚したことないから、知らないにきまってるでしょ」って言われてびっくりした。


物心がついた時には父親がいなかったので、きっと離婚したんだろうと思っていたけど、結婚すらしていなかったとは知らなかったのだ。夫がないということをのぞけば、平凡な人に思えるけど、母も苦労したんだろうか。


高校を卒業してから、すぐにこちらへ出て短大に入学し、それっきり、母と暮らしたことはない。

けれど、いつかはわたしの父の話をじっくり聞いてみたいと思っている。それが、いつになるのかはわからないけれど。


バッグに入れている携帯電話が震えて、わたしの思考を中断する。

あ、まだ玄関で靴も脱いでいなかった。バッグの内ポケットから電話を出しながら、靴も脱ぐ。

 From 藤田紗彩
 本文 初デートは、どうだった?報告求む!

紗彩からのメールで、さっきまで一緒にいた彼のことを思い出す。

結城晃一さん。歳は、30歳。父親の営む不動産会社の副社長。長男であるため、会社を継ぐことを期待されているが、結婚が条件だというのが代々の決まり事だそう。

そういう理由で、萩原コンサルティングサービスで、マリッジ部の顧客となったらしい。


けれど、会ってみると、彼には、焦りが感じられなかった。

指定された店で、コースの料理をごちそうになった。お店だって、お料理だって、彼の会社の財力を考えると、もっといいところがあったんだろう。

おそらく、こちらが緊張しすぎないように、格式高くないけれど、個室があって、雰囲気やセンスは良くて、料理とお酒がおいしいお店を、彼は選んだんだと思う。

風貌は、黒髪に、黒い瞳。黒縁の眼鏡。スーツだって、よくある地味なグレー地に、かすかなストライプの模様。品はいいし、身につけているものはすべて上質なものなのだろうけれど、なんとなく、「地味を装って」いるみたいに思えた。
長めのフロントやサイドの髪は、表情を隠すみたい。

近づいたときにようやくしっかり覗きこんだ目は、二重瞼がゆるく伏せられて、眼鏡越しでも色っぽかった。

かすかな香水の匂いだって、あのときまで気がつかないくらい自然だった。


…あの、キスのときまで。

そうだ、あれこそ、彼の本性のように思える。

まだ感触が生々しく残っている、自分の唇に、指で触れてみる。自分で触るとなんともないのに、男の人に触れられるとどうしてあんなふうに、雰囲気に流されそうになるんだろう。

なんだか、わたしって悲しい生き物だなぁ。


それでも、ああやって、多少抵抗をみせたのは、やっぱり初めてのことだったかもしれない。

紗彩の言葉を思い出したのもあったけれど、さすがのわたしにも、あの人の行動は性急に思えたのだった。

だって、先週末に、萩原コンサルティングサービスの事務所で、理央さんに紹介してもらったのが、初対面。初めてふたりで会ったのは、今日が初めてなのだ。

なんか、考えれば考えるほど、危険な臭いがしてくるような…。

「手が早い」「女性慣れしている」「本性を隠すのがうまい」それだけでも、結婚相手としてはふさわしくない気がする。
それでも、今すぐ、あの人との関係をなかったことにするのは、難しかった。


それは、理央さんの「お願い」を、わたしが呑んだせい。

彼女の「お願い」は、「紹介する男性と、結婚を前提に付き合ってみること」だと、さっきは簡単に言ったけど、それは普通の相談業務から考えると、おかしなこと。

今まで、理央さんから紹介してもらった人とは、「結婚を前提に付き合えるかどうか考えること」からがスタートだった。もちろん、見せてもらった相手の略歴などのデータに不服があったり、事務所で対面した時の印象が悪ければ、お付き合いもはじまらない。


つまり、今回の件で、わたしの選択権はなかった。

理央さんの「お願い」は、もっと言えば、最終的にはわたしの転職を含んでいた。だからこそ、人事権のある部長まで出てきたのだ。

そう、短大を出てからずっと続けていた事務の仕事を辞めて、萩原コンサルティングサービスで、彼女をサポートする仕事をしないかと、提案された。

サポートとは言うものの、マリッジ部で理央さんの実務の手伝いをするわけじゃない。それなら、こうしてマリッジ部の男性顧客と外で会うこともなかっただろう。


彼女たちに持ちかけられた「サポート」の方法とは、このままマリッジ部の女性顧客として登録を続け、男性と会うこと。それなら今までと変わらないと思ったけれど、決定的に違うのは、最初の拒否権がないことだった。
「初めての試みなの。わたし、この2年間海空ちゃんをみていて、ずっと思ってた。あなたが、いつも全力で恋をしていたら、幸せな気持ちを知る男の人って、たくさんいるのかも、って」

そう言われたときには、もちろん、何の事だかよくわからなかった。

「本当は内緒のことだし、もしかしたら海空ちゃんも聞きたくないかもしれないけど、あなたと付き合った人は、みんな、あなたに会えたことをすごく満足してた。紹介した組み合わせでうまくいかなかった場合、結構な割合でクレームがあったり、登録を解除されたりするんだけど、そういうことが一度もない」

