結婚したいから!
「なに?のろけてんの?」
呆れたような顔で、紗彩がわたしを見ている。夢中で、彼女と会っていなかった期間にあった出来事を話していたわたしは、はっとした。
そう、聞こえる?急に恥ずかしくなって、小鉢の中身をつまんで食べてみたけど、何が入っていたのかよくわからなかった。変だなぁ、紗彩のお勧めのお店だから、美味しいはずなのに。
「いや、でも、きっと、結婚したらこういう感じなんだよね、って言いたかったんだけど」
はっ、ってバカにしたように鼻で笑われた。
「それをのろけって言うの!」
「そ、そうですか」
ふっと表情を緩めて、紗彩が微笑む。あ、花が咲いたみたい。
「でも、あたし、やっぱり嬉しいな」
「ん?」
「海空が、幸せそうだと、ね」
「紗彩ぁ、ありがと。わたしも、そうだよ。紗彩が綺麗になっていくってことは、彼氏と順調なんだよね」
「うん。まあ、ね」
おお、恥ずかしそう!うつむいて、小皿に取り分けた鯛のカルパッチョを一切れ、食べるでもなくつついている。
照れてる紗彩って、ちょっとレアだと思う。同性なのにドキッとしちゃうなぁ。
「ねえ、どんな人?いつ、どこで、どんなふうに、知り合ったの?」
「そんなに一度に答えられないから」
紗彩は笑うけど、前回聞き逃したから、ずっと気になってたんだ。前に会ったのは、7月の後半だったから、もう1カ月以上過ぎている。
9月に入ってから、今日みたいに、ときどきは暑さが緩む日があって、ゆっくりでも季節が確実に移ろっているんだって気がつく。
お互いに仕事をするようになると、親友って言ってもなかなか会えないものだな、って思う。
「じゃあじゃあ、どんな人?」
「かわいい人、かな。年上だけど」
「ほお…。なんか、紗彩と並んでるところが想像できないタイプだね…」
「あたしだって、そう思うよ」
年上でかわいい彼と、年下で大人っぽい紗彩かぁ。…それはそれで、いいかも。「で、どうやって知り合ったの?」
「面接で」
「え?面接までして彼氏を大募集したの?」
「バカだよね、海空。今の仕事の面接のとき。あたしが面接された側だから!」
「…え、ずいぶん前じゃない?」
「……ずいぶん前、だよ。5年になる」
歯切れが悪い紗彩も、レア!どうしたって言うんだろう、この子は。
「じゃあ、同じ出版社の人ってこと?」
「うん。面接官だった」
「てことは、結構年上なんだ?」
「うーん、今33歳だよ」
「へえ…」
「な、何よ。何考えてるの、あんたは」
「うん…ちょっと待って。頭の中整理するから」
なんだか、聞けば聞くほど複雑な気持ちになっていくのが、自分でもわからない。紗彩にいろいろ質問したかったのに。なんだか、あまり答えを聞きたくなくなってきた。
「わかった、ヤキモチだ!」
「はあ?」
「わたし、紗彩の彼氏にヤキモチやいてるらしい!」
「ほんと、バカ!」
紗彩が肩を揺らして笑い出す。確かに、バカだよね。でも、そうみたい。
「だって、さ。5年も前に知り合って、いつ好きになったの?ずっと、わたしに話してくれなかったってことでしょ。なんか、紗彩が彼にだけ心を開いてたみたいで、ちょっと寂しいよ」
そう、らしい。話を聞いてみたかった。付き合うまでのことも。
「ごめん。彼、結婚してたから」
「…はっ?」
びっくりしすぎたのか、自重したのか、大声も出なかった。
「好きにならないように、気をつけてたんだよ。ずーっと。でも、少し前に離婚したんだ」
紗彩が、慌てたように付け足す。
「そっ…か…。だから、だから、わたしにも言わなかったんだ?」
祥くんが、結婚した瞬間は別として、その後何があるかわからないって言ってたけど、紗彩の彼氏はまさにその経過をたどった、ってことなんだ。
「うん。家庭を壊す気はなかったしね」
「不倫してたってわけじゃないんだね」
「うん。それまでのあたしなら、好きになったら、そんなこともアリだと思ってたはずなのに、実際はそんなことできなかった。
だから、自分の気持ちが消えるのをじいっと待ってただけだったよ」
