結婚したいから!
かけがえのない人たちの異変
「お前、こういうとき、絶対に嫌って言わないよな」
少し離れた祥くんは、意地悪な顔で、わたしの目を覗き込んでくる。嫌なはずが、ないもん。祥くんのキスは、ドキドキして、ふわふわして、気持ちいい。
「ちょっと嫌って言ってみろ」
って、なぜか命令するから。
「嫌。やめて」
そう言ってみると、わたしのシャツの下ににもぐり込んでいた、彼の手の動きが、ぴたりと止まった。
…?
ちって、舌打ちまでしてる。え、なんで?嫌って言えって、祥くんが言ったはずよね?
「ど、どうしたの?」
訊いてみると、ムッとしたような顔のまま、祥くんがこう呟いた。
「女が嫌がると逆に燃えるって、知り合いが言ってたから、一度言わせてみた」
その知り合いって、どうせ幸くんでしょ!!そんなしようもないことを吹き込む人が、他に見つからない!ほんと、呆れた!
…け、ど。もしかして。
「…でも、祥くんはだめなの?わたしが嫌がると、なんにもできないんだ?」
いいよね、たまにはわたしが、祥くんをからかったって。
「そんなにわたしのことが好きなんだ?」
なかなか言ってくれないから、自分で言っちゃったけど、予想外なことに、祥くんが赤くなるから、わたしまで心臓がどっきんって跳ねた。
「うるせえ。調子にのんなよ」
耳元で、彼が低い声で言う。かかる息がくすぐったくて身をよじったけど、唇が首筋に吸いついてくると、もう降参するしかなかった。
嫌なはずがない。祥くんのことが大好きだから。
「…好きって言ってみろ」
心の中を言い当てられたのかと思ったけど、そうじゃない。祥くんの声音には切実な響きが混じっている。
「好きだよ、祥くん。わたし、祥くんのことが大好き」
どう言えば、彼が安心しきって、そんなことを命令しなくてもいいんだってことをわかってくれるだろう。
「何回でも、言えるよ。祥くん、好き。好き。す…」
拙い言葉で、思いは伝わっただろうか。まだまだ溢れそうな言葉は、祥くんの唇に吸い込まれていった。
なんとなく、祥くんは、不安を持っているように見えるときがある。嫉妬するときと、好きって言わせたがるとき。
わたしの気持ちを信じ切れていない部分があるんだろうか、って思うけど、それもしっくりこない。
わたしはわりと、彼氏に信用されるタイプだと思う。この人だと決めたら、他のことは目に入らないし、予定は彼氏を最優先、当然浮気なんかしたこともない。
あ、そんな機会が訪れたこともないけど。でも、どうして、祥くんは不安そうなんだろう。他のことでは自信たっぷりなくせに。
こうして、わたしを抱いている間に、そんな不安、忘れてしまえばいい。
とりとめもなく、そんなことを考えていたけれど、触れてくる祥くんの唇や手の動きに、わたしの方が、早々に考えることを放棄することになる。
どんなにくっついても、繋がっても、まだ足りない気がする。もっともっと近く、もっともっと深く。ひとつに溶けあえるくらいになれたらいいのに。
そうなればきっと、祥くんも、不安にならなくてもいいのに。
―――あぁ…、寝てた…。
気がつくと、寝室はもう、真っ暗だった。
わたしを抱きしめたまま眠っている祥くんの様子を確認すると、下着を着替えたらしい。髪の毛からも、かすかに柑橘系のシャンプーの香りがする。自分だけお風呂に入っちゃったんだな。
わたしだけ、裸。あのまま寝たのか失神したのかよくわからないけど、自分だけが服を着ていないって、今更なくせに、無性に恥ずかしく感じる。
しかも、明日は仕事だ。そのことも思い出して、だるい体を叱咤激励しつつ、お風呂に入ることにした。
それこそ、結婚して仕事もしてる人って、毎日こんな状態で生活してるんだろうか。幸せだけど、大変…。
