結婚したいから！

「どう…して？」

わたしは、自分の声が、動揺でかすかに震えていることに気がついた。

「無駄に出歩くなって言ってんだよ」

無駄？わたしが紗彩とごはんを食べに行くのは、無駄なことなのかな？

明後日が休みの紗彩から、明日の夜、一緒に食事をしようと誘いのメールが来たのだ。「明日の夜、ご飯食べてから帰ってくるね」って、祥くんに言ったら、「家で食えよ」って言われてびっくりしている。

祥くんの表情は、ない。冷たい目でちらっとわたしを見ただけで、もうこちらも向かない。

「えっと…、女の子とだよ？」

また誤解でもしてるんじゃないかって思うのに。

「うるせえな。そんなに行きたければ、いちいち俺に言わないで勝手に行けよ」


…どう、したんだ、ろ……。

言い捨てて、さっと席を立ってしまう祥くん。戸惑いが、ゆっくりと諦めに変わって、会社のお昼休みには、紗彩にメールをした。
To　藤田紗彩
Sub.　ごめん
本文　明日の食事、行けなくなっちゃった。ごめんね。また誘って。


なんで、「行けなくなっちゃった」のか、自分でもよくわからない。だから、当然書くべきなのに、理由も上手く書けない。

かといって、祥くんに勝手に行けよ、って言われても勝手に行くこともできない。


だから、翌日も、混乱した頭のままで、マンションにまっすぐ帰った。ソファで編み物をしているわたしを見て、帰宅した祥くんはほっとしたように、ため息をこぼしたけれど、それもなぜだかよくわからない。

もしかして、わたしに何か用事でもあるのかとも思ったけど、そんなそぶりもなくて、部屋着に着替えた祥くんは、仕事に関係があるらしい何かの冊子を読み始める。

お風呂からあがると、祥くんがぼんやりと音楽を聴いていた。

「祥くん。何か心配なことがあるの？」

考えてみても、わからず仕舞いだった。訊いた方が、早い。だけど本当は、こうして直接祥くんに訊く、っていうことが、少し悔しい。

幼い頃、長い時間を共有したせいか、再会してからも、あえて聞かなくてもわかってる、ってことも多かったように思うから。

「海空もそのうち、俺から離れるんだろうな、と思って」


「え？」

今、この一番幸せな時期に、どうしてそんなことを考えられるんだろう。

ぽつりとこぼしたような一言にも、祥くんの表情は静かなままで、変わらない。

「女って、腹の底では何を考えてるのかわからねえから。

こっちがよくわかってるつもりでも、本当のところは全然わかってなくて、いつの間にか口にも出さないような奴のことばかり考えてたりする」


何のことを言ってるんだろう。誰のことを指してるんだろう。

「それは、わたしにとっての、結城さんのこと？それとも、紗彩のこと？」

「そうかもしれないし、そうじゃないかもしれない。お前の場合は単純だから、今のところは口に出してるけどな」


じゃあ、誰のことを言ってるんだろう。祥くんは、誰にそんなに傷つけられたって言うんだろう。

何度も言うけど、祥くんには他に女の人の存在は感じない。一緒に住んでいてそうなのだから、たぶん、浮気はしていない。

じゃあ、どの女の人のことを言ってるんだろうって、当然考えるけど、過去も現在も含めて、それはわからない。
「じゃあ、わたしに関しては、そんな心配いらないでしょ」

言いたければ、祥くんは、きちんと話してくれるだろう。

それが誰か、っていう一番大事な中心のことは言いたくないから、わざと言わないで、その周りのことだけ教えてくれるんだろう。


「これから、そういう存在ができるかもしれない。そうならないように、できることなら、お前を囲っておきたい」

だから「無駄に出歩くな」って言うのかな。わたしが別の何かに心をとらわれないように？祥くんの話は、いつもと違って、具体性を欠いているから、あとはわたしが推測するしかない。

囲わなくたって、わたしは祥くんに囲われてるのと同じ状態なのに。


「わたし、祥くんから離れないよ」

細いようで、しっかり筋肉のついた腕に、そっと腕を絡めて、頬を寄せる。安心してくれればいいのに、と思って。
「もう、あんなふうに曖昧にお別れして、気持ちを引きずるのは嫌だもん」

あのとき、ちゃんと、どうしてわたしと話してくれないのって、訊くことができなかった。

引っ越すって知った時、祥くんの家にまで押し掛ければ、間に合ったかもしれないのに。

それをしなかったせいで、長い間、胸の中に残った大きなしこりを見て見ぬふりをし続ける羽目になったんだと思うから。


他の何かに気を取られて、祥くんから離れることなんか、今の私には想像もつかないのに。


祥くんは、少し笑って、わたしの髪の毛をくしゃくしゃと撫でてくれるけど。

「どうかな」

って言っただけだ。


「せっかく、危害を加えそうなものから守ってやれる力がついたと思ったら、今度は、守るものの方が腕の中からすり抜けていきそうな気がする」

10歳の頃の別れは、祥くんにも多少の傷を負わせているらしい。わたしに関わらない、という方法でしか、わたしを守れなかった、とでも思っているんだろうか。

祥くんがいろんなことを難しく考えすぎているような気がするのに、それを上手く指摘することもできなかった。
北海道に帰って、何かを思い出したんだろうか。おばさんのお通夜やお葬式で、何かあっただろうか。誰か珍しい人に会っただろうか。

