結婚したいから!
どうして、こんなことになっちゃったんだろう、って思う。
何か、わたしたちは、間違えたんだろうか。
祥くん。どうしたの。
何があったの。
声にならない。
よくあることだと、思う。道を歩いていて、ふと、前から来た人と視線がぶつかることって。
だからって、どうってこともない。何もなかったかのように、それぞれがまた前を向いてすれ違いに歩いて行くだけだ。
なのに、今は、そうじゃない。
「何見てんだって言ってんだろ」
祥くんが、前から来た男の人の襟を、掴んでいる。掴まれた人も、何が起こったのか分からないって顔で、視線を泳がせていた。
「いや、別に、何でもないですよ。すみません」
とりあえず、謝った方がいいと思ったらしく、悪くもないのに謝ったその人。祥くんがちっと舌打ちして、その人を突き飛ばすように離した。
その人は、たまたま、わたしと目が合っただけ。祥くんの、虫の居所が悪かっただけ。
申し訳なくて、頭を下げたけど、その人は、そんなわたしの仕草も見ないように気をつけながら、慌てて行ってしまった。
祥くん。
どうしたの。怖いよ。
祥くんが一緒でも、外に出るのが嫌になった。
わたしがいるせいで、祥くんが誰かに危害を加えるようなことになったら、と思うと怖くて。
ひとりでは出かけない、ふたりでも出かけない。
それが、初めは違和感があったその変化だって、慣れてしまえば、少しずつ当たり前になって行く。
だから、どうやって、それを取りに行こうかって、迷った。
母から、「また手紙を送ったけど、届いてる?」って、メールが来て。自分の家まで、それを取りに行かなければいけないってことだ。
どうせ、いつものように、手紙だけじゃなくて、自分が気に入った小さなお菓子でも詰め込んで送ってくるだけの、小さいのにちょっと膨らんだ封筒だろうけど。
放っておくわけにもいかない。
明日の仕事の帰りに、そっと寄って来ればいいのかもしれない。
でも、もし、明日の夜、祥くんの方が先にマンションに帰って来てたら?無駄な寄り道をしてるって、思われたら?
「お母さんから、郵便物が届いてるみたいなんだけど」
メールの画面を見つめること数分。迷った挙句、祥くんにそう切り出してみた。
「車で取りに行くか?」
「うん」
そうか。やっぱり訊いてみてよかった、ってほっとする。
車だったら、他の人に会う確率はうんと低くなる。わたしのアパートも、車を停めやすい裏通りだし、きっと大丈夫だ、って思えた。
でも、大丈夫じゃ、なかった。
何がって、わたしが。
玄関を出て、廊下を進み、エレベーターに向かっていたとき。
心臓がぎゅっと鷲掴みにされるようなリアルな感覚が、襲ってきた。
びっくりして息がとまったのか、空気が薄い感じがして、呼吸まで苦しくなってくる。さらには激しいめまいで、堅い廊下に膝を突いているのに、それを別の自分が見下ろしているような、妙な感覚。
あ、わたし、病気になって、死ぬのかもしれない。
自分の体に、突如として現れた、激しい反応に、どうすることもできずにいた。その勢いに押し流されて行きそうで、怖かった。
気がついたら、祥くんに抱えられて、見慣れた寝室のベッドに寝かされているところだった。
変な汗で体中がべとべとしているのに、手足がふるふる震えている。熱いのか、寒いのか、初めての感覚で、頭がおかしくなりそうだ。
祥くんは、誰かと電話をしているらしく、携帯電話を耳にあてたまま、真剣な顔で、わたしを見つめている。何を話しているのか、聞きとる気力もない。
でも、その低く静かな声の響きを、鼓膜で感じているだけで、落ち着いてくるみたいだ。
どれくらいの時間が経ったんだろう。
わたしに襲いかかった得体の知れない体の異変は、すべて消えていた。
少し眠っていたようだ。いつの間にか、祥くんは電話を終えていて、薄明かりの中で、わたしの髪を撫でていた。
「わたし、死ぬの?」
祥くんが、「死ぬかよ、バカ」って言い返してくるけど、ちっとも笑っていない。
見たことのない、その辛そうな顔は、何?