それって、なんて、紗彩に似合わない姿だろう。
短大時代、気に入った男の子とは、かならず恋人同士になってた紗彩。それって、ただ綺麗なだけじゃ、難しいことだと思う。
言い寄られる数は多いけど、自分の好きになった人以外は見向きもしなかったし、好きになれば、自分から思いを打ち明けることもよくあった。
「彼が離婚したから、告白したの?」
「ううん。あっちから『お前のことが気になって仕方がないから、離婚する』って言われた」
「うわあ!」
「離婚した、じゃなくて、する、だからね。それを今言ってどうするんだ、って思ったよ。
でもね、なんか、その時の彼が、すごく切羽詰まったみたいな顔してたから、何にも言えなかった。いつでもどこでも鋭い突っ込みができるあたしなのに」
「なんか、わたしまでドキドキしてきたんだけど!」
落ちつけ、わたし。
手を伸ばして口に運ぶカシスオレンジは、氷は大方解けて味も薄くなり、グラスの周りについていた滴もだらだらこぼれてしまっている。
どれだけ熱中して紗彩の話を聞いていたんだろう。
「それから初めにやってきた週末に、彼は本当に離婚してしまって。正直、複雑な気持ちだったな」
「付き合える!って浮かれる感じじゃないんだ?」
「そう、だね。悪意はなかったけど、あたしのせいだ、って思えて」
「そっか…」
たぶん、いつもわたしの話を聞いて、ときには辛辣にときには温かく、意見を言ってくれる紗彩だけど、自分のことは胸にしまって、あれこれ思い悩むこともあったんだろうな。
「ごめんね、話も聞いてあげられなかった、わたし」
「何言ってんの。今聞いてくれてるでしょ。あたしだって、今はのろけられるんだからね!」
しょんぼりするけど、紗彩がそんな似合わないことを言うから、笑ってしまう。
「じゃあ、これから、いっぱいのろけ話を聞くね」
わたしがそう言うと、紗彩はまた幸せそうに笑みを咲かせるのだった。
「海空の電話、鳴ってない?」
紗彩に言われて、鞄から携帯電話を引っ張りだすと、メールを受信していた。
From 結城晃一
Sub. 無題
本文 腹減ったー。仕事が終わらねー。あのスーパー、から揚げ弁当だけやたらうまいって、知ってた?
「ぶっ。知らないし」
思わずわたしが呟くから、紗彩が画面を覗き込んでくる。「結城って、誰だったっけ」って言うから、「紗彩が啖呵切った相手だよ」って答えてあげる。
「はあ!?あいつ、まだ連絡してくんの!?しつこい!!っていうか、何この中身のないメール」
「確かに中身がないよね。まだっていうか、全然、連絡なんかなかったよ。最近偶然会ったの」
To 結城晃一
Sub. 知りませんけど
本文 機会があったら食べてみます。っていうか、暇なんですか?くだらないメールしないで早く仕事してください。
仕事が終わらないって書いてあるのにわざとそう書いて送信すると、「きつ!」って一言だけ返ってきてまた笑えた。もう返信はしなかった。
「何?あいつとどういう関係?」
「メル友かなぁ?」
よくわからないけど、それが一番近い表現のような気がする。
スーパーで下敷きにしてしまってから、こうやって、ときどき、ただの暇つぶしじゃないかっていう、くだらないメールが来るようになった。
紗彩の指摘通り、中身がないせいか、かえって不快感もない。たいてい笑って1、2回返信したら、終わり。
メールするだけなんだけど、友達みたいに、思ったことを言える。わたしには異性の友達っていないけど、友達って表現がやっぱりしっくりくる気がする。
「考えてみると、初めての、男友達かも」
「へえ。なんかよくわかんないけど、それならまあ、いっか。海空、楽しそうだし」
「そうだね。毎回たいした内容もなくて笑えるよ」
「今度転送してよ」
「あはっ!それも面白いかも。結城さん、紗彩に転送してるって知ったらびっくりするだろうなぁ」
ふたりでくすくす笑う。
紗彩といると、深刻なことも、どうでもいいことも、何でも共有できる。辛いときも、嬉しいときも、彼女に会えれば、気持ちが上を向いてくる。