少しずつだけど、確実に変わっていく祥くんの様子に、その原因を探すけれど、思いつかない。

その前に、帰省中はわたし自身が、呆然自失の状態で、あまり周りが見えていなかった、ってことに気がつくだけだ。

どこかに、理由があるはずなのに。

彼の力になりたくて、傍についていたはずなのに。


どうして、今、ゆっくりと、彼が壊れていくように、見えるんだろう。
「あ、お醤油、なくなっちゃった」

それがもし、ソースだとかだったら、別にいいんだけど、醤油を切らすって日本人にとっては致命的だと思う。

いくら自炊をしないわたしだって、アパートの部屋にはちゃんと醤油がある。


「俺が、帰りに買ってくるから」

「…うん」


朝ごはんを食べるときに、なくなってしまった醤油。お昼は仕事中に食べるからいいけど、夜には何かに使うかもしれない。

でも、祥くんがそう言うなら、彼が帰ってくるまで待つよりほかにない。

祥くんは、わたしがスーパーに出かけることすらも嫌がるようになった。はっきり言うわけじゃないけど、「俺が行く」って言う。休みの日だったら、一緒に行く。


そのうち、わたしが仕事に行くことにも不快感を示すようになるんじゃないかって、心配している。

こうして気が済むなら、好きなだけわたしを閉じ込めればいいと思う。


でも、祥くんはちっとも、幸せそうじゃない。わたしが家にいたからって、にこにこしてくれるわけじゃなくて、ちょっとため息ついたりして、かえって機嫌が悪いんじゃないかって思うくらい。


じゃあ、どうしたらいいんだろう。どうしたら、祥くんの気が済むんだろう。
そんなふうに考えていた、矢先のことだった。

10月も後半に入ると、さすがに朝晩は肌寒くなって、身をすくめながら、わたしは仕事からまっすぐ帰ってきた。上着が薄すぎたかなあ、なんて考えながら。

ひんやりした空気に満ちた、マンションのエントランスで、男の人に呼び止められた。


「海空ちゃんだね」

って。知らない人から急に名前を呼ばれたのかと思ってびっくりした。ぱっと振り返ったときには、気がつかなかったけれど、声を頭で反芻してみてわかった。


祥くんのお父さんだって。


「おじさん！お久しぶりです。海空です」

おじさんにだって、とてもお世話になった。おばさんが動物園でわたしの母親役をできたのも、おじさんが仕事を休んで祥くんに付き添ってくれたからだ。

「祥生の傍にいてくれて、ありがとう」

そう言って、かすかに微笑んだおじさんは、昔の面影を強く感じさせた。

寡黙な人で、必要なことしかしゃべらない人だったけど、目があったり言葉を交わしたりするときには、わずかに笑ってくれてることがちゃんとわかったっけ。
「こ、こ、こちらこそ！！あ、ああ、えっと、祥くんはまだ仕事があると思うんですけど、あの、どうぞ。部屋はこちらです」

自分の部屋ってわけでもないけど、お父さんなら上がってもらっていいと思う。

なんだか変に緊張するなって思ったけど、恋人のお父さんに会うってこういう感じなんだろうなって気付いた。

再会した時、祥くんが、おばさんの前で婚約者のふりをしてくれって言ったっけ。おばさんのかわりに、おじさんの前で、そんな顔を見せることになったのか。

あのときとは違って、本当にわたしと祥くんは恋人の関係にあるのかと思うと、なんだか不思議な気持ちになる。


おじさんがお土産だと言って渡してくれた、北海道の空弁を、ふたりで食べる。晩ご飯もなかったし、助かったけど。

何を話していいのかもわからず、手持無沙汰で、テレビをつけっぱなしにしている。おじさんは、その画面を見ているけれど、何をしに来たのかはわからない。


祥くんに、メールでもした方がいいのかな、ってちょっとは考えた。
だって、今朝も祥くんはお父さんが訪ねてくるなんてこと、一言も言ってなかった。でも、これまでおじさんの話を一切しなかった祥くんのことを考えると、知らせるべきかどうか、迷っていた。

携帯電話を鞄から出したものの、なかなか指が動かないでいるわたしに気がついたのか、おじさんは言った。


「祥生には、知らせないでくれるかな」


…わたしって、どうしてこう、行動や思考を読まれやすいんだろうな。

「わかりました」

やることがなくて、かといって、おじさんの目の前でリラックスして編み物とか読書をする気にもなれず、本棚をちょこちょこ拭いてみたりするけど、一向にすっきりしない。やっぱり、部屋中をがーっと勢いよく掃除しないことには、すっきりしない。