「一瞬、おばあちゃんの顔が見えたよー」
笑わせようかと思ってそう言ってみるのに、「お前、ばーちゃん子だったな」って、無理した笑みを浮かべるだけだ。
だから、訊いてみる。
「何かの病気?きっと、頭がおかしくなるようなやつでしょ?」
何でもなかった、ってはずはない。あの苦しさ。発狂する前って、あんな感じなんじゃないかって思う。
祥くんは、ため息を吐いた。
「知り合いの医者に電話で訊いたら、症状は軽そうだけど、パニック障害の可能性もあるって」
「パニック障害?」
「原因はまだはっきりしない病気らしいけど、ストレスや食生活が一因になるって言う説がある。とくに、不安や疲れが引き金になるんじゃないかって言われてるらしい」
「不安?コーディネーターの仕事に変わったからかな」
そんなことを言われていても、自分のことを話している気がしない。
…確かに、この頃ぐっすり眠れないけど、仕事の内容が変わったせいだろうと思っていた。
「自覚ないのかよ。お前らしいけど」
ようやく、少しだけど、祥くんらしい笑みが見えて、わたしも少しほっとする。
「我慢、するな。嫌なことは嫌って言え。不安なこともちゃんと言えよ」
我慢?祥くんにときどき言われるけど、それこそ自覚はない。
「何も、ないよ。祥くんがいれば、それだけで幸せだもん」
そう言うと、わたしなんかより、何か辛いことがあるんじゃないか、って心配になるような表情になって行く祥くん。
ああ、さっきのその顔。どうしたんだろう。
「…そうか」
どう言えば、安心してくれるのかな。わたしは、祥くんのことが好きで、離れていったりしないのに。
「寝不足なんだろ。ここにいてやるから、寝ろ」
「うん」
ぎし、とスプリングの音を微かにならして、祥くんが隣で横になってくれる。伸ばされた腕に首を乗せて、片手を背中にまわすと、ほっとした。
大丈夫、もうどこも苦しくない。
祥くんが、優しく髪を撫でている。頬や、目に、そっとキスをしてくれる。わたしが泣いてるときみたい。
どうしたのかな。
普段は、祥くんも、むやみにべたべたくっついてくる方じゃないと思う。優しいけど、不器用だから、わたしが起きてるときに、泣いてもいないのに、こうして頬を撫でてくれるなんて、初めてじゃないかな。
なんでかな。祥くんの目を見てるだけで、私まで胸が痛い。
わたしは少しも泣いてないのに、祥くんが泣きそうに見えるのは、見間違いだろうか。彼の性格的に、泣くなんてありえないし、小さい頃だって数えるほどしか見たことないんだけど。
わたしの具合が悪くなって、そんなに心配をかけたんだろうか。それとも、まだわたしの彼への気持ちに、不安があるんだろうか。
わたしを撫でる大きな手は、壊れものを扱うみたいに慎重に思える。
大丈夫だよ、って気持ちを込めて、その手を捕まえて、両手で包んだ。
「祥くん、大好きだよ。わたしのことは心配いらないよ」
こんなにあなたのことを大事に思っているのに。
それが、どんどん伝わらなくなってきた気がするのは、気のせい?