お風呂でも半分寝かかっていたわたしだけど、なんとか上がって洗面所の時計を確認したら、まだ0時を迎えただけだった。
疲れているからか、少し眠ったからか、いつも以上にぼんやりした頭で、キッチンに行って水を飲む。
「わっ」
何気なくリビングの方を向くと、さっきまでベッドで寝ていたはずの祥くんが、部屋着を着てソファーに座っていたから、びっくりした。
「あ、起こしちゃった?ごめんね」
わたしがそう言っても、不機嫌な顔で、こちらを見ようともしない。
おかしい、とすぐに思った。
だいたい祥くんは、かなりの深酒をしない限り、寝起きがいい体質だ。ちょっと目が覚めたからって不機嫌になることはないはずだ。
「何か、あったの?」
祥くんが何も返事をしないからと言って、放っておくこともできず、そっとソファの空いたスペースに座った。
「お前、結城って男とメールしてんの?」
前置きとか、一切ない、彼らしい訊き方だった。
「うん。ときどきするよ。暇なときに送ってくるみたい」
たぶん、また、結城さんが中身のないメールを送ってきたんだと思う。受信音で、たまたま祥くんは目が覚めて、表側のディスプレイを見たんだと思う。
「へえ。じゃあ俺にも見せれるな?」
「え?くだらないよ?それでも見たいの?」
祥くんはまだ怖い顔をして、また返事をしてくれないけど、見たいんだろうなあ。変なの。
仕方なく、携帯電話を操作すると、やっぱり結城さんからのメールを受信していた。
開封はされていない。直接わたしに訊いてくるところが、祥くんらしい。
From 結城晃一
Sub. まだ仕事!
本文 また腹減ってきたし。なんか食いもん持ってきてー!
…毎度毎度、くだらないなぁ。いつも、お腹がすいてる子どもみたい、この人は。いくつも歳が上だったと思うのに。
「浮気してんの、お前」
聞いたことがないくらい冷たい声がした。聞き間違いかと思うくらいに。
「え?わたし?」
一緒にディスプレイを覗き込んでいた祥くんが、険しい表情で、わたしをまっすぐに見下ろしている。そこでわたしは初めて、自分の置かれた状況に気がついた。
疑われている、らしい…。
「お前しかいねえだろ」
「そんなことしてない!」
お風呂で温まっていたはずの体が、すっと冷えていく。
「いつもこいつに飯とか持って行ってやってるわけ?」
「い、行ってない!会社がどこにあるかも知らないし!」
本当に、知らない。最初に会った頃に聞いたかもしれないけど、全く憶えていない。
スーパーで会ったときも、土曜日だと言うのに、結城さんはスーツだった。もしかしたら、彼の会社はこのマンションの近くにあるのかもしれないけど。
「じゃあ、なんでこういうメールが来る?おかしくねえか」
「なんで?おかしくない。ただの暇つぶしだよ」
「こんな夜中まで仕事してる奴が、暇なはずねえだろ、バカ」
「そんなこと言われたって、わたしにはわからないもん…」
ちっ。イライラした様子で、祥くんが舌打ちするのが、怖い。いつもはあんまり怖くないのに、今はちょっと怖い。
「浮気じゃないなら、お前はこいつのことどう思ってるんだよ」
「メル友」
紗彩に訊かれたこともあって、即答すると、祥くんはようやく鋭い視線を緩めたように見えた。
はあ。大きなため息をついて、ソファの背もたれに体を預けて目を閉じている。
目を閉じた顔が、一番幼い頃に近い。見惚れていると、ぱちっと目を開けた祥くんに、むにゅっとほっぺを片方つねられた。
「痛い!」
祥くんは、はあ、って今度は小さなため息をついた。
「いいか、よく考えろ。わざわざ時間を割いてメールしてくるんだから、なんらかの関心をお前に持ってるんだよ、こいつは。
俺は男女間の友情なんか信じてない。こっちがいくら友達だって思ってたって、隙があれば擦り寄って来るんだから」
……。…擦り寄って、来る?
