結婚したいから!
以前のお客様との再会は変調の兆し
少し会社に寄りたいって言う祥くんの言葉に頷いたことを、後悔する気持ちが、次第に強まって行く。
再会した日に、同じことを言われて、彼に車から降ろされたところは、こんなところじゃなかった。
あれって、たぶん、わたしに着替えの下着を買わせるためだったんだ。
今更そのことに気がつく。さすがに、洋服みたいに下着まで、祥くんが選べるはずはない。
まさかそんなはずない、って言う気持ちは、やっぱりそうなのかもしれないっていう気持ちに置き換わりつつある。
雨が続く季節に、通ったこの街。ここに、祥くんの会社があるなんて。
「ここからちょっと奥に入ったところだけど、今日は他の奴はいねえし、お前も来い」
って車から降ろされたときには、もう頭の中が真っ白だった。
「おい、どうした」
「あ、うん」
なんとか、祥くんの声に返事はしたものの、この駐車場がある通りの反対側の1軒のお店から、目を離すことができない。
何度も開けた、あのドア。
いつか、風で倒れたあの看板。
「あの店が、なんだよ?」
言葉を作る前に、目から熱い涙がぼろぼろこぼれて行く。しばらく泣かないで過ごしていたのにな。
「好きな男がいるのか」
うんうんと、頷いた。声にならない。
体が固まって動けなくなっていたわたしの腕を、祥くんが掴んで、歩き出す。向かっているのは、さっき指差した会社のある方向じゃない。
なぜか抵抗する気も起きなくて、そのまま引きずられるようにして、その洋菓子店の向かい側にある雑貨屋に入った。
玲音さんのお店を見るのは、あの日以来だ。自分の涙が邪魔して、よく見えないけど。
「あいつ?」
祥くんに言われて、お店の店内へと目を凝らすけど、それは大山さんだった。わたしは首を、静かに横に振った。
「もう帰りたい?」
いくらか時間も経ったのだろう、外は薄暗くなっていた。こう言われて初めて、祥くんが、じいっとわたしを見つめていることにもようやく気が付いた。
帰りたいとも帰りたくないとも言い難い気持ちで、わたしは縋るように祥くんの目を見つめるだけだ。
ふと、ガラス越しの通りに、その大山さんが出てきたのが見えた。何か外出する用事でもできたんだろうか。
ズキン、と胸が疼いた。
古い傷が痛むのか、安心したのか、腹が立つのか、やけに高温の涙が枯れもせれずにこぼれる。
代わりにショーケースの前に出てきて、中を確認するように眺めているのは、まぎれもなく玲音さんだった。
よかった、って思った。以前と変わらずに、あのお店で働いてくれていて、よかった、って。
手に握っていたハンドタオルで顔をごしごし拭って、あり得ない情景に目を見張る。
「は!?」
海外から輸入したらしいオシャレな雑貨屋さんで、半径数メートル以内の人は、場違いなわたしの声に振り返ったに違いない。
「な、なんでよ…」
祥くんが、玲音さんのお店のドアを開けていたから。
さっきまで隣にいたはずの彼が、いなくなったことにも全く気が付かなかった。「何しに行くの!!」って言いながら祥くんを捕まえたいけれど、もうあんなところにいたら、わたしはあそこまで行くことなんかできない。
―――あ、あ、あり得ない!!