懸命に言葉にして伝えても、祥くんのこぼす笑顔に無理を感じるのは、気のせい?ずいぶん早くにベッドに入ったせいで、いつも以上に頻繁に目が覚める。
うとうとして目が覚めるたびに、目の前でちいさく寝息を立てる、あどけない表情の祥くんを見ていた。
何かを考えるのにも疲れて、ただ、ぼんやりと。
外が少しずつ明るくなって来て、わたしは熟睡することを諦めて、ベッドを抜け出した。
床に下りて、そろそろと歩いてみるけれど、体のどこにもおかしな変化はなくて、少し安心する。汗をかきっぱなしで気持ちが悪かったから、シャワーを浴びた。
そう言えば、寝不足になってから、また少し痩せたかもしれないな、と鏡を見ながらそう思う。
でも、全身を綺麗にしてバスルームから出ると、気分がさっぱりした。今日は仕事も休みだから、ゆっくりしていれば、また元気になるだろう、と自分に言い聞かせる。
洗面所から出ると、お味噌汁のいい香りがした。
「何してるの?」
起きて着替えたらしい祥くんが、リビングで、段ボール箱に何かを入れているのが目に入った。
「荷造り」
って、こちらも見ないで答える。
「え?引っ越すの?」
って、驚いて言うと、初めて、祥くんが手を止めて、わたしをまっすぐ見た。昨日の表情が嘘のように、いつも通りの静かな顔だった。
「海空、自分の家に帰れ」
はっきりした声だった。
「…どう……して……?」
わたしたちは、結婚してるわけじゃないし、特に一緒に暮らす必要もないってことは、わかってる。結婚してるふりを、誰かに見せる必要もなくなったってことも、わかってる。
でも、なぜ、急に、そんなことを言われるのかが、わからない。
「お前は少し、俺から離れた方がいい」
そんな残酷なことを言いながら、祥くんがわたしに近づいてくる。その時初めて、わたしは自分が床にぺたんと座りこんでしまっていることに気がついた。体に力が入らない。
「わたし、祥くんに嫌われちゃったの?」
「そうじゃない。別れようとは言ってねえだろ。俺の話をよく聞け」
そう言うと、ぐらぐらして力の入らないわたしの肩を両手で支えながら、祥くんはゆっくりと、言い聞かせるみたいにして、わたしに話す。
珍しく、長く、たくさん話す。落ち着いた声で。わたしの目を見つめて。
わたしだって、その話を聞いて、その目を見つめ返して、理解しようと努力する。
だけど、さっぱり、わからない。
俺の囲いの中から、逃げ出してしまうような女だったら、かえってよかったのかもしれない。お前は、あえてその中にいることを選んで、ゆっくり崩れていくような感じがして、危ない。
なんか、大事だからって、しっかり握りしめてたものが壊れていくみたいだ。ぎゅっと抱きしめていたものが、つぶれていくみたいだ。
俺は、お前がどれだけ俺のことを好きなのか、知ってるつもりだ。でも、お前の感情も、俺の感情も強すぎると思う。
世界中にふたりきりならよかったって、思うことがなかったか。誰にもおびやかされず、そそのかされず、影響されずに。
俺は、よく、そう思う。
でも、ここは、そんな世界じゃない。お前も俺も、このままじゃ共倒れだろ。
俺は、お前に執着し過ぎる自分が、嫌いだ。お袋そっくりだ。
死ぬまでの一生を、こんなふうに生きるのかと思うとうんざりする。お前じゃない、自分自身にだ。
それから、俺の執着を許すお前も、駄目だ。心のどこかで、我慢を強いられているはずなのに、気がつきもせず、文句ひとつ言わずに、俺を許す。
一生このままで、いいはずがない。このままだと、俺より先にお前が壊れそうだ。
別に、これっきり縁を切ろうって言ってるわけじゃねえだろ。いつだって、会える距離だ。用事があれば連絡しろ。車が必要なら出してやるし、俺の飯が食いたければ作ってやるし、抱いて欲しくなったら抱いてやる。
俺もお前も、ちょっと頭を冷やした方がいい。少し距離を置くだけだ。わかるな、俺の言ってること。
…祥くんの言葉の意味はわかるけど、どうして、わたしがそれに従わなくちゃいけないのか、わからない。どちらもお互いのことを嫌いになったわけじゃないのに、どうして離れなきゃいけないのか、わからない。
