結婚したいから!
日常の中に愛のある日々を
幼き日の決別の真相
「懐かしいな」
声がした時にはもう、祥くんがわたしの手元を覗き込んでいた。
いつの間にか起きてきたらしい。夢中になっていたから、気が付かなかった。
「ガキの頃、おばあちゃんに教えてもらってるって、言ってたよな」
「そう、だっけ…」
胸に、閉じ込めていた記憶が次々と解放されていく。
小学生の頃、こうして毛糸で何かを編む、ということを憶えた。でも、編み目を飛ばしたり、落としたり、後で見ると穴だらけのよくわからないものしか、できなかった。
「何を編んでるんだ?…おい、なんだよ」
「…なん、だろう、ね」
涙がぽとり、ぽとり、と毛糸の編み目の上を滑る。
あの頃、わたしが編んでいたのは、祥くんにあげるつもりのマフラーだった。グレーの太い毛糸で、ざくざく編めばいいだけなのに、穴だらけでちっともうまくできなかった。
でもたぶん、上手にできたとしても、祥くんに上げることは叶わなかったはずだ。祥くんのことが、大好きだった。あれは、わたしの、初恋だった。
祥くんの唇が、そっとわたしの頬に触れる。
今こうして優しくしてくれるのは、どうして?なんでわたしなんか、好きなの?
「わたしのこと、迷惑じゃなかったの?」
「いつの話だよ」
「…子どもの頃」
「迷惑じゃねえよ。めんどくせえけど」
…正直すぎる。
「じゃあ、どうして?」
「何が」
「―――どうして、何も言わないで引っ越しちゃったの…?」
一生、本人に訊くことはできないと思っていた。
まさか、また会う日が来るなんて思ってもみなかったし、再会してからも、何事もなかったかのように接してくれる祥くんに合わせているのが楽だったから。
初恋のことは、誰にも話したことがない。恋の話なら何でも話してきた紗彩にも。
頑丈な金庫に入れて、鍵をいくつもかけて、テープでぐるぐる巻きにして、目につかないように黒い布までかけて、心の奥深くに仕舞ったまま。
そう考えると、自覚していた以上に、負った傷は深かったのかもしれなかった。
「俺と関わると、お前が壊されるから」
「え?」
仰いだ先の、祥くんの瞳が、いつになく揺らめいて見える。意味が、わからない。
「あいつら…、隣町の野球少年、憶えてるか」
無言で頷く。彼らに会ってから、祥くんが口をきいてくれなくなった。
忘れるはずもない。
「次はお前を犯してやるって言われた」
言われたことを理解するのには、時間がかかる。でも、忘れきれなかった記憶が、鮮明に呼び起こされるのには、ほんの数秒しかかからない。
当時、わたしたちは、小学校4年生だった。
小学校に入学して以来、ずっと違うクラスだったけど、初めて祥くんと同じクラスになれて、わたしは本当に嬉しかった。
幼稚園のころからずっと大事な人だった祥くんを、授業中でも行事のときでも、ずっと近くで見ていられるから。
数年前には、ませた友達に「海空は平河くんのこと好きなの?付き合ってるの?」なんて訊かれたときには戸惑っていたのに、同じことを訊かれたら「そんなんじゃない!」ってむきになって否定するようになっていた。
なんて言えばいいのかわからなかった。
ただただ祥くんのことが好きで、一緒に遊んでいられたらそれだけで、わたしは満足だったのに。
いつの間にか皆が成長して、男の子と女の子がふたりで遊んでいるのが不自然に見えるようになっていたことにも、気が付かなかった。
「祥生のこと好きなんだろ!」って、男の子にからかわれても「バカ!」って返すしかできない。
好きだけど、好きだって言ったら、とたんにわたしたちはバラバラにされてしまうような、危うい関係に思えていた、矢先のことだった。