あろうことか、祥くんが、玲音さんと何か話している。何を、話しているんだろう。
どうか、変なことを言いませんように!「酒癖わるいんだろ」とか「女孕ませてんじゃねえよ」とか…。考えれば考えるほど、リアルな場面が次々と思い浮かんでくる。
わたしが、さっきまで耐えていた、切なくてどこか甘さを含んだ胸の痛みは、あっという間に吹き飛んで、今は嫌な感じで心臓がバクバク震えている。
祥くんがなかなか出てこない気がする。ずいぶん時間が経った気がする。ああ、冷や汗まで出そう。
そうやって、わたしだけが焦っていた時だった。
「あ…」
気のせいじゃ、ないと思う。
ずっと表情の固かった玲音さんが、ほんの少しだけど、かすかにだけど、確かに、笑った。
笑った…。
ぼんやりしていると、いつの間にか祥くんがわたしの立っているガラスの前に立っていて、玲音さんの姿は全然見えなくなっていた。
「来い」って彼の口が動いていることは、なんとか判別できた。
「しっかりしろ」
痺れを切らして、店内までわたしを迎えに来た祥くんに、頭を叩かれた。はっと我に返るものの、何も言葉が出てこない。
「会社までついてこい」
なかなか足が動かないわたしの腕を掴んだ祥くんは、少しの間、何かを考えるようなそぶりをみせてから、わたしの肩を抱いた。
「しばらくの間、我慢してろ」
うん、と言えない代わりに、頷いた。どっちにしても、思うように足が動かないから、支えてもらった方が歩きやすい。
雑貨屋を出て、いくらか歩いた時、わたしは足を止めた。
もうこれが、本当に最後かもしれないって思って、玲音さんのお店を振り返りかけたとき。
「見るな」
って、上から祥くんの鋭い声が飛んで来て、体がびくっとした。
ああ、ずいぶん近くに祥くんがいたんだ。
完全に意識は玲音さんのところへ飛んでいて、そんなことすら忘れてしまっていた。
「あいつ、多分こっちを見てるから。お前は見るな」
訊きたいことがたくさんあるのに、何も言葉にならないまま、わたしは黙って歩く。祥くんが肩を支えてくれて、ゆっくり歩く。
玲音さんの気配だけでも感じ取れないだろうかと、背中に神経を集中させながら。
連れて行かれた祥くんの会社は、思っていたよりは広くて、人通りの多い通りから1本入った筋のビルの、ワンフロアを占めていた。すっきりと見渡せる造りだけど、パソコンだらけのオフィスを通過して、小さな会議室に入る。
そこでわたしが椅子のひとつに腰掛けると、ようやく祥くんはわたしから離れた。
「お前、よくそれだけ涙が出るな」
祥くんが、呆れたようにそう言う。わたしだって、そう思ってる。
「なんか飲むか」
首を横に振った。喉がひっくひっくって詰まりそうだし、液体でもまともに通過しそうにない。
それなのに、戻ってきた祥くんは、紅茶をわたしの目の前に持って来た。
ああ、わたしが紅茶が好きだってもう知ってたんだな。
「お前、嫌いなのかもしれないけど、ケーキ買ってきた」
って言われて初めて、祥くんが見慣れた色の箱を持っていることに気が付く。明るいオレンジのそれは、あのお店のケーキを入れるための箱に違いない。
「なんで。なんでお店の中まで入ったの…」
ようやく震える喉から声を絞り出すと、わたしが抗議の気持ちを込めていたことにも全く気が付かないふりをして、祥くんは、当然と言わんばかりの偉そうな顔で答える。
「お前の代わりに、俺が一発殴って来てやろうかと思って」
物騒だ。だけど、冗談には聞こえない。間違いなく本気でそう考えて、玲音さんのお店のドアを開けたんだろう。
とにかく、刃傷沙汰にならなかったことを感謝しておこう。
テーブルに乗せられた箱にも、わたしがなかなか手を出さないから、痺れを切らした祥くんがそれを開けてくれる。
「あ」
見たことのないスイーツがふたつ、入っている。ひとつは、マリンブルーの色をしたゼリーに、クリームの上にベリーらしい色のソースをまぶし、イルカの形をした小さなゼリーを乗せたもの。もうひとつは、スカイブルーの色の紙皿にプチシュークリームを5つ積み固めて、パウダーシュガーをまぶしたもの。
きれいだと、思った。
「8月の限定商品だって。名前は『海のゼリー』と『空のシュークリーム』」
わかりやすい男だなって、祥くんが笑うけど、馬鹿にしてるみたいには見えなくて。
祥くんの言葉に、その表情が重なると、胸がぎゅうっと締め付けられたみたいになって。
「まさか」
やっと言えたのはそれだけ。でも、祥くんがわたしをからかってるはずはないって、わかってもいる。
信じられないって言う気持ちと、どうしてだろうって言う気持ちがごちゃごちゃに混じり合って、うまくまとまらない。
「あいつ、お前によく似てるな」
そう言えば、早川さんにもそんなふうに言われことがあったっけ。玲音さんのことをよく知ってる早川さんと、わたしのことをよく知ってる祥くんがそう言うなら、きっとそうなんだ。
「たぶん、お前が幸せになったら、あいつは笑えるんだよ。あいつを笑わせてやりたいなら、お前が泣くのをやめろ」
え?