そんな大事な存在の紗彩が、幸せな恋をしているということは、わたしの気持ちも幸せにしてくれる。
「彼と上手く行ってるんだね」
部長さんが、向かい側の席でにこにこしながらわたしを見つめている。わたしの隣には、理央さん。
職場で定時を迎えて、今は3人で会議室に入って、それぞれ椅子に座ったところだ。
「はい。いろいろとご心配をおかけして、すみませんでした」
素直な気持ちで、頭を下げた。
「部長、聞き様によってはセクハラ発言ですよね」
あっさりと理央さんに言われて、部長さんが「え、えっと」と珍しく言葉を探している様子が、かえって好感度を上げるから、この人って得だと思う。
「ふふ。大丈夫です。セクハラは、相手が望まない行動、だそうですから。わたしは心配していただいて嬉しいですよ」
かすかにほっとした表情で、なんとかいつもの部長さんらしい落ち着きを取り戻したようだ。
理央さんがくすりと笑う。上司をからかうなんて、彼女も大物だと思う。
「もちろん、そういうつもりじゃなくて、九条さんが元気になって嬉しくてね」
その気持ちが伝わるから、わたしまでにこにこしてしまう。
「その…、お見合いすることとか、上手く仕事ができなくて、すみませんでした。やっぱり、わたしには恋愛を仕事にするってことは、難しいみたいで。
あ、でも、一生懸命、理央さん、じゃなかった、石原主任のお仕事をサポートさせていただきますから!」
与えられた仕事に挫折して、すすめられるまま休暇を取って、ゆっくり休ませてもらって。しかも首にもならず、別の仕事をさせてもらえて、本当に感謝している。
「そのことなんだけど」
部長さんにそう言われて、一瞬で頭が真っ白になった。3人で会議室に入るなんて、何か大事な仕事があるのかと思ってたけど。
え、もしかして、わたし、クビ!
「九条さんもコーディネーターやってみないかと思って」
コーディネーターっていうのは、まさに理央さんの職種がそれに当たる。マリッジ部に登録している顧客同士の出会いをセッティングする、っていうのがメインのお仕事だ。
「ええっ?わたしが?」
クビを宣告されずに済んだだけじゃなくて、ステップアップの提案をしてくれたのだと気がつくと、胸が熱くなった。
「ほら、お盆休みを早めに切り上げて出てきてもらった時、楽しかったって言ってたよね?」
…たしかに。あのときは、結婚相談所らしからぬ、独身の3人だけ、というなんとも寂しいマリッジ部ではあったけれど。
「結婚したい」という自分と同じ願望を持っておとずれるお客様の話を聞くことは、本当に無心に楽しかった。
「石原についてたなら、コーディネーターの仕事についても、よくわかってると思う。もうすぐ、秋の異動の時期だから、それに合わせて九条さんも新しい仕事にチャレンジしてみたらどうかと思って。
その前に、本人の意思を確認したいと思ってね。どうかな」
わたしにも、理央さんと同じ仕事ができるかもしれない。考えただけで、目の前の世界が広がっていくみたいだった。
学校を卒業してから、行き当たりばったりで、なんとか仕事を繋いで生活していければいいと思っていた。「やりがいとかあるの?」って、短大時代の友達に訊かれても当時の仕事に疑問さえ持たなかったけど。
もし、自分でもやりがいがあるって思える仕事ができたら。それって、どんなに楽しいことだろう。
「はい!やってみたいです!!」
嬉しくて。不安を感じる前に、元気に返事をしてしまっていた。部長さんも、理央さんも、顔を見合わせてにこにこしてくれる。
今度こそ、営業職も事務職も戦力外になったわたしを見離さずにいてくれた、彼らの、力になれますように。
少し前に泣き暮らしていたことなんか、嘘みたいに、毎日が充実してた。悪いことばっかりは続かないんだなぁって、感心するほど。
でも、逆のことも言えるんだ。良いことばっかり続くはずはない、ってこと。
わたしは、いつもこのことを、良いこと、っていうのが終わってから、思い出す。
