結婚したいから!


…確かに、忘れられなくなるかもしれない。これだけ、たっぷり愛されたら。


下腹部をしくしくと蝕む鈍痛。わたしは広いベッドの布団の中で浅い眠りから覚めた。丸めていた体を伸ばすけれど、まだ痛みが消えていないことがわかっただけだった。

あれから、いつの間にか寝室に移動して、このベッドの上で、祥くんに抱かれていた。

あんなにわたしを翻弄した両手も、今は、後ろから優しく絡んでいるだけだ。


真っ暗な部屋の中、規則正しい寝息だけが聞こえてくる。

昼間ずっと寝ていたわたしとは違って、疲れたんだろう。

祥くんの腕の中で、そっと寝返りをして、彼と向い合せになった。暗闇に見える彼の表情は、嘘みたいに無邪気だ。

かすかに開かれた唇だけが、わずかにわたしを抱いていたときの祥くんを思い出させる。あそこから、熱い吐息が甘くこぼれて、わたしの肌にかかっていたのは、夢だったんじゃないかって思う。

お腹が、痛む。それが夢じゃないと教えるかのように。

初めてじゃ、ない。残念だけど。短大に入ってすぐに付き合った彼に、求められるまま捧げてしまった。思い出すのも嫌なくらい、ひたすら痛かった。

そう言えば、紗彩に、求められたからってすぐに寝るな、って言われたっけ。

自分の気持ちが熟したタイミングで、って。今頃思い出したって遅いんだけど。今、祥くんに対して、抱かれたんだから好きでいてほしい、って言う気持ちは、不思議と持ってない。

言われてみれば、これまでは、これだけ気を許したから大事にしてほしい、っていうアピールのために、この行為を受け入れてきたような気もしてくる。

だって、さっきは、そんなこと、どうでもよかった。

祥くんがわたしに飽きないかどうかとか、これからも嫌わないでいてほしいとか。


ただひたすら、気持ちよかった……。もっと言えば、自分のことしか考えてなかった。


冷静になった今、それを自覚すると、顔が勝手に熱くなるけど。実際、裸で祥くんと抱き合ってることが、気持ちよくて、とにかく幸せだった。

後のことは何も考えられないくらいに。正直、祥くんがわたしのことをどう思ってるかってことだって、どうでもよかった。


はあ。自分でもなんだかよくわからないため息をついて、祥くんの胸に擦り寄る。

温かい皮膚の感触が頬に気持ちいい。寝息が聞こえるから、安心して唇を当てたのに、かすれた声が頭上から響いてきてびっくりした。「なんだよ。まだヤりたいの」

慌てて離れ、祥くんの顔を確認するけど、まだ寝てるんじゃないかってくらい、しっかり目を閉じている。

今まさに、起こしてしまったところらしい。

「ち、ちがう!」

ん、と軽く伸びをしてから、祥くんの腕は、もう一度わたしを引き寄せる。

「じゃあ、なんでそんなにくっついてキスまでしてくれたわけ?」

もう声はかすれていない。

「うん、っと…。安心するなあって、思って……。好きだなあって、思って……」

言いながら、どんどん自分の頬が熱くなっていくのがわかる。暗いし見えないはずだけど、裸の胸から、祥くんには伝わってそうだ。

「お前、そんなに甘えるタイプだったっけ?」

祥くんがおかしそうにくつくつ笑って、わたしの髪の毛を指で梳いた。

「…ちがうと、思う」

よく甘えん坊なんじゃないかって言われたりするけど、考えてみれば、あまり人にべたべたするのが好きじゃなかった。

祥くんって、わたし自身よりもわたしのことを知ってるんじゃないかって思うことがときどきある。
幸くんみたいに、スキンシップが大好きな人って、男女を問わず、ときどきいる。そういう人の、人格は別として、無遠慮に触れてくるその行動は苦手だった。