「そういえば、玲音さん、ちょっとだけ、笑ってた…。どうして?なにがあったの?」
わたしが祥くんに一番訊きたかったのは、これだ。
わたしの知ってるような、無邪気な明るい笑顔じゃなかったけど、確かに玲音さんは笑ったから。
「このふたつの菓子に、婚約者の名前と同じ字が1字ずつ入ってるって言ってやったんだよ」
それでどうして笑ったんだろうっていう言葉は、すぐに頭から消えた。きっと、さっきの祥くんの発言が、その答えになるんだ。
海空、なんて、音はともかく、あまりない漢字の組み合わせだと思うから。玲音さんは、祥くんが婚約したのはわたしかもしれないって思ったはずだ。
それで、笑ってくれたの?わたしが、別の人と幸せになっても、いいの?
そっか。もう、わたしが幸せになっちゃえばいいんだね。わたしが幸せなら、玲音さんは笑ってくれるんだね。
これからは、玲音さんが笑える日を待つより、わたしが一歩足を踏み出して、幸せになれる道を探そう。
「わかったぁ…。今日でもう、泣くのは最後にするぅぅぅ…」
最後はピンクさんみたいな語尾の話し方になってしまった。
「うわあ――――ん!」って、子どもみたいに派手に泣いた。
ときどき、祥くんが背中や頭を叩いてきたけど、撫でようとしたのに素直じゃないせいでできなかったんだって、信じることにしよう。ひとりじゃなくてよかった、って、心底思っていたから。
大泣きしながら口に押し込んだ、玲音さんのお菓子は、きっと、美味しかったんだろうと思う。
お父さんが、洋菓子の本場であるヨーロッパに渡っても都合がいいようにと「レオ」の名を、彼に授けたって言う話を鮮明に思い出したから。
玲音さんが、フランスあたりのお店で、笑顔でお菓子を作っているっていう未来を勝手に思い浮かべながら、わたしはいつまでも泣いていた。
再会した日に、同じことを言われて、彼に車から降ろされたところは、こんなところじゃなかった。
あれって、たぶん、わたしに着替えの下着を買わせるためだったんだ。
今更そのことに気がつく。さすがに、洋服みたいに下着まで、祥くんが選べるはずはない。
まさかそんなはずない、って言う気持ちは、やっぱりそうなのかもしれないっていう気持ちに置き換わりつつある。
雨が続く季節に、通ったこの街。ここに、祥くんの会社があるなんて。
「ここからちょっと奥に入ったところだけど、今日は他の奴はいねえし、お前も来い」
って車から降ろされたときには、もう頭の中が真っ白だった。
「おい、どうした」
「あ、うん」
なんとか、祥くんの声に返事はしたものの、この駐車場がある通りの反対側の1軒のお店から、目を離すことができない。
何度も開けた、あのドア。
いつか、風で倒れたあの看板。
「あの店が、なんだよ?」
言葉を作る前に、目から熱い涙がぼろぼろこぼれて行く。しばらく泣かないで過ごしていたのにな。
「好きな男がいるのか」
うんうんと、頷いた。声にならない。
体が固まって動けなくなっていたわたしの腕を、祥くんが掴んで、歩き出す。向かっているのは、さっき指差した会社のある方向じゃない。
なぜか抵抗する気も起きなくて、そのまま引きずられるようにして、その洋菓子店の向かい側にある雑貨屋に入った。
玲音さんのお店を見るのは、あの日以来だ。自分の涙が邪魔して、よく見えないけど。
「あいつ?」
祥くんに言われて、お店の店内へと目を凝らすけど、それは大山さんだった。わたしは首を、静かに横に振った。
「もう帰りたい?」
いくらか時間も経ったのだろう、外は薄暗くなっていた。こう言われて初めて、祥くんが、じいっとわたしを見つめていることにもようやく気が付いた。
帰りたいとも帰りたくないとも言い難い気持ちで、わたしは縋るように祥くんの目を見つめるだけだ。
ふと、ガラス越しの通りに、その大山さんが出てきたのが見えた。何か外出する用事でもできたんだろうか。
ズキン、と胸が疼いた。
古い傷が痛むのか、安心したのか、腹が立つのか、やけに高温の涙が枯れもせれずにこぼれる。
代わりにショーケースの前に出てきて、中を確認するように眺めているのは、まぎれもなく玲音さんだった。
よかった、って思った。以前と変わらずに、あのお店で働いてくれていて、よかった、って。
手に握っていたハンドタオルで顔をごしごし拭って、あり得ない情景に目を見張る。
「は!?」
海外から輸入したらしいオシャレな雑貨屋さんで、半径数メートル以内の人は、場違いなわたしの声に振り返ったに違いない。
「な、なんでよ…」
祥くんが、玲音さんのお店のドアを開けていたから。
さっきまで隣にいたはずの彼が、いなくなったことにも全く気が付かなかった。「何しに行くの!!」って言いながら祥くんを捕まえたいけれど、もうあんなところにいたら、わたしはあそこまで行くことなんかできない。
―――あ、あ、あり得ない!!