そんなこちょこちょと細かな作業を繰り返していたら、急に玄関が騒がしくなった。


「みっくちゃーん！ただいまぁー！！」


ああ、頭痛い。今週末は、幸くんがついてくる日だったんだ。

「うるせえ、近所迷惑だ」

祥くんに小突かれても幸くんはへへって笑いながら入ってくる。家主の祥くんより先に来るのも、いつものことだ。
「あれ？」

ダイニングテーブルに、背筋を伸ばして座っているおじさんと目があって、幸くんがたじろいだ。

「なんだよ」

後ろから入ってきた祥くんが、おじさんの姿を認め、そのまま動きを止めた。


「祥生」


静かな声で、おじさんが呼びかける。強張った表情のまま、祥くんは返事をしない。

「祥生」

静かな声だけど、力がある。


「今更、何の用だよ」


ようやく絞り出された声は、苦しげに聞こえる。

「ただ、会いに来ただけだ」

おじさんは目をそらさずに、祥くんを静かに見つめて答えるだけだ。

「それが透子の願いだから」
おじさんとおばさんは、離婚したと聞いている。おばさんの願いが、おじさんと祥くんの対面だとは、どういうことなのだろう。

「お前の勘違いを、今更、正すつもりもない」

「うるせえ」

「だけど、透子が俺に、祥生に会って欲しいと言ったから、来たまでのことだ」

「うるせえ」

ぎゅっと目をつぶった祥くんの姿は、何かの痛みに耐えるみたいに見えた。一瞬のことだったけど、わたしの目には焼き付いてしまった。

おじさんも、それを見たんだろうか。また、静かに微笑むと、「じゃあ帰る」と言って、本当に玄関から出て行ってしまった。

さっきの祥くんの表情がちらついて、おじさんを追いかけることもできない。

こんなに、「会う」って寂しいことだったかな。久しぶりに会えた親子なのに、ほんの数分顔を合わせて、ちっとも気持ちの通じ合わない会話を少し交わすだけ。

会う前よりも、寂しい気持ちが増すのって、どうしてかな。


それなのにどうして、おばさんは、おじさんと祥くんを会わせたがったんだろう。
「ねえねえ、海空ちゃん、俺、喉渇いたよー。アルコールが足りないよー」


わわ、すっかり存在を忘れていた、幸くんの。意外に静かにしていたものだから。

「ああ、何か飲む？ビールでいい？」

「うん。あと、何かおつまみもほしー」

この場所だけは止まっていた時間が、ようやく元に戻って動き出した感じだ。幸くんがいてくれて、よかった。

ほうっと息を吐くと、脳に酸素が回り出したような感覚がある。ひょっとしたら、息まで止めてた？わたし。


キッチンで、ビールやグラスを用意すると、ダイニングで幸くんが話す声が聞こえる。


「あの人、祥生の親父さんなんだ？」


訊きにくい、って感覚は、幸くんにはないらしい…。

ちょっとびっくりしたけど、祥くんが特に怒って言葉を返す様子もない。返事もないけど、多分、頷くか何かして肯定したんだろう。「なんで、祥生は怒ってんの？」

わああ！なんてストレートなんだろう！！聞いてるこっちがドキドキするんだけど。


「…お袋の傍にいてくれなかったから」


祥くんも、諦めたように言葉を繋ぐ。

ここで、わたしが出て行っていいんだろうか、って思うけど、ビールとおつまみくらい取ってくるだけだから、どうせここに隠れてたって、立ち聞きしてるのは丸わかりだろうな。

そっと戻って、二人の前に、静かにビールとグラスを並べる。

「それは、離婚して家からいなくなったことを言ってるわけ？」

「まあ、だいたいそのへんのことだ」

落ち着かないから、わたしも自分の分のカクテルを作ってから、席に着いた。

「なんで離婚したって？」

「知らねえよ」
「え？」

幸くんとわたしの声が重なって、顔を見合わせてしまう。

「知らねえって言うか、よくわからねえってとこかな。お袋は親父が浮気したって騒いでたけど、親父はしてないって言い張ってたし」

「お前も、親父さんが浮気したって思ってんの？それを、親父さんは、祥生の勘違いだって言ってんの？」

「大昔にアイツが浮気したかどうかなんて、どうでもいいんだよ」

吐き捨てるように言って、祥くんは、何もないところを鋭い目で見据えている。


「今更、のこのこ出てくることに、一番腹が立つ」


のこのこって言われても、おばさんが言い残したから、おじさんは会いに来たって言ってた。それでも、顔も見たくないってことなのかな？

わたしと幸くんは言葉を失って、顔を見合わせた。