結婚したいから!
…ピンポーン。
何度か鳴っていたらしい、インターホンの呼び出し音に、「うるさいなぁ」と思いながらもベッドから体を起こすことさえできずにいた。
けれど、あ、そういえば、もう月末だった、ということに思い至ると、足をもつれさせながら、なんとか玄関に向かう。新聞屋さんが集金に来るはずだ。
転職して妙な仕事に就いてからというもの、時間の感覚が狂っているのだ。
昨日、朝が来るまで寝付けなかったのもそうだし、今日が何日かということも、はっきりはわかっていない。毎日、カレンダーを見て、スケジュールを確認して、生活しているのは、学校や会社など、どこかへ常に出かける人たちだけなのだ。
「はぁい」
なんとかチェーンを掛けたドア越しに、見えたものは、まだ夢を見ているのだとしか思えなかった。
「風邪引いた?…それにしては、顔色がいいね」
クスリともれる笑み。昼間に見ると、真面目そうなだけでなく、爽やかな印象までプラスされているのはなぜだろう。
「えっと…、結城さん?」
状況が飲み込めない。さっき夕食を一緒にとって、別れたところだと思う。
「今日は土曜日で、僕も君も休みだ。何度もメールや電話を入れたよ」
ええっと、つまりは、わたしが昨日返信したとおりの休日に、ランチのお誘いに来てくれたってことだ!
曜日の感覚も欠落している自分にげんなりする。大事なところでしくじっている。
「ちょ、ちょっとお待ちください!」
慌てていたけど、しっかりドアを閉めて鍵をかけることは忘れなかった。なんか、あの人には気が抜けない。
だって、わたしのメールの内容があれだったからって、翌日にまた家まで来るかな?
わたしとは別のスピードで物事を進めていく人だとしか思えない。
とりあえず、大急ぎで目に付いた服に着替え、身支度を整えたけれど、やっぱり10分近くはかかった。
「ごめんなさい!お待たせして」
慌てて飛び出したら、昨日よりわたしらしい声が出た。
「がっちり鍵をかけたり、お昼に出かけることを提案したり、なかなか手ごわいね」
なんだか楽しげに笑って、結城晃一さんは、煙草を一口吸った。あの唇が昨日わたしに本当に触れたことが、今朝は夢みたいにあやふやだった。
それにしても、わたしの考えなんて、とっくにお見通しだったらしく、わたしは顔を真っ赤にするしかなかった。
慣れた様子で携帯用灰皿に吸殻を片づけると、彼が歩きだしたので、わたしは黙ったまま後をついていくことしかできなかった。
「わあ、きれい」
店内に通された瞬間、思わず呟いていた。
店は、大きなサンルームのような作りだった。
透明な屋根の下には、木の枝が張り巡らされて、小さな林の中のよう。店の外壁のまわりに、きっと葡萄の木が何本もあるのだろう。
暑い時期には、きっと葡萄の実がぶら下がる様子も見えるのだ。
ふと、視線を感じて顔を上げると、横で結城さんがにこっと笑っていて、急に恥ずかしくなった。
昨日の夜の印象が強すぎて、今日は別の人のように見える。わたしもなんだか調子が狂う。
白いガーデンテーブルを囲む人たちも、わたしより若い学生同士のような恋人たちや、夫婦、家族連れのようだ。
車に乗らない私には詳しくわからないけれど、結城さんが高速道路を運転して1時間弱で連れてきてくれたここは、東京からもずいぶん離れただろうし、お客さんには地元の人も多いのだと思う。なんだかほっとした。
お料理も、メニューからしてシンプル。家庭でも食べる洋食ばかりで、何が出てくるのか写真がなくてもわかる。白身魚のソテーと、クラムチャウダー、自家製パンのセットを注文して、また天井をめぐる枝をじっくり眺めていた。
ふと、正面に座る結城さんが、テーブルに置かれている、飲み物だけの小さなメニューに視線を落としていることに気がついてて、こくんと息をのみ、座りなおした。
「さっきみたいに楽にして。僕はいないものと思って」
5歳の年齢の差って、こうも大きいのだろうか。小娘の言動は、すべてお見通しらしい。ため息をつくしかなかった。
「無理です」
情けないくらい小さな声で言い返す。
「多少は君の性格もわかったし、もう無理にキスしたりしないから」