いつもの、学校帰り。あまり同じ学校の子どもたちが遊びに来ないような、狭い公園で、祥くんと鉄棒の練習をしていた。
わたしはどうしても逆上がりができなくて、祥くんに教えてもらっていたのだ。
「よぉ、ひ·ら·か·わ、くん」
大きな声で、数人の男の子が、公園の敷地内に入ってきたときには、すでにもう嫌な予感がしていた。
見たことのない怖い顔で、祥くんが彼らを睨んでいたからだ。わたしだってよく睨まれるけど、あんな目じゃない。
「なんだよ」
祥くんは、彼らから目をそらさないまま、小声で「走って家に帰れ」と言った。その方がいいって頭のどこかでわかってるのに、祥くんを置いて行く決心がつかなかったうえに、もう足がすくんで動かなかった。
「何か用かって言ってんだよ」
「野球の試合でずいぶん世話になったから、お礼に来たんだよ」
笑いながら、二人の男の子が、わたしの前に立っていた祥くんの腕を、両側から掴んだ。「触るな」って祥くんが暴れるから、さらに二人が彼を押さえた。
みんな祥くんより背が高い。きっと上級生だろう。
野球の試合、っていう言葉で、最近祥くんが言ってたことを思い出した。
隣町のチームに卑怯な奴らがいて、すげえ腹が立つ、って怒ってたっけ。わざとデッドボール投げたり、スライディングしたら手を踏みつけたり、するとか。
…この人たちに違いない。
「へえ。カノジョ?いいね、男前だとモテて」
一番前を歩いていた男の子は、祥くんより少し背が高いだけだったけど、体格がよくて、威圧感があった。ぞっとするような気持ち悪い目でわたしを見ている。
「平河くんをボコってやろうかと思ってたけど」
目をそらさずに、彼がこちらに近づいてくることに気が付いて、ようやく足が動くようになったらしく、わたしは裏通りに抜けられる出口へと一目散に走った。
でも、少し出たところであっけなくつかまって、引きずりながら祥くんのところまで連れて行かれる。
「カノジョをいじめた方が効果がありそうだな」
足手まといにだけは、なりたくなかったのに。
頭の中で、その言葉だけがこだまする。走るにも、投げるにも、勉強をするにも、祥くんとの力の差が開いてきていることに、気が付いていた。同じクラスになってからは、なおさら。
周りに何を言われても、全く気にしない様子に見える祥くんだけど、わたしの存在がいよいよ足手まといになったら、あっさり離れて同性の友達の方へ行くんじゃないかって、どこかで心配だった。
だから、バカみたいに逆上がりの練習してた。
でも、こんなことになるなら、こんなところに来るんじゃなかった。「人の目なんか気にするな」って言われたのに。
むきになって鉄棒の練習なんかやらなければよかった。「逆上がりできなくても死なねえし、無理してやるな」って言われたのに。
しつこくやらないで、ちょっとやったらすぐに帰ればよかった。この男の子たちが来た時も、「走って家に帰れ」って言われたのに。
いつも通り、祥くんの言う通りにしておけばよかった。意地になるんじゃなかった。
「そいつは離せ。ただの幼馴染だ。俺、カノジョとかいねえし」
祥くんの吐き捨てるような言葉が、わたしの胸にも突き刺さるのはどうしてだろう。
「ふーん。毎日一緒に帰ってて、カノジョじゃないって?」
掴まれている腕にかかる力は変わらず強く、逃がしてくれそうにはない。
「馬鹿じゃねえ?そう言ってるだろうが、さっさと離せ!」
祥くんが怒鳴ると、彼を押さえていた一人が、彼のお腹を膝で蹴った。容赦がない。
顔をゆがめて体をくの字に曲げる祥くんを見ていると、わたしのお腹まで痛む気がする。
「庇うんだ?そんなに大事なんだ?