「え、何?ん?祥くんには、女友達が言い寄ってくるってこと?
…え?わたしがヤキモチやいて終わるって結末になるわけ?」
祥くんの失言って、ときどきわざとじゃないかって思うんだけど!
でも、いっか。祥くんがやっと笑ったから。
イライラしているのを見るより、こうして笑われてる方が、うんといい。
いつかは来ると思っていたことでも、いざ来ると、早すぎるんじゃないかって、思う。
祥くんから、珍しく、職場に電話が入った。「お袋が死んだ」って言われて、ああ、その日が来たんだって思うのに、実感はわかない。ベッドで微笑んでくれたおばさんは、会いに行くとまだそこにいるとしか思えない。
そのまま早引きさせてもらって、祥くんと空港で落ち合い、飛行機で故郷に飛んだ。
故郷は、8月に帰省して2月も経たないのに、東京で言えば晩秋のように冷え込んでいた。
死化粧って言うんだろうか。お化粧をしてもらって、病院で会った時より顔色のいいおばさんは、やっぱり美しい人だった。このまま燃やされて灰になるなんて、おかしいと思うくらいに。
棺の縁を握りしめ過ぎて、祥くんの指先が、真っ白く見えたことだけは、やたらとはっきり憶えている。
かける言葉は、ない。
帰りの飛行機で、幼い頃過ごした土地のことを、強烈に思い出した。祥くんが小学校、わたしが高校まで、暮らしたところ。長い間、訪れてもいないところで、今では縁もないところだ。
祥くんと遊んだ公園。通った学校。おばさんがお母さんのふりをしてくれた、遠足。参観日。
浅い眠りの中で、ふわふわのスカートが、ひるがえる。
東京に戻ってからの祥くんには、特に変化もないように見えた。でも、ある夜、眠る前に、祥くんがこう話し始めた。
「お前さ、もし、俺の前の女が、俺の子どもを産んでたら、どうする?」
「…それって、打ち明け話?」
「いや、たとえ話」
たとえ話とか、仮定の話とか、祥くんはあまりしない。好きじゃなさそうだとも思う。
「どうするって、どうもしないけど。もう産まれてるし、もう別れてるんでしょう?」
「まあな。どういう気分になる?」
「…うらやましい、かなぁ」
「は?」
「わたしも祥くんの赤ちゃんがほしい、って気分になると思う」
「ぶっ。それだけかよ。お前ってバカ」
「はあ?なんで?普通だもん」
「俺にムカついて、別れようって気にはならない?」
「ならない」
「そっか。じゃあ、その子どもがずいぶん成長してから、俺がその女と一緒に仕事をすることになったら?」
「転職してもらう」
「転職が無理だったら?」
「…考えただけでヤキモキしてきた…」
祥くんは、少し笑った後にしばらく黙って、次にはこう訊いた。
「じゃあ、逆の場合。お前が、俺と別れた後に、妊娠してるってことに気づいたら、どうする?」
それは…、かなり、難しい状況だと思う。父親が傍にいないとしても、その子を産む気持ちになれるだろうか。
しかも、今では想ってもいない男の人の子どもを。わたし自身、父親を知らないけど、それがものすごく不幸だったとも思わないけど、子どもが成長する過程で、それは、何らかの影響を及ぼす可能性があるとは思う。
「わからない」
「なんで」
「産みたい気持ちもあるだろうけど、ひとりで育てる自信がない…かもしれないから」
「そっか」
どうして、そんなたとえ話をするの、って訊くのはやめた。暗い中、目を凝らして彼の表情を読み取るのをやめたように。
わたしはただ、祥くんの胸に頬をくっつけて、そのまま眠った。やっぱりおかしいって思ったのは、それから数日後のこと。
少し離れた祥くんは、意地悪な顔で、わたしの目を覗き込んでくる。嫌なはずが、ないもん。祥くんのキスは、ドキドキして、ふわふわして、気持ちいい。
「ちょっと嫌って言ってみろ」
って、なぜか命令するから。
「嫌。やめて」
そう言ってみると、わたしのシャツの下ににもぐり込んでいた、彼の手の動きが、ぴたりと止まった。
…?