祥くんの言うことを聞いておいた方がいいってこと、よくわかってるはずなのに、返事ができないばかりか、頷くことさえできない。
どのくらいの時間ぼんやりしていたのかわからない。
わたしの答えを聞くのは諦めたらしく、祥くんはわたしを抱き抱えると、静かにソファに下ろす。
そのまま、さっきの作業を再開する。わたしの持ち物を、段ボールの箱に次々と入れていくのだ。
この部屋からわたしのものが何かひとつなくなるたびに、わたしの中でも何かが一つ消えていくみたいだ。
今まで大事してきた何か。それが次々になくなって、次第に自分が空っぽになって行くような感覚に陥っているのに、そのことを祥くんに訴えることもできない。
わたしの荷物なんか、たいした量じゃない。よく考えてみれば、この家で祥くんと暮らすようになって3カ月が過ぎているけど、元々ここにあったものを使わせてもらうことが多かったから。
あっという間に荷造りを終えたらしい祥くんが、「鍵を出せ」って言う。その言葉は聞こえてるんだけど、体が動かない。
そんなわたしにため息を吐いて、祥くんはわたしの鞄から、アパートの鍵を探して出している。
自分の鍵とキーホルダーがぶつかる、聞き慣れた金属音が、次第に遠ざかって、ばたんと閉ざされるドアの向こうに消えた。
部屋の中に、段ボール箱は、もうない。
やっぱり祥くんは、意地悪だ。わたしの返事も待たずに、もう荷物を持って行ってしまった。
祥くん、本当に、わたしが出て行った方がいいって、思ってるんだね。
ようやく、そのことだけは、理解ができた。
「…ちょっと、九条さん。しっかりしてくれない?」
呆れたような声がして、わたしははっと現実に引き戻される。
ふわふわで明るい色の髪。見るからに軽そうなこの男は、10月から入社した後輩の、香山慎(こうやましん)。
内心、ちょっとは名前のごとく、慎みってものを持てばいいのに、って思ってる。3月に大学を出て、半年何をしてたのかって尋ねられ、外国を放浪してたと答えたのを、面接官の一人がやたらと気に入って採用。
わたしは一応4月からこの会社に在籍していることになってるけど、コーディネーターになったのは同じ10月。先輩後輩と言うよりは、同期に近いライバルの関係にある。
だからなのか、香山くんは23歳と年下のくせに、わたしに一切敬語を使わない。
どうなのよ、それって、って思うけど。もしかしたら、香山くんの方だけじゃなくて、わたしの方にも原因はあるのかもしれないから、まだ文句は言えていない。
「さっきかかってきたの、俺の客でしょーが。ぼんやりしてないで、さっさと電話回してくれないと、機嫌悪くて相手すんのが面倒くさいんだけど」
悔しいけど、意外にお客さん受けはよくて、そんな彼の発言にも、何も言い返せない。
「…ごめん。気をつける」
はあ。駄目だ。仕事に身が入らない。せっかくコーディネーターの仕事をさせてもらえるようになったのに、慣れるどころか、まわりの足まで引っ張ってる。
気がつくと、10月も最終週が終わりかけている。カレンダーを見ると、金曜日。
今日は、秋の歓送迎会がある。春ほどの人の動きはないけれど、新入社員として、わたしと香山くんが、紹介されるそうだ。
声をかけられた時には、行こうかどうしようか迷っていたけれど、こういう状況になったから、祥くんは何も言わないだろうと考えて、出席することにした。
とてもじゃないけど、お酒を飲んで、人とにこにこ話せる状態じゃないけど。
かといって、祥くんのマンションに帰るのも、楽じゃない。あれから6日経つ。
ぼんやりしているわたしは、一応、まともに生活しているつもりだ。朝は祥くんのご飯を食べて、仕事にも出てくる。でも、まだうまく状況が飲み込めない。
わたし、どうすればいいんだろう。
土日の休みの間に、もう一度、祥くんと落ち着いて話してみようか。
「…って、聞いてんの、九条さん」
「わ、わあ!」
もう、この人も、他人との距離が近すぎる人種だ。幸くんと同じ。