呆れたような顔で、紗彩がわたしを見ている。夢中で、彼女と会っていなかった期間にあった出来事を話していたわたしは、はっとした。
そう、聞こえる?急に恥ずかしくなって、小鉢の中身をつまんで食べてみたけど、何が入っていたのかよくわからなかった。変だなぁ、紗彩のお勧めのお店だから、美味しいはずなのに。
「いや、でも、きっと、結婚したらこういう感じなんだよね、って言いたかったんだけど」
はっ、ってバカにしたように鼻で笑われた。
「それをのろけって言うの!」
「そ、そうですか」
ふっと表情を緩めて、紗彩が微笑む。あ、花が咲いたみたい。
「でも、あたし、やっぱり嬉しいな」
「ん?」
「海空が、幸せそうだと、ね」
「紗彩ぁ、ありがと。わたしも、そうだよ。紗彩が綺麗になっていくってことは、彼氏と順調なんだよね」
「うん。まあ、ね」
おお、恥ずかしそう!うつむいて、小皿に取り分けた鯛のカルパッチョを一切れ、食べるでもなくつついている。
照れてる紗彩って、ちょっとレアだと思う。同性なのにドキッとしちゃうなぁ。
「ねえ、どんな人?いつ、どこで、どんなふうに、知り合ったの?」
「そんなに一度に答えられないから」
紗彩は笑うけど、前回聞き逃したから、ずっと気になってたんだ。前に会ったのは、7月の後半だったから、もう1カ月以上過ぎている。
9月に入ってから、今日みたいに、ときどきは暑さが緩む日があって、ゆっくりでも季節が確実に移ろっているんだって気がつく。
お互いに仕事をするようになると、親友って言ってもなかなか会えないものだな、って思う。
「じゃあじゃあ、どんな人?」
「かわいい人、かな。年上だけど」
「ほお…。なんか、紗彩と並んでるところが想像できないタイプだね…」
「あたしだって、そう思うよ」
年上でかわいい彼と、年下で大人っぽい紗彩かぁ。…それはそれで、いいかも。「で、どうやって知り合ったの?」
「面接で」
「え?面接までして彼氏を大募集したの?」
「バカだよね、海空。今の仕事の面接のとき。あたしが面接された側だから!」
「…え、ずいぶん前じゃない?」
「……ずいぶん前、だよ。5年になる」
歯切れが悪い紗彩も、レア!どうしたって言うんだろう、この子は。
「じゃあ、同じ出版社の人ってこと?」
「うん。面接官だった」
「てことは、結構年上なんだ?」
「うーん、今33歳だよ」
「へえ…」
「な、何よ。何考えてるの、あんたは」
「うん…ちょっと待って。頭の中整理するから」
なんだか、聞けば聞くほど複雑な気持ちになっていくのが、自分でもわからない。紗彩にいろいろ質問したかったのに。なんだか、あまり答えを聞きたくなくなってきた。
「わかった、ヤキモチだ!」
「はあ?」
「わたし、紗彩の彼氏にヤキモチやいてるらしい!」
「ほんと、バカ!」
紗彩が肩を揺らして笑い出す。確かに、バカだよね。でも、そうみたい。
「だって、さ。5年も前に知り合って、いつ好きになったの?ずっと、わたしに話してくれなかったってことでしょ。なんか、紗彩が彼にだけ心を開いてたみたいで、ちょっと寂しいよ」
そう、らしい。話を聞いてみたかった。付き合うまでのことも。
「ごめん。彼、結婚してたから」
「…はっ?」
びっくりしすぎたのか、自重したのか、大声も出なかった。
「好きにならないように、気をつけてたんだよ。ずーっと。でも、少し前に離婚したんだ」
紗彩が、慌てたように付け足す。
「そっ…か…。だから、だから、わたしにも言わなかったんだ?」
祥くんが、結婚した瞬間は別として、その後何があるかわからないって言ってたけど、紗彩の彼氏はまさにその経過をたどった、ってことなんだ。
「うん。家庭を壊す気はなかったしね」
「不倫してたってわけじゃないんだね」
「うん。それまでのあたしなら、好きになったら、そんなこともアリだと思ってたはずなのに、実際はそんなことできなかった。
だから、自分の気持ちが消えるのをじいっと待ってただけだったよ」