ちって、舌打ちまでしてる。え、なんで?嫌って言えって、祥くんが言ったはずよね?
「ど、どうしたの?」
訊いてみると、ムッとしたような顔のまま、祥くんがこう呟いた。
「女が嫌がると逆に燃えるって、知り合いが言ってたから、一度言わせてみた」
その知り合いって、どうせ幸くんでしょ!!そんなしようもないことを吹き込む人が、他に見つからない!ほんと、呆れた!
…け、ど。もしかして。
「…でも、祥くんはだめなの?わたしが嫌がると、なんにもできないんだ?」
いいよね、たまにはわたしが、祥くんをからかったって。
「そんなにわたしのことが好きなんだ?」
なかなか言ってくれないから、自分で言っちゃったけど、予想外なことに、祥くんが赤くなるから、わたしまで心臓がどっきんって跳ねた。
「うるせえ。調子にのんなよ」
耳元で、彼が低い声で言う。かかる息がくすぐったくて身をよじったけど、唇が首筋に吸いついてくると、もう降参するしかなかった。
嫌なはずがない。祥くんのことが大好きだから。
「…好きって言ってみろ」
心の中を言い当てられたのかと思ったけど、そうじゃない。祥くんの声音には切実な響きが混じっている。
「好きだよ、祥くん。わたし、祥くんのことが大好き」
どう言えば、彼が安心しきって、そんなことを命令しなくてもいいんだってことをわかってくれるだろう。
「何回でも、言えるよ。祥くん、好き。好き。す…」
拙い言葉で、思いは伝わっただろうか。まだまだ溢れそうな言葉は、祥くんの唇に吸い込まれていった。
なんとなく、祥くんは、不安を持っているように見えるときがある。嫉妬するときと、好きって言わせたがるとき。
わたしの気持ちを信じ切れていない部分があるんだろうか、って思うけど、それもしっくりこない。
わたしはわりと、彼氏に信用されるタイプだと思う。この人だと決めたら、他のことは目に入らないし、予定は彼氏を最優先、当然浮気なんかしたこともない。
あ、そんな機会が訪れたこともないけど。でも、どうして、祥くんは不安そうなんだろう。他のことでは自信たっぷりなくせに。
こうして、わたしを抱いている間に、そんな不安、忘れてしまえばいい。
とりとめもなく、そんなことを考えていたけれど、触れてくる祥くんの唇や手の動きに、わたしの方が、早々に考えることを放棄することになる。
どんなにくっついても、繋がっても、まだ足りない気がする。もっともっと近く、もっともっと深く。ひとつに溶けあえるくらいになれたらいいのに。
そうなればきっと、祥くんも、不安にならなくてもいいのに。
―――あぁ…、寝てた…。
気がつくと、寝室はもう、真っ暗だった。
わたしを抱きしめたまま眠っている祥くんの様子を確認すると、下着を着替えたらしい。髪の毛からも、かすかに柑橘系のシャンプーの香りがする。自分だけお風呂に入っちゃったんだな。
わたしだけ、裸。あのまま寝たのか失神したのかよくわからないけど、自分だけが服を着ていないって、今更なくせに、無性に恥ずかしく感じる。
しかも、明日は仕事だ。そのことも思い出して、だるい体を叱咤激励しつつ、お風呂に入ることにした。
それこそ、結婚して仕事もしてる人って、毎日こんな状態で生活してるんだろうか。幸せだけど、大変…。
お風呂でも半分寝かかっていたわたしだけど、なんとか上がって洗面所の時計を確認したら、まだ0時を迎えただけだった。
疲れているからか、少し眠ったからか、いつも以上にぼんやりした頭で、キッチンに行って水を飲む。
「わっ」