さらっとなんでもない、世間話でもするかのような顔で言われて、唖然とする。
たしかにお店の中はお客さんでほぼ満席だし、話し声や食器の音なんかで賑やかだけど。わたしたちの会話に聞き耳を立てていそうな人も見当たらないけど。
昼間のこの健全な雰囲気ですっかり消え去っていた、あの夜の独特の危うい雰囲気を、ここで思い出させる神経がよくわからなかった。
それにその涼しい顔。恥ずかしさも反省も1ミリも感じられない。
「そのせいじゃないですから!」とさらに言い返そうと思ったけれど、張本人から言われてみると、実はそこが一番、わたしが意識していることなんじゃないかってことに、気がつかされる。
そうだ、もうあんな暴挙に出られないように、とりあえず夜に出かけることは避けたかった。
時間が遅くなると、男の人は、とりあえずのマナーとして、家まで送ってくれようとするから。
わたしも、マナーとして、ありがたく送ってもらうべきだとは思っているけど、もう雰囲気におぼれそうな自分も、後で激しく後悔する自分も、見たくなかった。
フリーズしていたわたしの前に、店員さんが愛想よく微笑みながら、「スープとサラダです」と言って、お皿を並べてくれた。
そういえば、起きてから何も口にしていない。気持ちがしゃんとする前に、視覚と嗅覚から与えられる信号だけで、胃がかすかに動いたようだ。急に空腹だったのを思い出した。
「どうぞ」
短く言って、わたしに先に食べるよう促してくれる結城さん。そういえば、店に入る時もドアを開けて、わたしを先に通してくれたっけ。
自然だったから、気がつかなかったけど。昨日の夜だったら、「女慣れしてる」って思ったのに、今日はお姫様扱いされてるみたいで、なんだかくすぐったかった。
お日様って不思議。お昼に会うの、失敗だったかな。
「いただきます」と言って、口にした料理は、どれもおいしかった。店内の黒板の文章を読むと、有機野菜を使い、食材だけでなく調味料も、できるだけ地元のものを選んでいるとのことだった。だからこそ、ベーシックなメニューなのに、こんなにお客さんが来るのだろう。
ひとり暮らしも長くなると、あまり料理もしない。自然と、食生活がいい加減になっていたけれど、こうしておいしいものを食べると、不思議と身も心も元気になる気がして、やっぱり食べる事って大事なんだな、って久しぶりに思い出した。
「おいしそうだね?」
そう結城さんが訊ねることには、素直に「はい」と返事ができた。
彼が、何を食べたかはあまり憶えていない。たぶん、わたしのひどい緊張がゆるむ前に食べ終わってしまっていたのだと思う。
帰り道は、高速道路ではなく、地道だった。ごちゃごちゃしていない、空がよく見える風景は、まだまだ都会に近いけれど、かすかに故郷を思い出させる。
途中で、古くて広い民家を利用して開かれた喫茶店に寄った。座卓にむかい、座布団に座って、抹茶や餡をつかった和風のスイーツをいただき、小さな庭を眺めていると、結城さんから訊かれたことにはすいぶんスムーズに答えられるようになっていた。
そこから再び車で家に帰りつくまでの間、沈黙も突き刺さるようには感じなかった。まだあれこれ話したいほどは打ち解けていないけど、同じ空間にいるのが苦痛ではない、という感じだ。
「眠くないんだ?」
一度だけ、そんなふうに訊かれた。たしかに眠くはなかった。
まだ日が残っている時間だったからか、昨日のことがあるからか、定かではないけれど、今日はアパートの入口で、車から降りずに結城さんは帰って行った。
すっかり上りなれた階段を進み、自分の家に入ると、とたんに急激な眠気に襲われて、足がふらつくくらいだった。
よく考えてみれば、最近すっかり運動不足なうえ、寝不足の体で、6時間弱もの長い時間、慣れない場所へ、知り合って日が浅い人と、外出をしてきたのだった。疲れないはずがない。
体が重く、靴下だけ脱いで、体を布団の中に押し込んだ。
はあ、と、ようやく深く息ができる。
窓の外はまだ明るかったと言うのに、今度はまどろむ暇もなく、深い深い眠りの中に引きずり込まれるように落ちて行った。