まあ、カノジョでも幼馴染でもどっちでもいいや。とにかく平河くんの弱点でしょ、この子」
弱点。その表現に、頭がガンと鳴った気がした。
「俺、カノジョも幼馴染もいないんだよね。うらやましいなぁ」
わたしの腕を掴んだ男の子が、粘っこい視線で、わたしの方を観察してくる。
「キス、してみせて」
まだ、小学生だ。キスって、口と口を合わせるやつ、ってことはわかるけど、したことなんかなかった。
「ほら。平河くんのこと、好きなんだろ?キスしてるところ、俺たちに見せてよ」
背中を強く押されて、祥くんの前で転んだ。膝をすりむいたけど、そんな痛みも感じないくらいに、怖かった。
祥くんの怒った顔も、周りの男の子たちのニヤニヤした下品な笑い顔も。
「嫌」
恐怖で指が震えているのに、はっきりとした声が出た。
頭はうまく働かなくて、とにかく嫌だ、嫌だ、嫌だ!!って、駄々っ子みたいに心の中だけで叫んでいるだけだった。「へえ。意外に強情だね。俺、手伝ってあげるよ」
「きゃあああ!」
「てめえ!いい加減にしろ!!」
いきなり髪の毛を束で強く引かれて、無理矢理立たされた。その乱暴さと痛みに、悲鳴を上げた。いたずらで引っ張られる、という程度じゃなかった。
「ほら。早くやれよ」
髪の毛をゆさゆさ引っ張られて、頭がぐらぐら揺れる。ぶちぶちっと音がして、何本か髪の毛が抜けたってわかった。
呆然としていると、自分で動こうとしないわたしに痺れを切らしたのか、そのまま押されて、がっつんと祥くんと額がぶつかった。
周りの男の子たちが、笑っているような気がしたけど、はっきりとは見えず、声も耳に届かない。
何度も何度も押された。頬やあごもぶつかって、ゴツゴツという音が、骨から響いてくることを感じているだけだった。
「あんたたち!!何やってるの!!いじめてるの!?」
犬を連れたおばさんが、大声で叫んだのを合図に、彼らは散り散りになって逃げ出した。
涙でぼやけた祥くんの唇に、赤い血が滲んでいることに気が付いた。
拷問の様な時間が、夢ではなかったのだと、わたしは思い知った。はっきりとした映像で蘇った記憶の中から、意識を呼び戻すのに手間取る。頭が痛くて、ぼうっとする。
思い出しただけだけど、一晩悪い夢を見たように、喉がからからに乾いている。
「そう。ひどい人たち、だったね」
犯すって意味を、彼らがちゃんとわかっていて、使ったのかどうかはわからない。でも、何かひどい目に合わせようっていう意図だけはひしひしと伝わってくる。
嫌だった。あの男の子たちの何もかも。
祥くんが男の子で、わたしが女の子だってことを、見て見ぬふりしようとしていたわたしの心をえぐるような嫌がらせだったと思う。
性別が違うってことを意識し始めたら、祥くんとの関係が壊れるんじゃないかって危惧していたことを知っていたかのような。
思っていた通り、あれから、祥くんとは遊べなくなった。
「でも、何もされてないよ。大丈夫だよ」
ほんとのことを言うと、大丈夫じゃなかった。彼らのせいで、わたしは祥くんを失ったと、今でも思っている。
「バカ。俺が引っ越す前に、デブをぶん殴ってやったからだよ。お前に手出したらぶっ殺すって言っといた」
デブって…、たぶん、わたしの髪を掴んだ子のことだよね…。
当時、祥くんが喧嘩をして、相手に大けがをさせたって言う噂があった。すでに祥くんはわたしと話もしてくれなくなってたから、本当かどうかはわからなかったけど、どうやら本当のことだったらしい。
噂では、利き腕の骨を砕いたって聞いたけど…。
「ごめんね、足手まといになって」
ずっとずっと謝りたかった。
祥くんは、あの翌日から、わたしが話しかけてもまともに返事も返してくれなくなった。