ここで知り合った、数人の男の人の顔がかすかに浮かんで、気が滅入るやら、恥ずかしいやらで、自然と俯いてしまう。


「今のままの海空ちゃんで、一生懸命、合う人を探してくれればいいの。もちろん、付き合ってみて嫌だと思ったら、別れてくれて構わない。結婚相手を探すことを仕事にしてみない?」

最後の一言で、わたしは落ちたんだと思う。

お互いの利害は一致した。

いつの間にか顔をあげて、理央さんの表情をまじまじと見つめていた。

そんなことを仕事にしていいのだろうか、という葛藤は、しばらく残ったけれど、2か月をかけて、待遇や条件の説明を受けながら、竹田建設で仕事の調整をしながら退職の日を迎えてしまうと、あっさりしたものだった。


非現実的な話だと思ったのに、早速の初仕事。

机ではなくぺたんと床に座ると、机の引き出しから、理央さんにもらった資料を出して、読み直した。
【紹介者の条件】
①すぐに結婚すべき理由を持つ
②多数の知人 縁者があり、影響力がある


紹介者とは、ようするにお見合い相手。

今回の場合は、結城晃一さんのこと。会社を継ぐために結婚しないといけないし、会社が大きいから、影響力はあるだろう。


つまり、①は冷やかしでないことがわかるし、②は萩原コンサルティングサービスの宣伝になるから、ということらしい。このあたりも、包み隠さず理央さんは説明してくれた。この②があるから、以前の事務職の3倍にもなる給料が振り込まれることになるのだろう。


【契約解除の条件】
①3回は対面すること
②紹介者の詐称が判明した場合
③その他の非常時


契約解除っていうのは、お見合い相手とのお付き合いを断ること。つまり、付き合っている人と別れるための条件。これは、①から③の、どれかにあてはまればいいそうだ。「やっぱりだめか」

思わず、独り言が口を衝いて出た。

①のところ。これをクリアしていないから、まだ、結城晃一さんとの契約を解除することはできそうにない。②や③ももちろん今のところは当てはまらない。


これまでなら、「なんとなく合わないかも」なんて、かなり自己中心的な理由でだって、理央さんに間に入ってもらって、波風が立たないようにお別れすることができたのに、それができない。


理央さんが言うには、②と③は、わたしの身と心を守るため、①は、紹介者になる男性に、恋する喜びを知ってもらうため、だそうだけど。

「…できる気がしない」

自分でも、恋する喜びなんて、知ってはいない。


誰かのことを好きな間でこそ、夢中になっているけど、終わってしまえば、これでよかったんだろうかって、反省して落ち込むことばかりだ。

そんなわたしなのに、相手の人に、恋する喜びなんて、知ってもらえるはずがない。


紗彩からの偵察メールに返信する気がなかなか起きなくて、のろのろワンピースから部屋着に着替えると、ばったりベッドに倒れ込んだ。
かといって、眠気も感じられない。

体は疲れているのに、頭だけ変に冴えている。何をするともなく、理央さんにもらった資料と、音がほとんど聞こえない状態でついているテレビとを、交互にぼんやり眺めていた。

深夜が近づき、薄い窓の外の天気は穏やからしく、今夜は何の音もしない。


ふいに、枕元の携帯電話が再び震え、その振動音が、ずいぶんと空気を揺さぶるように感じた。

 From 結城晃一
 本文 僕は君と結婚したいと思っている。また会ってほしい。


どうせ、紗彩から、返事の催促のメールに違いないと信じて疑っていなかったので、その短いメールに、心底驚いた。びっくりしすぎたのか、かあっと頬がほてる。


結婚、って、男の人がそんなに自分から何度も言うものなのかなぁ。
その単語を見ていると、かすかな違和感を持った理由に気がついて、わたしの頬の熱はさっと冷めていった。

結城晃一さんは、「僕」と自分のことを言っている。夕食をともにしたときも、ずっとそうだった。

だけど、そう言えば、キスをしようとしたときに、「俺」と言った気がするのだ。


なんだか、はっきりと彼の二面性を見たみたい。


だって、わたしは自分のことを、誰の前でも、どんな状況でも「わたし」と呼ぶから。わたしの考えすぎだろうか。


だから、心をしゃんとするために、いつもより少し熱めのシャワーを浴びることにした。肌を打つ水圧も、強い。

確実に体を清め、温めてくれるその水の激しい流れは、一層わたしを覚醒させたけれど、やはり心を落ち着かせてはくれなかった。


 To 結城晃一
 本文 ごちそうさまでした。次は休日のランチにでも誘っていただけると嬉しいです。

とりあえず、はっきりした頭で、メールの返信だけはしたけれど、その短い文を作るのに、必要以上に悩んだ。失礼にならないように、かつ、隙を見せないように、言葉を選んだつもりだ。

あまりそういった配慮をするべき状況に立たされたことがないので、送信を終えた今でも、嫌な緊張が背中をこわばらせている。


夜明けの光が空を徐々に明るくしていく様子を、ひとりで、ベランダに面する窓のカーテンを少しだけ開けて、ずっと眺めていた。

ゆっくりと飲んだホットミルクのおかげか、完全に日が出るまでには、まどろみのなかに身を投じていた。
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