何度か鳴っていたらしい、インターホンの呼び出し音に、「うるさいなぁ」と思いながらもベッドから体を起こすことさえできずにいた。
けれど、あ、そういえば、もう月末だった、ということに思い至ると、足をもつれさせながら、なんとか玄関に向かう。新聞屋さんが集金に来るはずだ。
転職して妙な仕事に就いてからというもの、時間の感覚が狂っているのだ。
昨日、朝が来るまで寝付けなかったのもそうだし、今日が何日かということも、はっきりはわかっていない。毎日、カレンダーを見て、スケジュールを確認して、生活しているのは、学校や会社など、どこかへ常に出かける人たちだけなのだ。
「はぁい」
なんとかチェーンを掛けたドア越しに、見えたものは、まだ夢を見ているのだとしか思えなかった。
「風邪引いた?…それにしては、顔色がいいね」
クスリともれる笑み。昼間に見ると、真面目そうなだけでなく、爽やかな印象までプラスされているのはなぜだろう。
「えっと…、結城さん?」
状況が飲み込めない。さっき夕食を一緒にとって、別れたところだと思う。
「今日は土曜日で、僕も君も休みだ。何度もメールや電話を入れたよ」
ええっと、つまりは、わたしが昨日返信したとおりの休日に、ランチのお誘いに来てくれたってことだ!
曜日の感覚も欠落している自分にげんなりする。大事なところでしくじっている。
「ちょ、ちょっとお待ちください!」
慌てていたけど、しっかりドアを閉めて鍵をかけることは忘れなかった。なんか、あの人には気が抜けない。
だって、わたしのメールの内容があれだったからって、翌日にまた家まで来るかな?
わたしとは別のスピードで物事を進めていく人だとしか思えない。
とりあえず、大急ぎで目に付いた服に着替え、身支度を整えたけれど、やっぱり10分近くはかかった。
「ごめんなさい!お待たせして」
慌てて飛び出したら、昨日よりわたしらしい声が出た。
「がっちり鍵をかけたり、お昼に出かけることを提案したり、なかなか手ごわいね」
なんだか楽しげに笑って、結城晃一さんは、煙草を一口吸った。あの唇が昨日わたしに本当に触れたことが、今朝は夢みたいにあやふやだった。
それにしても、わたしの考えなんて、とっくにお見通しだったらしく、わたしは顔を真っ赤にするしかなかった。
慣れた様子で携帯用灰皿に吸殻を片づけると、彼が歩きだしたので、わたしは黙ったまま後をついていくことしかできなかった。
「わあ、きれい」
店内に通された瞬間、思わず呟いていた。
店は、大きなサンルームのような作りだった。
透明な屋根の下には、木の枝が張り巡らされて、小さな林の中のよう。店の外壁のまわりに、きっと葡萄の木が何本もあるのだろう。
暑い時期には、きっと葡萄の実がぶら下がる様子も見えるのだ。
ふと、視線を感じて顔を上げると、横で結城さんがにこっと笑っていて、急に恥ずかしくなった。
昨日の夜の印象が強すぎて、今日は別の人のように見える。わたしもなんだか調子が狂う。
白いガーデンテーブルを囲む人たちも、わたしより若い学生同士のような恋人たちや、夫婦、家族連れのようだ。
車に乗らない私には詳しくわからないけれど、結城さんが高速道路を運転して1時間弱で連れてきてくれたここは、東京からもずいぶん離れただろうし、お客さんには地元の人も多いのだと思う。なんだかほっとした。
お料理も、メニューからしてシンプル。家庭でも食べる洋食ばかりで、何が出てくるのか写真がなくてもわかる。白身魚のソテーと、クラムチャウダー、自家製パンのセットを注文して、また天井をめぐる枝をじっくり眺めていた。
ふと、正面に座る結城さんが、テーブルに置かれている、飲み物だけの小さなメニューに視線を落としていることに気がついてて、こくんと息をのみ、座りなおした。
「さっきみたいに楽にして。僕はいないものと思って」
5歳の年齢の差って、こうも大きいのだろうか。小娘の言動は、すべてお見通しらしい。ため息をつくしかなかった。
「無理です」
情けないくらい小さな声で言い返す。
「多少は君の性格もわかったし、もう無理にキスしたりしないから」