あろうことか、祥くんが、玲音さんと何か話している。何を、話しているんだろう。
どうか、変なことを言いませんように!「酒癖わるいんだろ」とか「女孕ませてんじゃねえよ」とか…。考えれば考えるほど、リアルな場面が次々と思い浮かんでくる。
わたしが、さっきまで耐えていた、切なくてどこか甘さを含んだ胸の痛みは、あっという間に吹き飛んで、今は嫌な感じで心臓がバクバク震えている。
祥くんがなかなか出てこない気がする。ずいぶん時間が経った気がする。ああ、冷や汗まで出そう。
そうやって、わたしだけが焦っていた時だった。
「あ…」
気のせいじゃ、ないと思う。
ずっと表情の固かった玲音さんが、ほんの少しだけど、かすかにだけど、確かに、笑った。
笑った…。
ぼんやりしていると、いつの間にか祥くんがわたしの立っているガラスの前に立っていて、玲音さんの姿は全然見えなくなっていた。
「来い」って彼の口が動いていることは、なんとか判別できた。
「しっかりしろ」
痺れを切らして、店内までわたしを迎えに来た祥くんに、頭を叩かれた。はっと我に返るものの、何も言葉が出てこない。
「会社までついてこい」
なかなか足が動かないわたしの腕を掴んだ祥くんは、少しの間、何かを考えるようなそぶりをみせてから、わたしの肩を抱いた。
「しばらくの間、我慢してろ」
うん、と言えない代わりに、頷いた。どっちにしても、思うように足が動かないから、支えてもらった方が歩きやすい。
雑貨屋を出て、いくらか歩いた時、わたしは足を止めた。
もうこれが、本当に最後かもしれないって思って、玲音さんのお店を振り返りかけたとき。
「見るな」
って、上から祥くんの鋭い声が飛んで来て、体がびくっとした。
ああ、ずいぶん近くに祥くんがいたんだ。
完全に意識は玲音さんのところへ飛んでいて、そんなことすら忘れてしまっていた。
「あいつ、多分こっちを見てるから。お前は見るな」
訊きたいことがたくさんあるのに、何も言葉にならないまま、わたしは黙って歩く。祥くんが肩を支えてくれて、ゆっくり歩く。
玲音さんの気配だけでも感じ取れないだろうかと、背中に神経を集中させながら。
連れて行かれた祥くんの会社は、思っていたよりは広くて、人通りの多い通りから1本入った筋のビルの、ワンフロアを占めていた。すっきりと見渡せる造りだけど、パソコンだらけのオフィスを通過して、小さな会議室に入る。
そこでわたしが椅子のひとつに腰掛けると、ようやく祥くんはわたしから離れた。
「お前、よくそれだけ涙が出るな」
祥くんが、呆れたようにそう言う。わたしだって、そう思ってる。
「なんか飲むか」
首を横に振った。喉がひっくひっくって詰まりそうだし、液体でもまともに通過しそうにない。
それなのに、戻ってきた祥くんは、紅茶をわたしの目の前に持って来た。
ああ、わたしが紅茶が好きだってもう知ってたんだな。
「お前、嫌いなのかもしれないけど、ケーキ買ってきた」
って言われて初めて、祥くんが見慣れた色の箱を持っていることに気が付く。明るいオレンジのそれは、あのお店のケーキを入れるための箱に違いない。
「なんで。なんでお店の中まで入ったの…」
ようやく震える喉から声を絞り出すと、わたしが抗議の気持ちを込めていたことにも全く気が付かないふりをして、祥くんは、当然と言わんばかりの偉そうな顔で答える。
「お前の代わりに、俺が一発殴って来てやろうかと思って」