それって、なんて、紗彩に似合わない姿だろう。
短大時代、気に入った男の子とは、かならず恋人同士になってた紗彩。それって、ただ綺麗なだけじゃ、難しいことだと思う。
言い寄られる数は多いけど、自分の好きになった人以外は見向きもしなかったし、好きになれば、自分から思いを打ち明けることもよくあった。
「彼が離婚したから、告白したの?」
「ううん。あっちから『お前のことが気になって仕方がないから、離婚する』って言われた」
「うわあ!」
「離婚した、じゃなくて、する、だからね。それを今言ってどうするんだ、って思ったよ。
でもね、なんか、その時の彼が、すごく切羽詰まったみたいな顔してたから、何にも言えなかった。いつでもどこでも鋭い突っ込みができるあたしなのに」
「なんか、わたしまでドキドキしてきたんだけど!」
落ちつけ、わたし。
手を伸ばして口に運ぶカシスオレンジは、氷は大方解けて味も薄くなり、グラスの周りについていた滴もだらだらこぼれてしまっている。
どれだけ熱中して紗彩の話を聞いていたんだろう。
「それから初めにやってきた週末に、彼は本当に離婚してしまって。正直、複雑な気持ちだったな」
「付き合える!って浮かれる感じじゃないんだ?」
「そう、だね。悪意はなかったけど、あたしのせいだ、って思えて」
「そっか…」
たぶん、いつもわたしの話を聞いて、ときには辛辣にときには温かく、意見を言ってくれる紗彩だけど、自分のことは胸にしまって、あれこれ思い悩むこともあったんだろうな。
「ごめんね、話も聞いてあげられなかった、わたし」
「何言ってんの。今聞いてくれてるでしょ。あたしだって、今はのろけられるんだからね!」
しょんぼりするけど、紗彩がそんな似合わないことを言うから、笑ってしまう。
「じゃあ、これから、いっぱいのろけ話を聞くね」
わたしがそう言うと、紗彩はまた幸せそうに笑みを咲かせるのだった。
「海空の電話、鳴ってない?」
紗彩に言われて、鞄から携帯電話を引っ張りだすと、メールを受信していた。
From 結城晃一
Sub. 無題
本文 腹減ったー。仕事が終わらねー。あのスーパー、から揚げ弁当だけやたらうまいって、知ってた?
「ぶっ。知らないし」
思わずわたしが呟くから、紗彩が画面を覗き込んでくる。「結城って、誰だったっけ」って言うから、「紗彩が啖呵切った相手だよ」って答えてあげる。
「はあ!?あいつ、まだ連絡してくんの!?しつこい!!っていうか、何この中身のないメール」
「確かに中身がないよね。まだっていうか、全然、連絡なんかなかったよ。最近偶然会ったの」
To 結城晃一
Sub. 知りませんけど
本文 機会があったら食べてみます。っていうか、暇なんですか?くだらないメールしないで早く仕事してください。
仕事が終わらないって書いてあるのにわざとそう書いて送信すると、「きつ!」って一言だけ返ってきてまた笑えた。もう返信はしなかった。
「何?あいつとどういう関係?」
「メル友かなぁ?」
よくわからないけど、それが一番近い表現のような気がする。
スーパーで下敷きにしてしまってから、こうやって、ときどき、ただの暇つぶしじゃないかっていう、くだらないメールが来るようになった。
紗彩の指摘通り、中身がないせいか、かえって不快感もない。たいてい笑って1、2回返信したら、終わり。
メールするだけなんだけど、友達みたいに、思ったことを言える。わたしには異性の友達っていないけど、友達って表現がやっぱりしっくりくる気がする。
「考えてみると、初めての、男友達かも」
「へえ。なんかよくわかんないけど、それならまあ、いっか。海空、楽しそうだし」
「そうだね。毎回たいした内容もなくて笑えるよ」
「今度転送してよ」
「あはっ!それも面白いかも。結城さん、紗彩に転送してるって知ったらびっくりするだろうなぁ」
ふたりでくすくす笑う。
紗彩といると、深刻なことも、どうでもいいことも、何でも共有できる。辛いときも、嬉しいときも、彼女に会えれば、気持ちが上を向いてくる。
