結婚したいから!
ずいぶん、楽になった気がする。
ようやくすっきりと目が覚めたら、部屋の中は、すっかり暗くなっている。何時間くらい寝たのかな。時間の感覚が狂ってしまっているようだ。
額に張り付いた髪をはがす。すごい汗。夏に風邪をひくなんて、何年振りだろう。
体を起こしてみると、まだすこし頭がふらふらするけど、熱はかなり下がったようだ。
水を飲みにリビングに入ったけど、祥くんの姿はなかった。
シャワーで汗を流して出てくると、ちょうど買い物袋を提げた祥くんが帰ってきたところだった。
「おかえり」
「…ただいま」
何、この挨拶したときの間って、もしかして、祥くん、照れてるのかな?不自然に目をそらされて、ようやくその可能性があるってことに思い至る。
「なに?まさか照れてるの?あれぇ?今度は祥くんがお熱?」
ふざけて額に手を伸ばすと、ぱしっと振り払われた。
「気軽に近寄るなって。風呂上がりなんて、誘ってんのかよ。ちょうど太ってきたし、食うにはいい頃だけど」
あ、あれ?なんだか、いつもの祥くんじゃないみたい。
びっくりして、露骨に動揺してしまう。
「ひひひ、貧相な体型だから見る気もしないって言ったでしょ!ななな、なんで、太ってきたってわかるの!?」
慌てて壁際まで後ずさりするけど、祥くんは表情一つ変えなかった。
「興味ないって顔してねえと、お前が怖がるだろ」
「え?」
「昔から、『海空ちゃんかわいい』とか言って男が近寄ってきただけでも、俺の影に隠れてただろうが」
「そうだっけ…」
「男嫌いってほどじゃなかったけど、男が苦手だってのは見てればわかるくらいだったけどな」
「そっか…」
どうやら、野球少年たちに遭遇する前からその傾向はあったらしい。「そういうこと、よくわかってたんだけどな。お前なんか女じゃないって顔して、お前が好きだった男のことをふっ切って、完全回復するまでは待つつもりだったのに。
今朝は、なんで別の男の香水つけてんだって、すっげえムカついた」
そう、なんだ。
「俺、かなり我慢したと思うんだけど」
そう、かもしれない。
わたしが警戒を緩めたのがわかったのか、祥くんが手を伸ばして、そっとわたしの胸に触れて、口を開く。
な、な、なんだろう。異常に心臓がばくばく音を立ててるのが、もうわかったんだろうか。
っていうか、そもそも、な、なんで、いきなり胸、触ってくるんだろう?
完全に動揺しているわたしの耳に、祥くんの呟きが聞こえた。
「さすがにガキの頃よりは育ってるな」
「は?」
「お前がやたら押し付けてくるから、胸が膨らんできたことくらい知ってた」
「はああああ!?」
わたしはとっさに祥くんから離れた。
ああああ、あの、あの、純粋で清らかな初恋の思い出を汚さないで!この人、冷静な顔で、何てことを考えてるんだろう!!
「バカ!祥くんのエッチ!信じられない!!」
いつもなら、大笑いされて終わるのに、祥くんは真っ赤になったわたしを捕まえて、抱きしめると、顔を覗き込んでくる。
「普通だろ。好きな女の体に興味を持って、何が悪い」
そう、言われたら。
もう、何も言い返せなくなって。
必死で、受け止めるだけ。祥くんが貪るように激しく口づける。全身に熱く熱が広がるのは、病み上がりのせい?