わたしは、慌てて目の前のふわふわ頭の男から、距離を置く。
「わざわざ部長が出向いてくれてるのに、ぼんやりしてんね。すんません、部長」
「ごごご、ごめんなさい!」
苦笑する部長さんが、グラスを傾けてビールを一口飲んだ。なんて言うか、この人って育ちがよさそう。仕草を見てると、何となくそう感じる。
ああ、しまった。もう飲み会始まってたんだっけ。
どきどきしながら、なんとか自分の挨拶を終えて、誰かが乾杯の挨拶をしている間に、自分だけの世界にトリップしてしまっていた。部長さんが近くに来てくれていたことにも気がつかなかった。「いいよ。仕事の内容も変わったところだし、緊張してるのかな。辛くはない?」
優しいな。失敗ばっかりしてるのにな、わたし。部長さんや理央さんの力になりたいって思ってたのに。
「いえ!わたしは、お客様とお話しするだけで、楽しいんです。でも、あー、えっと、成果が出せてなくて、すみません」
そう。接客は苦にならない。やっぱり、結婚したいって希望を持って、会社に来てくれる人と話すのは楽しい。
でも、相性のいい人を引き合わせるって、思った以上に難しい。成果が出ないってのはつまり、お付き合いが上手くいっている組み合わせが、まだないってこと。
「大丈夫。九条さんは、お客様からの信用が篤い。そのうち実になるから、そのままでいい」
部長さんって、わたしの扱いが上手いと思う。「そのままでいい」って、わたしにとっては何よりの励ましだと思う。
わたしだって、頑張ってないわけじゃない。どっちかっていうと、頑張りすぎて空回りすることが多いから、そう言ってもらえると、ほっとする。
「ぬるいよね、九条さんって」
「…は?」
ぬるい、とは?
「ただ客と話してるだけじゃ、会社の売り上げあがんないでしょ。自分が楽しいかどうかなんて、会社にとっては関係ないよね。もっと客にお金落とさせることを考えたらどーお?」
「…はあ!?」
このふわふわ頭め!!その髪の毛抜いてやろうかなと思ったのを、すんでのところで実行するのは踏みとどまる。
「ね、そうでしょ、資本主義社会なんだから♪」
でも、握りしめたこぶしが、膝の上でふるふる震えてきそうだ。
「…わたし、そんな人に大事な結婚を任せたくない」
睨んでみても、へっちゃらな顔で、香山くんはさらにわたしの神経を逆なでしてくる。
「ふーん、まだ1組もまとめられないくせに、えっらそー」
ぐっと喉が詰まって、何も言い返せなくなった。
こんなに軽そうなくせに、そんなに割り切った仕事のやり方なのに、すでに2組の夫婦を誕生させているのだ、彼は。
でも、絶対、香山流の接客なんか、したくない。
「なんて言われても、わたしはやり方を変えたくない」
いつか、彼を越えよう。わたしは、そんなに闘争心の強い方じゃないと思う。で、負けず嫌いってわけでもないし、誰かに気が強いと言われたこともない。
でも、こんなふうに言われたら、わたしだって、そのうちこの人より仕事ができる人になりたいって気持ちにもなる。
「ふーん。いい顔できるじゃん」
「うわ!」
もう、顔近いから!!なんなのよ、幸くん2号。後ずさりすると、香山くんがへらへら笑う。
「張り合いないんだよねー、そのくらい気合入れて仕事してくれないとさぁ」
悔しい!悔しい!!もーう、絶対こいつに負けたくない!!
バン、とビールの入ったグラスを机に叩きつけると同時に、わたしはもっともっと仕事もがんばろうって決心した。
時計を見ると、もうすぐ4時だった。夕方じゃなくて、朝方の。
帰って、来ない。祥くんが。こんなことは初めてだから、どうしたらいいのかわからない。
祥くん、どこに、いるの。
とうとう夜が明けてしまい、翌朝10時くらいに、携帯電話が鳴ったときには、思わず飛びついた。
From 平河祥生
Sub. 無題
本文 しばらく知り合いの家にいる
祥くんが無事だとわかった安心の後には、もう帰って来ないんじゃないかって言う予感が襲ってきた。
しばらくって、どのくらい?知り合いって、誰?