何気なくリビングの方を向くと、さっきまでベッドで寝ていたはずの祥くんが、部屋着を着てソファーに座っていたから、びっくりした。
「あ、起こしちゃった?ごめんね」
わたしがそう言っても、不機嫌な顔で、こちらを見ようともしない。
おかしい、とすぐに思った。
だいたい祥くんは、かなりの深酒をしない限り、寝起きがいい体質だ。ちょっと目が覚めたからって不機嫌になることはないはずだ。
「何か、あったの?」
祥くんが何も返事をしないからと言って、放っておくこともできず、そっとソファの空いたスペースに座った。
「お前、結城って男とメールしてんの?」
前置きとか、一切ない、彼らしい訊き方だった。
「うん。ときどきするよ。暇なときに送ってくるみたい」
たぶん、また、結城さんが中身のないメールを送ってきたんだと思う。受信音で、たまたま祥くんは目が覚めて、表側のディスプレイを見たんだと思う。
「へえ。じゃあ俺にも見せれるな?」
「え?くだらないよ?それでも見たいの?」
祥くんはまだ怖い顔をして、また返事をしてくれないけど、見たいんだろうなあ。変なの。
仕方なく、携帯電話を操作すると、やっぱり結城さんからのメールを受信していた。
開封はされていない。直接わたしに訊いてくるところが、祥くんらしい。
From 結城晃一
Sub. まだ仕事!
本文 また腹減ってきたし。なんか食いもん持ってきてー!
…毎度毎度、くだらないなぁ。いつも、お腹がすいてる子どもみたい、この人は。いくつも歳が上だったと思うのに。
「浮気してんの、お前」
聞いたことがないくらい冷たい声がした。聞き間違いかと思うくらいに。
「え?わたし?」
一緒にディスプレイを覗き込んでいた祥くんが、険しい表情で、わたしをまっすぐに見下ろしている。そこでわたしは初めて、自分の置かれた状況に気がついた。
疑われている、らしい…。
「お前しかいねえだろ」
「そんなことしてない!」
お風呂で温まっていたはずの体が、すっと冷えていく。
「いつもこいつに飯とか持って行ってやってるわけ?」
「い、行ってない!会社がどこにあるかも知らないし!」
本当に、知らない。最初に会った頃に聞いたかもしれないけど、全く憶えていない。
スーパーで会ったときも、土曜日だと言うのに、結城さんはスーツだった。もしかしたら、彼の会社はこのマンションの近くにあるのかもしれないけど。
「じゃあ、なんでこういうメールが来る?おかしくねえか」
「なんで?おかしくない。ただの暇つぶしだよ」
「こんな夜中まで仕事してる奴が、暇なはずねえだろ、バカ」
「そんなこと言われたって、わたしにはわからないもん…」
ちっ。イライラした様子で、祥くんが舌打ちするのが、怖い。いつもはあんまり怖くないのに、今はちょっと怖い。
「浮気じゃないなら、お前はこいつのことどう思ってるんだよ」
「メル友」
紗彩に訊かれたこともあって、即答すると、祥くんはようやく鋭い視線を緩めたように見えた。
はあ。大きなため息をついて、ソファの背もたれに体を預けて目を閉じている。
目を閉じた顔が、一番幼い頃に近い。見惚れていると、ぱちっと目を開けた祥くんに、むにゅっとほっぺを片方つねられた。
「痛い!」
祥くんは、はあ、って今度は小さなため息をついた。
「いいか、よく考えろ。わざわざ時間を割いてメールしてくるんだから、なんらかの関心をお前に持ってるんだよ、こいつは。
俺は男女間の友情なんか信じてない。こっちがいくら友達だって思ってたって、隙があれば擦り寄って来るんだから」
……。…擦り寄って、来る?