様子がおかしい祥くんに「一緒に帰ろ」って勇気を出して言ったのに。「俺、こいつらと帰るから」って、同じクラスの男の子たちを指した祥くん。
それから、すっかり話しかける気も削がれて、わたしたちはあっという間に疎遠になった。
あの一件で、わたしは完全に祥くんの足手まといになったんだと思う。そして、あれがきっかけで、祥くんは喧嘩をした。足手まといどころか、大荷物だ。
結局、15年も経ってから、その理由を知るなんて。どれだけ能天気なんだろう、わたし。「足手まといってなんだよ」
祥くんが不思議そうに言う。
「わたしがいなかったら、祥くんは逃げられたかもしれない。わたしのせいで、何度も、嫌な思いをしたんでしょ。」
わたしは、鈍いから。すぐに逃げることができなかったけど、祥くんだけだったら彼らにもつかまらなかったんじゃないかと思う。
「そんなことか。まあ、お前のせいで嫌な思いをしたことは確かだ」
「ご、ごめん」
「俺にキスするの嫌だって言ったよな?」
「…え?」
「結構傷ついたんだけど」
「…は?」
意地悪な笑みを浮かべて、祥くんが少し顔を傾けながら、キスをしてくる。
ちゅってわざと音を立てるから、ドキッとして顔が熱くなる。
「なんで今は嫌がらないんだろうな」
それは。それは。胸の奥で冷凍していた思いが溶けだしている。どきん、どきん、って心臓が大きな音を立てている。
「…ただの、幼馴染だ、って言ったもん」
「は?」
「彼女じゃないって、言ったでしょ」
「はあ?」
「わ、わたしだって、傷ついた!」
祥くんが、可笑しい、というふうにくつくつ笑う。
「じゃあ、あいつらに、思いっきり見せつけてやればよかったな。こういうキス」
小学生にできるはずのない、頭の芯が蕩けるような、キスだ。
心につかえていた塊も、溶けて流れて行く。理不尽に傷つけられた初恋が、修復されていく。
絡められていた舌がそっと引かれて、首筋を撫でていた優しい指が、止まる。
「お前、異常に熱くねえ?」
「そう、言えば。喉が痛い…」
なんだか、色んな事が急に起こって、気が付くのが遅れた。風邪を引いたのかも。
「信じられねえ。このタイミングで熱出すか?」
「わたしっぽい、ね」
「ほんと、お前らしい。バカ」
ふてくされたような顔をする祥くんを見ると、昔に戻ったみたいな気持ちになる。
何もなかったかのように、接することができたときも嬉しかったけど、こうして誤解が解けた後は、なおさら元通りに戻れたような気がして、嬉しい。
祥くんが買い置きしていた風邪薬を貰って、水で流し込んだ。ごくんと喉が鳴ると、そこから痛みが広がる。やっぱり、風邪みたい。
頭がぼうっとするのも、祥くんのキスのせいだけじゃなかったみたい。
せっかくの休日を寝て過ごすのか、って重い気持ちになりながらも、祥くんの広いベッドを独り占めして眠ることにした。
祥くんと昔の話をしたせいか、わたしを捕まえた野球少年たちの夢を見た。はっきりとした理由がなくても、憎まれるってことを、初めて知った。男の子が乱暴だってことを、身を持って知った。
身近にいる男の人と言えば、おじいちゃんと祥くんだけだったから、わたしにとってはかなり衝撃的な出来事だったと思う。
どこかで、男の人を怖がる気持ちがあったのかも。前に、紗彩から指摘されたことには、男の人とは、「嫌われないために尽くしすぎる少女」のような付き合い方をするらしい、わたし。
男の子に嫌われるのが、怖かったのかもしれないな、って思った。
意地悪されたり、大事な人と引き離されたり。大事な人だって、いくら心を砕いているつもりでも、あっさり離れて行ってしまう。
10歳の頃の、祥くんとの別れは、わたしの男の人との関わり方に、暗い影を落としていたのかもしれない。