少し前なら、訊けたことが、もう訊けなくなっている自分に気がついた。
土曜日、祥くんの話を何度も思い返してみた。
日曜日、祥くんの旅行鞄がないことに気がついた。
月曜日、香山くんの顔を見たら、それだけでまたむかっとした。
火曜日、祥くんにメールをしようかと思ったけど、やめた。
水曜日、祥くんに電話をかけようかと思ったけど、やめた。
木曜日、紗彩に電話をしようかと思ったけど、やめた。
金曜日、わたしは諦めた。
ずっと祥くんがいないせいで、考える時間だけはあった。
祥くんに買ってもらった洋服や小物を除けば、わたしの手元には、最低限の着替えと化粧品、会社に持って行く鞄、それだけしかない。本を読んだり、編み物をしたりして、気を紛らわすこともできない。
香山くんの話にむかついたせいで、頭が多少働くようになったから、一生懸命考えた。
それで、最後には、諦めるしかなくなった。
今だって、祥くんの言ったことを理解し切れていない。今のわたしがあのときと同じことを言われたら、「パニックになってもいいから、祥くんと一緒にいたい」って言うんじゃないかって思うくらい、納得できてない。
でも、ここまでして祥くんは、わたしを避ける。
「用事があれば連絡しろ」って言ったけど、用事がない限りは関わらないってことなんだね。
どんな理由にしろ、わたしを必要としない祥くんに、用事はない。用事なんか頼めるはずがない。
別れるって言わないけど、実質的にはさようなら、だ。
どう考えても、最後にはそこに行き着いた。
わたしは、祥くんを諦めるしかない、らしい。
その結論だけは、変えられそうになかった。そのことは、もう無視できない。
祥くんの言うことをきいておいた方がいいってことは、わかってる。でも、このまま出ていくことだけは、嫌だった。
10歳のあの日、突然、幼馴染を失った悲しみは、もう繰り返したくない。
あれは、最後にちゃんと話ができていれば、わたし自身の気持ちの整理ももう少しついていたように思うから。
もう1回、祥くんの顔を見たかった。会って、今まで助けてもらったいろんなことを一言でも、感謝してるって伝えてから、さよならしたかった。
でも、もうそれも、叶わない。
やっぱり、わたしたちは、ともに深手を負って離れることしか、できないらしい。
何か、わたしたちは、間違えたんだろうか。
祥くん。どうしたの。
何があったの。
声にならない。
よくあることだと、思う。道を歩いていて、ふと、前から来た人と視線がぶつかることって。
だからって、どうってこともない。何もなかったかのように、それぞれがまた前を向いてすれ違いに歩いて行くだけだ。
なのに、今は、そうじゃない。
「何見てんだって言ってんだろ」
祥くんが、前から来た男の人の襟を、掴んでいる。掴まれた人も、何が起こったのか分からないって顔で、視線を泳がせていた。
「いや、別に、何でもないですよ。すみません」
とりあえず、謝った方がいいと思ったらしく、悪くもないのに謝ったその人。祥くんがちっと舌打ちして、その人を突き飛ばすように離した。
その人は、たまたま、わたしと目が合っただけ。祥くんの、虫の居所が悪かっただけ。
申し訳なくて、頭を下げたけど、その人は、そんなわたしの仕草も見ないように気をつけながら、慌てて行ってしまった。
祥くん。
どうしたの。怖いよ。
祥くんが一緒でも、外に出るのが嫌になった。
わたしがいるせいで、祥くんが誰かに危害を加えるようなことになったら、と思うと怖くて。
ひとりでは出かけない、ふたりでも出かけない。
それが、初めは違和感があったその変化だって、慣れてしまえば、少しずつ当たり前になって行く。
だから、どうやって、それを取りに行こうかって、迷った。
母から、「また手紙を送ったけど、届いてる?」って、メールが来て。自分の家まで、それを取りに行かなければいけないってことだ。
どうせ、いつものように、手紙だけじゃなくて、自分が気に入った小さなお菓子でも詰め込んで送ってくるだけの、小さいのにちょっと膨らんだ封筒だろうけど。
放っておくわけにもいかない。
明日の仕事の帰りに、そっと寄って来ればいいのかもしれない。
でも、もし、明日の夜、祥くんの方が先にマンションに帰って来てたら?無駄な寄り道をしてるって、思われたら?