「でも、祥くんにはくっついてもいいみたい」

くっついてもいい、っていうか、くっつきたい。

「海空は何でも我慢し過ぎる。思い切り甘えてみろ、俺に」

「うん」

そんなに我慢してたかな。自覚はない。でも、遠慮はやめて、そうっと祥くんの首に両腕を回して絡めた。

くっつきたいから。もっと。もっと。体の隙間がほとんどなくなるくらいぴったりくっつくと、またさらに安心する。

「胸が当たってるんだけど。誘ってんのか」

「うん」

「…は?」

「誘ってる」

「…何泣いてんだよ」
「…幸せで」

「……そうか」

穏やかな声で、祥くんが呟いた。片手で腰を抱いて、片手で髪を梳かしてくれる。

幸せで涙が出るって、初めて。好きでたまらなくて涙が出るって、初めて。

「早く、祥くんに抱いてもらえばよかった」

「…はあ?」

「あんなに玲音さんのこと、忘れられなくて辛かったのも、嘘みたい。初めてのときの苦痛も、嘘みたい」

「…煽ってんのか」

「煽ってる」

ため息をついて、祥くんが、涙でぬれたわたしの目元にキスをする。

「…他の男の話はするな」

「わかってる。全部、どうでもよくなったって、言いたかっただけ」
「わかってるんだけどな。俺、ちょっと変だろ」

「え?態度が大きすぎるところ?自信過剰なところ?意地悪言うところ?エロいところ?」

「…おい、ついでに悪口言いまくるなよ」

「へへっ。ちょっと、ヤキモチやき、だよね?」

「今までは、彼女に浮気されてもあっそ、って感じだったのにな」

不本意、って顔に書いてある。祥くんの性格を考えれば、その方が彼らしい気もする。

「他の女の話はするな」

祥くんの真似をして言ってみる。再会してからの祥くんに女の人の影を感じたことはないけれど、きっと、モテるんだろうと思う。子どもの頃からそうだったから。

この離れていた15年の間に、どんなふうに女の人と付き合ってきたんだろう、って考えると、確かに複雑な気分だ。

「俺も、どうでもいい。今までのどの女も」


祥くんの唇の感触は、わたしの記憶を何度も上書きするみたい。わたしも、彼の記憶を上書きできていればいいな。

こうしてもつれるように抱き合っていると、世界にはわたしたち二人しかいないみたいな気分になる。

そんなはずはないのだけれど、祥くんといるときには、ときどきそう思う。

子どもの頃はよく「わたしと祥くんしかいなかったらいいのに」と思ったっけ。同級生に、祥くんとの仲を邪推されるたびに。


閉じ込めていた記憶は浄化されて、今はただ、目の前にいる祥くんに溺れているだけ。

わたしは、今まで誰とも同棲をしたことがない。恋はいつも、日常生活から少し浮いたところにある存在だった。

放課後の寄り道や、仕事が終わってからの食事。週末はちょっぴり遠出のデート。

だから、普通の暮らしの中に、好きな人の姿があるってこと自体が、それだけでも、なんだか新鮮。同じ家に帰って、抱き合って眠って、目覚めたら一緒にご飯を食べる……。


「結婚したら、こんなふうなのかなあ」


頭で考えていただけのつもりが、声に出してしまっていたらしい。寝起きでぼんやりしていたせいだろうか。

「お前、まだ結婚願望強いの?」

「わあっ!!」

びっくりした!

ごはんをよそったお茶碗を、ことんとテーブルに置いて、祥くんが隣の椅子に腰を下ろすところだった。

「なんだよ」

「あ、いや、独り言、だったし…」

しどろもどろになるわたしを見て、祥くんが笑う。
「どっちでもいいけど」

「え?」

「籍入れたかったら、紙持って来いよ」

「ええ!?」

何もなかったかのように、冷静な顔で、祥くんが朝ごはんを食べ始める。紙って…、婚姻届のことだよね?

でも、プロポーズって雰囲気でもないんだけど!

「な、何、その軽い扱い。どっちでもいいようなことかなぁ?」

結婚に対する価値観が、ずいぶん違うみたい。祥くんとの温度差を感じて、戸惑う。

「戸籍がどうなってようがどうでもいいってことだ。お前がここにいるなら」

な、なるほど。そうやって言われると、先進的な考えのようにも聞こえる。

それにその、「お前がここにいるなら」っていう表現はちょっと、きゅんときた。さっき感じた戸惑いなんかさっぱり消えた。

わたしって単純!

「なんだか、フランスの人みたいだね。結婚してなくても子どもがいるようなカップルも多いんでしょ」

「何それ、俺の子どもが欲しいってことか」

「ち、違う!そこまで言ってない!!」

ぶって吹き出した祥くんに「早く食え」って言われて、慌ててごはんに箸をつける。
「結婚して法の上で縛るって、どうなんだろう、って思わねえ?結婚した瞬間は別として、その後何があるかわからねえし」

「…うん」

どこの夫婦のことを言っているか、わかってしまった。きっと、祥くんのお父さんとお母さん。

わたしには全く両親のことを話さなくなった祥くん。きっと、彼らの離婚のことを言っているんじゃないかって思ったけど、そこには触れずに、一般論を聞いたことにしておこう。


「そうだね。祥くんだって、スタイル抜群の美女に誘惑されたら無視できないよね」

冗談で言ったのに。

「据え膳食わぬは男の恥だからな」

あっさりと真顔でそう言い返されたから、飲み込みかけていたご飯がのどにつかえた。

「バカだな、お前。動揺するなら変なこと言うな」

むせるわたしの背中を叩きながら、祥くんは大笑いしていた。
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