ぐっすり眠って、目が覚めた後は、そんなことを考える合間にも、うとうとと浅い眠りを繰り返していたみたい。
声がした時にはもう、祥くんがわたしの手元を覗き込んでいた。
いつの間にか起きてきたらしい。夢中になっていたから、気が付かなかった。
「ガキの頃、おばあちゃんに教えてもらってるって、言ってたよな」
「そう、だっけ…」
胸に、閉じ込めていた記憶が次々と解放されていく。
小学生の頃、こうして毛糸で何かを編む、ということを憶えた。でも、編み目を飛ばしたり、落としたり、後で見ると穴だらけのよくわからないものしか、できなかった。
「何を編んでるんだ?…おい、なんだよ」
「…なん、だろう、ね」
涙がぽとり、ぽとり、と毛糸の編み目の上を滑る。
あの頃、わたしが編んでいたのは、祥くんにあげるつもりのマフラーだった。グレーの太い毛糸で、ざくざく編めばいいだけなのに、穴だらけでちっともうまくできなかった。
でもたぶん、上手にできたとしても、祥くんに上げることは叶わなかったはずだ。祥くんのことが、大好きだった。あれは、わたしの、初恋だった。
祥くんの唇が、そっとわたしの頬に触れる。
今こうして優しくしてくれるのは、どうして?なんでわたしなんか、好きなの?
「わたしのこと、迷惑じゃなかったの?」
「いつの話だよ」
「…子どもの頃」
「迷惑じゃねえよ。めんどくせえけど」
…正直すぎる。
「じゃあ、どうして?」
「何が」
「―――どうして、何も言わないで引っ越しちゃったの…?」
一生、本人に訊くことはできないと思っていた。
まさか、また会う日が来るなんて思ってもみなかったし、再会してからも、何事もなかったかのように接してくれる祥くんに合わせているのが楽だったから。
初恋のことは、誰にも話したことがない。恋の話なら何でも話してきた紗彩にも。
頑丈な金庫に入れて、鍵をいくつもかけて、テープでぐるぐる巻きにして、目につかないように黒い布までかけて、心の奥深くに仕舞ったまま。
そう考えると、自覚していた以上に、負った傷は深かったのかもしれなかった。
「俺と関わると、お前が壊されるから」
「え?」
仰いだ先の、祥くんの瞳が、いつになく揺らめいて見える。意味が、わからない。
「あいつら…、隣町の野球少年、憶えてるか」
無言で頷く。彼らに会ってから、祥くんが口をきいてくれなくなった。
忘れるはずもない。
「次はお前を犯してやるって言われた」
言われたことを理解するのには、時間がかかる。でも、忘れきれなかった記憶が、鮮明に呼び起こされるのには、ほんの数秒しかかからない。
当時、わたしたちは、小学校4年生だった。
小学校に入学して以来、ずっと違うクラスだったけど、初めて祥くんと同じクラスになれて、わたしは本当に嬉しかった。
幼稚園のころからずっと大事な人だった祥くんを、授業中でも行事のときでも、ずっと近くで見ていられるから。
数年前には、ませた友達に「海空は平河くんのこと好きなの?付き合ってるの?」なんて訊かれたときには戸惑っていたのに、同じことを訊かれたら「そんなんじゃない!」ってむきになって否定するようになっていた。
なんて言えばいいのかわからなかった。
ただただ祥くんのことが好きで、一緒に遊んでいられたらそれだけで、わたしは満足だったのに。
いつの間にか皆が成長して、男の子と女の子がふたりで遊んでいるのが不自然に見えるようになっていたことにも、気が付かなかった。
「祥生のこと好きなんだろ!」って、男の子にからかわれても「バカ!」って返すしかできない。
好きだけど、好きだって言ったら、とたんにわたしたちはバラバラにされてしまうような、危うい関係に思えていた、矢先のことだった。