そんな大事な存在の紗彩が、幸せな恋をしているということは、わたしの気持ちも幸せにしてくれる。
「彼と上手く行ってるんだね」
部長さんが、向かい側の席でにこにこしながらわたしを見つめている。わたしの隣には、理央さん。
職場で定時を迎えて、今は3人で会議室に入って、それぞれ椅子に座ったところだ。
「はい。いろいろとご心配をおかけして、すみませんでした」
素直な気持ちで、頭を下げた。
「部長、聞き様によってはセクハラ発言ですよね」
あっさりと理央さんに言われて、部長さんが「え、えっと」と珍しく言葉を探している様子が、かえって好感度を上げるから、この人って得だと思う。
「ふふ。大丈夫です。セクハラは、相手が望まない行動、だそうですから。わたしは心配していただいて嬉しいですよ」
かすかにほっとした表情で、なんとかいつもの部長さんらしい落ち着きを取り戻したようだ。
理央さんがくすりと笑う。上司をからかうなんて、彼女も大物だと思う。
「もちろん、そういうつもりじゃなくて、九条さんが元気になって嬉しくてね」
その気持ちが伝わるから、わたしまでにこにこしてしまう。
「その…、お見合いすることとか、上手く仕事ができなくて、すみませんでした。やっぱり、わたしには恋愛を仕事にするってことは、難しいみたいで。
あ、でも、一生懸命、理央さん、じゃなかった、石原主任のお仕事をサポートさせていただきますから!」
与えられた仕事に挫折して、すすめられるまま休暇を取って、ゆっくり休ませてもらって。しかも首にもならず、別の仕事をさせてもらえて、本当に感謝している。
「そのことなんだけど」
部長さんにそう言われて、一瞬で頭が真っ白になった。3人で会議室に入るなんて、何か大事な仕事があるのかと思ってたけど。
え、もしかして、わたし、クビ!
「九条さんもコーディネーターやってみないかと思って」
コーディネーターっていうのは、まさに理央さんの職種がそれに当たる。マリッジ部に登録している顧客同士の出会いをセッティングする、っていうのがメインのお仕事だ。
「ええっ?わたしが?」
クビを宣告されずに済んだだけじゃなくて、ステップアップの提案をしてくれたのだと気がつくと、胸が熱くなった。
「ほら、お盆休みを早めに切り上げて出てきてもらった時、楽しかったって言ってたよね?」
…たしかに。あのときは、結婚相談所らしからぬ、独身の3人だけ、というなんとも寂しいマリッジ部ではあったけれど。
「結婚したい」という自分と同じ願望を持っておとずれるお客様の話を聞くことは、本当に無心に楽しかった。
「石原についてたなら、コーディネーターの仕事についても、よくわかってると思う。もうすぐ、秋の異動の時期だから、それに合わせて九条さんも新しい仕事にチャレンジしてみたらどうかと思って。
その前に、本人の意思を確認したいと思ってね。どうかな」
わたしにも、理央さんと同じ仕事ができるかもしれない。考えただけで、目の前の世界が広がっていくみたいだった。
学校を卒業してから、行き当たりばったりで、なんとか仕事を繋いで生活していければいいと思っていた。「やりがいとかあるの?」って、短大時代の友達に訊かれても当時の仕事に疑問さえ持たなかったけど。
もし、自分でもやりがいがあるって思える仕事ができたら。それって、どんなに楽しいことだろう。
「はい!やってみたいです!!」
嬉しくて。不安を感じる前に、元気に返事をしてしまっていた。部長さんも、理央さんも、顔を見合わせてにこにこしてくれる。
今度こそ、営業職も事務職も戦力外になったわたしを見離さずにいてくれた、彼らの、力になれますように。
少し前に泣き暮らしていたことなんか、嘘みたいに、毎日が充実してた。悪いことばっかりは続かないんだなぁって、感心するほど。
でも、逆のことも言えるんだ。良いことばっかり続くはずはない、ってこと。
わたしは、いつもこのことを、良いこと、っていうのが終わってから、思い出す。