「お母さんから、郵便物が届いてるみたいなんだけど」
メールの画面を見つめること数分。迷った挙句、祥くんにそう切り出してみた。
「車で取りに行くか?」
「うん」
そうか。やっぱり訊いてみてよかった、ってほっとする。
車だったら、他の人に会う確率はうんと低くなる。わたしのアパートも、車を停めやすい裏通りだし、きっと大丈夫だ、って思えた。
でも、大丈夫じゃ、なかった。
何がって、わたしが。
玄関を出て、廊下を進み、エレベーターに向かっていたとき。
心臓がぎゅっと鷲掴みにされるようなリアルな感覚が、襲ってきた。
びっくりして息がとまったのか、空気が薄い感じがして、呼吸まで苦しくなってくる。さらには激しいめまいで、堅い廊下に膝を突いているのに、それを別の自分が見下ろしているような、妙な感覚。
あ、わたし、病気になって、死ぬのかもしれない。
自分の体に、突如として現れた、激しい反応に、どうすることもできずにいた。その勢いに押し流されて行きそうで、怖かった。
気がついたら、祥くんに抱えられて、見慣れた寝室のベッドに寝かされているところだった。
変な汗で体中がべとべとしているのに、手足がふるふる震えている。熱いのか、寒いのか、初めての感覚で、頭がおかしくなりそうだ。
祥くんは、誰かと電話をしているらしく、携帯電話を耳にあてたまま、真剣な顔で、わたしを見つめている。何を話しているのか、聞きとる気力もない。
でも、その低く静かな声の響きを、鼓膜で感じているだけで、落ち着いてくるみたいだ。
どれくらいの時間が経ったんだろう。
わたしに襲いかかった得体の知れない体の異変は、すべて消えていた。
少し眠っていたようだ。いつの間にか、祥くんは電話を終えていて、薄明かりの中で、わたしの髪を撫でていた。
「わたし、死ぬの?」
祥くんが、「死ぬかよ、バカ」って言い返してくるけど、ちっとも笑っていない。
見たことのない、その辛そうな顔は、何?
「一瞬、おばあちゃんの顔が見えたよー」
笑わせようかと思ってそう言ってみるのに、「お前、ばーちゃん子だったな」って、無理した笑みを浮かべるだけだ。
だから、訊いてみる。
「何かの病気?きっと、頭がおかしくなるようなやつでしょ?」
何でもなかった、ってはずはない。あの苦しさ。発狂する前って、あんな感じなんじゃないかって思う。
祥くんは、ため息を吐いた。
「知り合いの医者に電話で訊いたら、症状は軽そうだけど、パニック障害の可能性もあるって」
「パニック障害?」
「原因はまだはっきりしない病気らしいけど、ストレスや食生活が一因になるって言う説がある。とくに、不安や疲れが引き金になるんじゃないかって言われてるらしい」
「不安?コーディネーターの仕事に変わったからかな」
そんなことを言われていても、自分のことを話している気がしない。
…確かに、この頃ぐっすり眠れないけど、仕事の内容が変わったせいだろうと思っていた。
「自覚ないのかよ。お前らしいけど」
ようやく、少しだけど、祥くんらしい笑みが見えて、わたしも少しほっとする。
「我慢、するな。嫌なことは嫌って言え。不安なこともちゃんと言えよ」
我慢?祥くんにときどき言われるけど、それこそ自覚はない。
「何も、ないよ。祥くんがいれば、それだけで幸せだもん」
そう言うと、わたしなんかより、何か辛いことがあるんじゃないか、って心配になるような表情になって行く祥くん。
ああ、さっきのその顔。どうしたんだろう。
「…そうか」
どう言えば、安心してくれるのかな。わたしは、祥くんのことが好きで、離れていったりしないのに。
「寝不足なんだろ。ここにいてやるから、寝ろ」
「うん」
ぎし、とスプリングの音を微かにならして、祥くんが隣で横になってくれる。伸ばされた腕に首を乗せて、片手を背中にまわすと、ほっとした。
大丈夫、もうどこも苦しくない。
祥くんが、優しく髪を撫でている。頬や、目に、そっとキスをしてくれる。わたしが泣いてるときみたい。
どうしたのかな。
普段は、祥くんも、むやみにべたべたくっついてくる方じゃないと思う。優しいけど、不器用だから、わたしが起きてるときに、泣いてもいないのに、こうして頬を撫でてくれるなんて、初めてじゃないかな。
なんでかな。祥くんの目を見てるだけで、私まで胸が痛い。
わたしは少しも泣いてないのに、祥くんが泣きそうに見えるのは、見間違いだろうか。彼の性格的に、泣くなんてありえないし、小さい頃だって数えるほどしか見たことないんだけど。
わたしの具合が悪くなって、そんなに心配をかけたんだろうか。それとも、まだわたしの彼への気持ちに、不安があるんだろうか。
わたしを撫でる大きな手は、壊れものを扱うみたいに慎重に思える。
大丈夫だよ、って気持ちを込めて、その手を捕まえて、両手で包んだ。
「祥くん、大好きだよ。わたしのことは心配いらないよ」
こんなにあなたのことを大事に思っているのに。
それが、どんどん伝わらなくなってきた気がするのは、気のせい?