物騒だ。だけど、冗談には聞こえない。間違いなく本気でそう考えて、玲音さんのお店のドアを開けたんだろう。
とにかく、刃傷沙汰にならなかったことを感謝しておこう。
テーブルに乗せられた箱にも、わたしがなかなか手を出さないから、痺れを切らした祥くんがそれを開けてくれる。
「あ」
見たことのないスイーツがふたつ、入っている。ひとつは、マリンブルーの色をしたゼリーに、クリームの上にベリーらしい色のソースをまぶし、イルカの形をした小さなゼリーを乗せたもの。もうひとつは、スカイブルーの色の紙皿にプチシュークリームを5つ積み固めて、パウダーシュガーをまぶしたもの。
きれいだと、思った。
「8月の限定商品だって。名前は『海のゼリー』と『空のシュークリーム』」
わかりやすい男だなって、祥くんが笑うけど、馬鹿にしてるみたいには見えなくて。
祥くんの言葉に、その表情が重なると、胸がぎゅうっと締め付けられたみたいになって。
「まさか」
やっと言えたのはそれだけ。でも、祥くんがわたしをからかってるはずはないって、わかってもいる。
信じられないって言う気持ちと、どうしてだろうって言う気持ちがごちゃごちゃに混じり合って、うまくまとまらない。
「あいつ、お前によく似てるな」
そう言えば、早川さんにもそんなふうに言われことがあったっけ。玲音さんのことをよく知ってる早川さんと、わたしのことをよく知ってる祥くんがそう言うなら、きっとそうなんだ。
「たぶん、お前が幸せになったら、あいつは笑えるんだよ。あいつを笑わせてやりたいなら、お前が泣くのをやめろ」
え?
「そういえば、玲音さん、ちょっとだけ、笑ってた…。どうして?なにがあったの?」
わたしが祥くんに一番訊きたかったのは、これだ。
わたしの知ってるような、無邪気な明るい笑顔じゃなかったけど、確かに玲音さんは笑ったから。
「このふたつの菓子に、婚約者の名前と同じ字が1字ずつ入ってるって言ってやったんだよ」
それでどうして笑ったんだろうっていう言葉は、すぐに頭から消えた。きっと、さっきの祥くんの発言が、その答えになるんだ。
海空、なんて、音はともかく、あまりない漢字の組み合わせだと思うから。玲音さんは、祥くんが婚約したのはわたしかもしれないって思ったはずだ。
それで、笑ってくれたの?わたしが、別の人と幸せになっても、いいの?
そっか。もう、わたしが幸せになっちゃえばいいんだね。わたしが幸せなら、玲音さんは笑ってくれるんだね。
これからは、玲音さんが笑える日を待つより、わたしが一歩足を踏み出して、幸せになれる道を探そう。
「わかったぁ…。今日でもう、泣くのは最後にするぅぅぅ…」
最後はピンクさんみたいな語尾の話し方になってしまった。
「うわあ――――ん!」って、子どもみたいに派手に泣いた。
ときどき、祥くんが背中や頭を叩いてきたけど、撫でようとしたのに素直じゃないせいでできなかったんだって、信じることにしよう。ひとりじゃなくてよかった、って、心底思っていたから。
大泣きしながら口に押し込んだ、玲音さんのお菓子は、きっと、美味しかったんだろうと思う。
お父さんが、洋菓子の本場であるヨーロッパに渡っても都合がいいようにと「レオ」の名を、彼に授けたって言う話を鮮明に思い出したから。
玲音さんが、フランスあたりのお店で、笑顔でお菓子を作っているっていう未来を勝手に思い浮かべながら、わたしはいつまでも泣いていた。