いつもの、学校帰り。あまり同じ学校の子どもたちが遊びに来ないような、狭い公園で、祥くんと鉄棒の練習をしていた。
わたしはどうしても逆上がりができなくて、祥くんに教えてもらっていたのだ。
「よぉ、ひ·ら·か·わ、くん」
大きな声で、数人の男の子が、公園の敷地内に入ってきたときには、すでにもう嫌な予感がしていた。
見たことのない怖い顔で、祥くんが彼らを睨んでいたからだ。わたしだってよく睨まれるけど、あんな目じゃない。
「なんだよ」
祥くんは、彼らから目をそらさないまま、小声で「走って家に帰れ」と言った。その方がいいって頭のどこかでわかってるのに、祥くんを置いて行く決心がつかなかったうえに、もう足がすくんで動かなかった。
「何か用かって言ってんだよ」
「野球の試合でずいぶん世話になったから、お礼に来たんだよ」
笑いながら、二人の男の子が、わたしの前に立っていた祥くんの腕を、両側から掴んだ。「触るな」って祥くんが暴れるから、さらに二人が彼を押さえた。
みんな祥くんより背が高い。きっと上級生だろう。
野球の試合、っていう言葉で、最近祥くんが言ってたことを思い出した。
隣町のチームに卑怯な奴らがいて、すげえ腹が立つ、って怒ってたっけ。わざとデッドボール投げたり、スライディングしたら手を踏みつけたり、するとか。
…この人たちに違いない。
「へえ。カノジョ?いいね、男前だとモテて」
一番前を歩いていた男の子は、祥くんより少し背が高いだけだったけど、体格がよくて、威圧感があった。ぞっとするような気持ち悪い目でわたしを見ている。
「平河くんをボコってやろうかと思ってたけど」
目をそらさずに、彼がこちらに近づいてくることに気が付いて、ようやく足が動くようになったらしく、わたしは裏通りに抜けられる出口へと一目散に走った。
でも、少し出たところであっけなくつかまって、引きずりながら祥くんのところまで連れて行かれる。
「カノジョをいじめた方が効果がありそうだな」
足手まといにだけは、なりたくなかったのに。
頭の中で、その言葉だけがこだまする。走るにも、投げるにも、勉強をするにも、祥くんとの力の差が開いてきていることに、気が付いていた。同じクラスになってからは、なおさら。
周りに何を言われても、全く気にしない様子に見える祥くんだけど、わたしの存在がいよいよ足手まといになったら、あっさり離れて同性の友達の方へ行くんじゃないかって、どこかで心配だった。
だから、バカみたいに逆上がりの練習してた。
でも、こんなことになるなら、こんなところに来るんじゃなかった。「人の目なんか気にするな」って言われたのに。
むきになって鉄棒の練習なんかやらなければよかった。「逆上がりできなくても死なねえし、無理してやるな」って言われたのに。
しつこくやらないで、ちょっとやったらすぐに帰ればよかった。この男の子たちが来た時も、「走って家に帰れ」って言われたのに。
いつも通り、祥くんの言う通りにしておけばよかった。意地になるんじゃなかった。
「そいつは離せ。ただの幼馴染だ。俺、カノジョとかいねえし」
祥くんの吐き捨てるような言葉が、わたしの胸にも突き刺さるのはどうしてだろう。
「ふーん。毎日一緒に帰ってて、カノジョじゃないって?」
掴まれている腕にかかる力は変わらず強く、逃がしてくれそうにはない。
「馬鹿じゃねえ?そう言ってるだろうが、さっさと離せ!」
祥くんが怒鳴ると、彼を押さえていた一人が、彼のお腹を膝で蹴った。容赦がない。
顔をゆがめて体をくの字に曲げる祥くんを見ていると、わたしのお腹まで痛む気がする。
「庇うんだ?そんなに大事なんだ?