「え、何?ん?祥くんには、女友達が言い寄ってくるってこと?
…え?わたしがヤキモチやいて終わるって結末になるわけ?」
祥くんの失言って、ときどきわざとじゃないかって思うんだけど!
でも、いっか。祥くんがやっと笑ったから。
イライラしているのを見るより、こうして笑われてる方が、うんといい。
いつかは来ると思っていたことでも、いざ来ると、早すぎるんじゃないかって、思う。
祥くんから、珍しく、職場に電話が入った。「お袋が死んだ」って言われて、ああ、その日が来たんだって思うのに、実感はわかない。ベッドで微笑んでくれたおばさんは、会いに行くとまだそこにいるとしか思えない。
そのまま早引きさせてもらって、祥くんと空港で落ち合い、飛行機で故郷に飛んだ。
故郷は、8月に帰省して2月も経たないのに、東京で言えば晩秋のように冷え込んでいた。
死化粧って言うんだろうか。お化粧をしてもらって、病院で会った時より顔色のいいおばさんは、やっぱり美しい人だった。このまま燃やされて灰になるなんて、おかしいと思うくらいに。
棺の縁を握りしめ過ぎて、祥くんの指先が、真っ白く見えたことだけは、やたらとはっきり憶えている。
かける言葉は、ない。
帰りの飛行機で、幼い頃過ごした土地のことを、強烈に思い出した。祥くんが小学校、わたしが高校まで、暮らしたところ。長い間、訪れてもいないところで、今では縁もないところだ。
祥くんと遊んだ公園。通った学校。おばさんがお母さんのふりをしてくれた、遠足。参観日。
浅い眠りの中で、ふわふわのスカートが、ひるがえる。
東京に戻ってからの祥くんには、特に変化もないように見えた。でも、ある夜、眠る前に、祥くんがこう話し始めた。
「お前さ、もし、俺の前の女が、俺の子どもを産んでたら、どうする?」
「…それって、打ち明け話?」
「いや、たとえ話」
たとえ話とか、仮定の話とか、祥くんはあまりしない。好きじゃなさそうだとも思う。
「どうするって、どうもしないけど。もう産まれてるし、もう別れてるんでしょう?」
「まあな。どういう気分になる?」
「…うらやましい、かなぁ」
「は?」
「わたしも祥くんの赤ちゃんがほしい、って気分になると思う」
「ぶっ。それだけかよ。お前ってバカ」
「はあ?なんで?普通だもん」
「俺にムカついて、別れようって気にはならない?」
「ならない」
「そっか。じゃあ、その子どもがずいぶん成長してから、俺がその女と一緒に仕事をすることになったら?」
「転職してもらう」
「転職が無理だったら?」
「…考えただけでヤキモキしてきた…」
祥くんは、少し笑った後にしばらく黙って、次にはこう訊いた。
「じゃあ、逆の場合。お前が、俺と別れた後に、妊娠してるってことに気づいたら、どうする?」
それは…、かなり、難しい状況だと思う。父親が傍にいないとしても、その子を産む気持ちになれるだろうか。
しかも、今では想ってもいない男の人の子どもを。わたし自身、父親を知らないけど、それがものすごく不幸だったとも思わないけど、子どもが成長する過程で、それは、何らかの影響を及ぼす可能性があるとは思う。
「わからない」
「なんで」
「産みたい気持ちもあるだろうけど、ひとりで育てる自信がない…かもしれないから」
「そっか」
どうして、そんなたとえ話をするの、って訊くのはやめた。暗い中、目を凝らして彼の表情を読み取るのをやめたように。
わたしはただ、祥くんの胸に頬をくっつけて、そのまま眠った。やっぱりおかしいって思ったのは、それから数日後のこと。