さらっとなんでもない、世間話でもするかのような顔で言われて、唖然とする。
たしかにお店の中はお客さんでほぼ満席だし、話し声や食器の音なんかで賑やかだけど。わたしたちの会話に聞き耳を立てていそうな人も見当たらないけど。
昼間のこの健全な雰囲気ですっかり消え去っていた、あの夜の独特の危うい雰囲気を、ここで思い出させる神経がよくわからなかった。
それにその涼しい顔。恥ずかしさも反省も1ミリも感じられない。
「そのせいじゃないですから!」とさらに言い返そうと思ったけれど、張本人から言われてみると、実はそこが一番、わたしが意識していることなんじゃないかってことに、気がつかされる。
そうだ、もうあんな暴挙に出られないように、とりあえず夜に出かけることは避けたかった。
時間が遅くなると、男の人は、とりあえずのマナーとして、家まで送ってくれようとするから。
わたしも、マナーとして、ありがたく送ってもらうべきだとは思っているけど、もう雰囲気におぼれそうな自分も、後で激しく後悔する自分も、見たくなかった。
フリーズしていたわたしの前に、店員さんが愛想よく微笑みながら、「スープとサラダです」と言って、お皿を並べてくれた。
そういえば、起きてから何も口にしていない。気持ちがしゃんとする前に、視覚と嗅覚から与えられる信号だけで、胃がかすかに動いたようだ。急に空腹だったのを思い出した。
「どうぞ」
短く言って、わたしに先に食べるよう促してくれる結城さん。そういえば、店に入る時もドアを開けて、わたしを先に通してくれたっけ。
自然だったから、気がつかなかったけど。昨日の夜だったら、「女慣れしてる」って思ったのに、今日はお姫様扱いされてるみたいで、なんだかくすぐったかった。
お日様って不思議。お昼に会うの、失敗だったかな。
「いただきます」と言って、口にした料理は、どれもおいしかった。店内の黒板の文章を読むと、有機野菜を使い、食材だけでなく調味料も、できるだけ地元のものを選んでいるとのことだった。だからこそ、ベーシックなメニューなのに、こんなにお客さんが来るのだろう。
ひとり暮らしも長くなると、あまり料理もしない。自然と、食生活がいい加減になっていたけれど、こうしておいしいものを食べると、不思議と身も心も元気になる気がして、やっぱり食べる事って大事なんだな、って久しぶりに思い出した。
「おいしそうだね?」
そう結城さんが訊ねることには、素直に「はい」と返事ができた。
彼が、何を食べたかはあまり憶えていない。たぶん、わたしのひどい緊張がゆるむ前に食べ終わってしまっていたのだと思う。
帰り道は、高速道路ではなく、地道だった。ごちゃごちゃしていない、空がよく見える風景は、まだまだ都会に近いけれど、かすかに故郷を思い出させる。
途中で、古くて広い民家を利用して開かれた喫茶店に寄った。座卓にむかい、座布団に座って、抹茶や餡をつかった和風のスイーツをいただき、小さな庭を眺めていると、結城さんから訊かれたことにはすいぶんスムーズに答えられるようになっていた。
そこから再び車で家に帰りつくまでの間、沈黙も突き刺さるようには感じなかった。まだあれこれ話したいほどは打ち解けていないけど、同じ空間にいるのが苦痛ではない、という感じだ。
「眠くないんだ?」
一度だけ、そんなふうに訊かれた。たしかに眠くはなかった。
まだ日が残っている時間だったからか、昨日のことがあるからか、定かではないけれど、今日はアパートの入口で、車から降りずに結城さんは帰って行った。
すっかり上りなれた階段を進み、自分の家に入ると、とたんに急激な眠気に襲われて、足がふらつくくらいだった。
よく考えてみれば、最近すっかり運動不足なうえ、寝不足の体で、6時間弱もの長い時間、慣れない場所へ、知り合って日が浅い人と、外出をしてきたのだった。疲れないはずがない。
体が重く、靴下だけ脱いで、体を布団の中に押し込んだ。
はあ、と、ようやく深く息ができる。
窓の外はまだ明るかったと言うのに、今度はまどろむ暇もなく、深い深い眠りの中に引きずり込まれるように落ちて行った。