まあ、カノジョでも幼馴染でもどっちでもいいや。とにかく平河くんの弱点でしょ、この子」
弱点。その表現に、頭がガンと鳴った気がした。
「俺、カノジョも幼馴染もいないんだよね。うらやましいなぁ」
わたしの腕を掴んだ男の子が、粘っこい視線で、わたしの方を観察してくる。
「キス、してみせて」
まだ、小学生だ。キスって、口と口を合わせるやつ、ってことはわかるけど、したことなんかなかった。
「ほら。平河くんのこと、好きなんだろ?キスしてるところ、俺たちに見せてよ」
背中を強く押されて、祥くんの前で転んだ。膝をすりむいたけど、そんな痛みも感じないくらいに、怖かった。
祥くんの怒った顔も、周りの男の子たちのニヤニヤした下品な笑い顔も。
「嫌」
恐怖で指が震えているのに、はっきりとした声が出た。
頭はうまく働かなくて、とにかく嫌だ、嫌だ、嫌だ!!って、駄々っ子みたいに心の中だけで叫んでいるだけだった。「へえ。意外に強情だね。俺、手伝ってあげるよ」
「きゃあああ!」
「てめえ!いい加減にしろ!!」
いきなり髪の毛を束で強く引かれて、無理矢理立たされた。その乱暴さと痛みに、悲鳴を上げた。いたずらで引っ張られる、という程度じゃなかった。
「ほら。早くやれよ」
髪の毛をゆさゆさ引っ張られて、頭がぐらぐら揺れる。ぶちぶちっと音がして、何本か髪の毛が抜けたってわかった。
呆然としていると、自分で動こうとしないわたしに痺れを切らしたのか、そのまま押されて、がっつんと祥くんと額がぶつかった。
周りの男の子たちが、笑っているような気がしたけど、はっきりとは見えず、声も耳に届かない。
何度も何度も押された。頬やあごもぶつかって、ゴツゴツという音が、骨から響いてくることを感じているだけだった。
「あんたたち!!何やってるの!!いじめてるの!?」
犬を連れたおばさんが、大声で叫んだのを合図に、彼らは散り散りになって逃げ出した。
涙でぼやけた祥くんの唇に、赤い血が滲んでいることに気が付いた。
拷問の様な時間が、夢ではなかったのだと、わたしは思い知った。はっきりとした映像で蘇った記憶の中から、意識を呼び戻すのに手間取る。頭が痛くて、ぼうっとする。
思い出しただけだけど、一晩悪い夢を見たように、喉がからからに乾いている。
「そう。ひどい人たち、だったね」
犯すって意味を、彼らがちゃんとわかっていて、使ったのかどうかはわからない。でも、何かひどい目に合わせようっていう意図だけはひしひしと伝わってくる。
嫌だった。あの男の子たちの何もかも。
祥くんが男の子で、わたしが女の子だってことを、見て見ぬふりしようとしていたわたしの心をえぐるような嫌がらせだったと思う。
性別が違うってことを意識し始めたら、祥くんとの関係が壊れるんじゃないかって危惧していたことを知っていたかのような。
思っていた通り、あれから、祥くんとは遊べなくなった。
「でも、何もされてないよ。大丈夫だよ」
ほんとのことを言うと、大丈夫じゃなかった。彼らのせいで、わたしは祥くんを失ったと、今でも思っている。
「バカ。俺が引っ越す前に、デブをぶん殴ってやったからだよ。お前に手出したらぶっ殺すって言っといた」
デブって…、たぶん、わたしの髪を掴んだ子のことだよね…。
当時、祥くんが喧嘩をして、相手に大けがをさせたって言う噂があった。すでに祥くんはわたしと話もしてくれなくなってたから、本当かどうかはわからなかったけど、どうやら本当のことだったらしい。
噂では、利き腕の骨を砕いたって聞いたけど…。
「ごめんね、足手まといになって」
ずっとずっと謝りたかった。
祥くんは、あの翌日から、わたしが話しかけてもまともに返事も返してくれなくなった。
様子がおかしい祥くんに「一緒に帰ろ」って勇気を出して言ったのに。「俺、こいつらと帰るから」って、同じクラスの男の子たちを指した祥くん。