離れ際、彼は、なぜか、がりっとわたしの唇に歯を立てた。
「初恋、やりなおさねえ?お前、幼稚園のころからずっと俺のこと好きだっただろ」
って…。
「えええええ!?」
な、なんでばれてたんだろう!?わかりやすい顔は、生まれつきだったらしい。
どうせ、今だって、言葉で何て言ったって「そうです。大好きでした」って、顔に書いてあるんだろう。
「最初のキスは、血まみれだったけど」
あ、やっぱり、あのとき、唇も当たってたんだ。あっちこっち痛くてよくわからなかった。
でも、祥くんの唇に血が滲んでたことは憶えている。
「もうさすがに歯は当たらねえな。なんでそんなに上手くなったわけ?」
そ、そっか。あの血は、わたしの歯のせいか!!ファーストキスが血まみれってどうなんだろう!申し訳ない…けど…、なんで「上手くなった」とか、意地悪な一言を、わざわざ付け足して言うのかな。
そんなの祥くんの方がよっぽど上手くなったって言われるべきだと思う。ちょっとムッとしたから、わたしだって意地悪を言ってみる。
「…ヤキモチ?」
「あ?」
「祥くんって、嫉妬深いんだ?」
「…お前、やっぱり生意気」
優しく腰を支えていたはずの彼の両手が、いつの間にかわたしの両頬をつまんで引っ張っている。
「いっひゃーい!」
「変な顔だな」
片手を伸ばして、なんとか届いた、祥くんの頬を片方だけでも引っ張ってやる。
「おい、調子にのんなよ」
ほんと、祥くんっていつでも偉そう。ほっぺつねられてるくせに。おかしくなって笑い出す。
「祥くんだって、変な顔」
「へえ、いい度胸だな」
不敵に笑って、祥くんがわたしの手を掴む。
自分で笑い転げているつもりが、いつの間にか、祥くんに引き倒されて床に転がってる。
床が痛くないように、背中から後頭部に回された腕と、息がかかるくらい近くに見える唇に気が付いたら、笑顔がすうっと消えて行くのは、わたしも祥くんも同時だった。
そっと近づいてきた唇は、数秒合わさると、静かに離れて行く。
「海空」
祥くんが、呼んでくれるときの、自分の名前が一番好きだ。なんだかいい名前みたいに響く。
「もう一回、俺のこと好きになれよ」
こんなときでも態度が大きいんだね、祥くん。素直に好きだよ、って言えばいいのに。祥くんらしくて、笑っちゃう。
「うん」
「…何笑ってんだよ」
「だって、祥くんかわいいんだもん」
「男にかわいいって言うな」
「ごめん」
ちょっとふてくされた顔になっている祥くんにも、愛しく思う気持ちがあふれてくる。
すでに、わたしは、もう一度、祥くんに恋をしているに違いない。
あんなに玲音さんに未練たらたらだったのに、いつの間に気持ちが切り替わっていたんだろう。なんだか節操がない気もするのに、祥くんに何回キスされても全然嫌じゃないってことは、もう彼のことしか考えてないんだろう。
「口開け。ガキのキスはもう飽きた」
「ん…」
素直に唇を開いて、大人のキス、っていうのを受ける。柔らかい唇の弾力は、脳で味わっているみたいに理屈抜きで生々しい。
口の中で、祥くんの舌が動くたびに、どうして手足の指にまで、痺れが走るんだろう。鼻で呼吸はできているはずなのに、どうしてこんなに胸がぎゅうっと苦しいんだろう。
「は」
って、隙を見て、何とか口でも酸素を取り込むけど、祥くんが意地悪な目をして、唇をぴったり合わせてくる。
…っていうか、なんで目を開けてるの!!
わたしだけ目を閉じてたのかと思うと、恥ずかしい気持ちが倍増した。
「んー!…んっ」
抗議しようと身をよじるけど、全然体が動かせなかった。重くはないのに、祥くんにしっかり押さえられている。
焦点が合わないくらい近くで見つめ合っていた目が、ぼやけて行く。
だめだ。うっとりしてしまう。
開けていられなくなった目は、再び、すっかり瞼で覆われた。
それを待っていたみたいに、祥くんの唇がようやく離れる。
「もうそんなに、俺のこと好きなんだ?」
完全に息が上がってるわたしと違って、何もなかったみたいに涼しい声が、鼓膜を震わせる。背中にぴりぴりと電気が走る気がする。
「ん。好き。祥くんのこと、大好き」
告白、の言葉にしか聞こえないのに。とっくに心臓は異常な心拍数を記録していたし、頭の中はやたらとぼんやりしているから、自然に言葉が出た感じで、緊張もなにもない。
なんでもいい。どうでもいい。祥くんがいる、それだけで。
「もっと言えよ」
薄く開いた目で見た祥くんは、意地悪な顔をしていない。切ない目をしているように見える。
そんな顔も、するんだ…。わたしまで、胸がぎゅっと締めつけられる。
「祥くん、大好きだよ。わたし、祥くんのことが好き。…あっ」
鎖骨のところをちゅうっと吸われて、軽い痛みを感じた。キスマーク、つけたんだ。
「俺も海空が好きだ」
ぼんやりしているわたしの目を、ちゃんと覗きこんで、祥くんは言ってくれた。いつだって嫌われてないってことはわかってたけど、はっきりと好きだって言ってくれたことはなかった。
「初めて聞いた…」
「初めて言ったんだから当たり前だろ」
「もう一回…」
「バカ。何回も言えるか」
「恥ずかしいの?わたしは何回も言ったのに。祥くんの意気地なし」
「…挑発したのはお前だからな」
低い声に、再びびくり、と背中を震わせたら。
「口に出さなくても、俺はお前しか好きじゃない。忘れるな」
変な、言い方。ひねくれた、表現。それなのに、祥くんの言いたいことがちゃんとわかる。
「あ、…」
声が、自分の口からこぼれていくのを、止められなくなる。祥くんの唇は、わたしの首に下りて、柔らかく舌を這わせる。
ワンピースの前ボタンを、ぷつりぷつりとひとつずつ外されていくのを、止められない。
肌に直に触れる祥くんの手が、いつもよりひんやりしているように感じるのは、わたしにまだ微熱が残っているせいだろうか。
床の上、なのに。電気が点いている、のに。いつもならわたしが騒ぎそうなことが、頭の端っこにも引っかからなかった。