それから、すっかり話しかける気も削がれて、わたしたちはあっという間に疎遠になった。
あの一件で、わたしは完全に祥くんの足手まといになったんだと思う。そして、あれがきっかけで、祥くんは喧嘩をした。足手まといどころか、大荷物だ。
結局、15年も経ってから、その理由を知るなんて。どれだけ能天気なんだろう、わたし。「足手まといってなんだよ」
祥くんが不思議そうに言う。
「わたしがいなかったら、祥くんは逃げられたかもしれない。わたしのせいで、何度も、嫌な思いをしたんでしょ。」
わたしは、鈍いから。すぐに逃げることができなかったけど、祥くんだけだったら彼らにもつかまらなかったんじゃないかと思う。
「そんなことか。まあ、お前のせいで嫌な思いをしたことは確かだ」
「ご、ごめん」
「俺にキスするの嫌だって言ったよな?」
「…え?」
「結構傷ついたんだけど」
「…は?」
意地悪な笑みを浮かべて、祥くんが少し顔を傾けながら、キスをしてくる。
ちゅってわざと音を立てるから、ドキッとして顔が熱くなる。
「なんで今は嫌がらないんだろうな」
それは。それは。胸の奥で冷凍していた思いが溶けだしている。どきん、どきん、って心臓が大きな音を立てている。
「…ただの、幼馴染だ、って言ったもん」
「は?」
「彼女じゃないって、言ったでしょ」
「はあ?」
「わ、わたしだって、傷ついた!」
祥くんが、可笑しい、というふうにくつくつ笑う。
「じゃあ、あいつらに、思いっきり見せつけてやればよかったな。こういうキス」
小学生にできるはずのない、頭の芯が蕩けるような、キスだ。
心につかえていた塊も、溶けて流れて行く。理不尽に傷つけられた初恋が、修復されていく。
絡められていた舌がそっと引かれて、首筋を撫でていた優しい指が、止まる。
「お前、異常に熱くねえ?」
「そう、言えば。喉が痛い…」
なんだか、色んな事が急に起こって、気が付くのが遅れた。風邪を引いたのかも。
「信じられねえ。このタイミングで熱出すか?」
「わたしっぽい、ね」
「ほんと、お前らしい。バカ」
ふてくされたような顔をする祥くんを見ると、昔に戻ったみたいな気持ちになる。
何もなかったかのように、接することができたときも嬉しかったけど、こうして誤解が解けた後は、なおさら元通りに戻れたような気がして、嬉しい。
祥くんが買い置きしていた風邪薬を貰って、水で流し込んだ。ごくんと喉が鳴ると、そこから痛みが広がる。やっぱり、風邪みたい。
頭がぼうっとするのも、祥くんのキスのせいだけじゃなかったみたい。
せっかくの休日を寝て過ごすのか、って重い気持ちになりながらも、祥くんの広いベッドを独り占めして眠ることにした。
祥くんと昔の話をしたせいか、わたしを捕まえた野球少年たちの夢を見た。はっきりとした理由がなくても、憎まれるってことを、初めて知った。男の子が乱暴だってことを、身を持って知った。
身近にいる男の人と言えば、おじいちゃんと祥くんだけだったから、わたしにとってはかなり衝撃的な出来事だったと思う。
どこかで、男の人を怖がる気持ちがあったのかも。前に、紗彩から指摘されたことには、男の人とは、「嫌われないために尽くしすぎる少女」のような付き合い方をするらしい、わたし。
男の子に嫌われるのが、怖かったのかもしれないな、って思った。
意地悪されたり、大事な人と引き離されたり。大事な人だって、いくら心を砕いているつもりでも、あっさり離れて行ってしまう。
10歳の頃の、祥くんとの別れは、わたしの男の人との関わり方に、暗い影を落としていたのかもしれない。
ぐっすり眠って、目が覚めた後は、そんなことを考える合間にも、うとうとと浅い眠りを繰り返していたみたい。