懸命に言葉にして伝えても、祥くんのこぼす笑顔に無理を感じるのは、気のせい?ずいぶん早くにベッドに入ったせいで、いつも以上に頻繁に目が覚める。
うとうとして目が覚めるたびに、目の前でちいさく寝息を立てる、あどけない表情の祥くんを見ていた。
何かを考えるのにも疲れて、ただ、ぼんやりと。
外が少しずつ明るくなって来て、わたしは熟睡することを諦めて、ベッドを抜け出した。
床に下りて、そろそろと歩いてみるけれど、体のどこにもおかしな変化はなくて、少し安心する。汗をかきっぱなしで気持ちが悪かったから、シャワーを浴びた。
そう言えば、寝不足になってから、また少し痩せたかもしれないな、と鏡を見ながらそう思う。
でも、全身を綺麗にしてバスルームから出ると、気分がさっぱりした。今日は仕事も休みだから、ゆっくりしていれば、また元気になるだろう、と自分に言い聞かせる。
洗面所から出ると、お味噌汁のいい香りがした。
「何してるの?」
起きて着替えたらしい祥くんが、リビングで、段ボール箱に何かを入れているのが目に入った。
「荷造り」
って、こちらも見ないで答える。
「え?引っ越すの?」
って、驚いて言うと、初めて、祥くんが手を止めて、わたしをまっすぐ見た。昨日の表情が嘘のように、いつも通りの静かな顔だった。
「海空、自分の家に帰れ」
はっきりした声だった。
「…どう……して……?」
わたしたちは、結婚してるわけじゃないし、特に一緒に暮らす必要もないってことは、わかってる。結婚してるふりを、誰かに見せる必要もなくなったってことも、わかってる。
でも、なぜ、急に、そんなことを言われるのかが、わからない。
「お前は少し、俺から離れた方がいい」
そんな残酷なことを言いながら、祥くんがわたしに近づいてくる。その時初めて、わたしは自分が床にぺたんと座りこんでしまっていることに気がついた。体に力が入らない。
「わたし、祥くんに嫌われちゃったの?」
「そうじゃない。別れようとは言ってねえだろ。俺の話をよく聞け」
そう言うと、ぐらぐらして力の入らないわたしの肩を両手で支えながら、祥くんはゆっくりと、言い聞かせるみたいにして、わたしに話す。
珍しく、長く、たくさん話す。落ち着いた声で。わたしの目を見つめて。
わたしだって、その話を聞いて、その目を見つめ返して、理解しようと努力する。
だけど、さっぱり、わからない。
俺の囲いの中から、逃げ出してしまうような女だったら、かえってよかったのかもしれない。お前は、あえてその中にいることを選んで、ゆっくり崩れていくような感じがして、危ない。
なんか、大事だからって、しっかり握りしめてたものが壊れていくみたいだ。ぎゅっと抱きしめていたものが、つぶれていくみたいだ。
俺は、お前がどれだけ俺のことを好きなのか、知ってるつもりだ。でも、お前の感情も、俺の感情も強すぎると思う。
世界中にふたりきりならよかったって、思うことがなかったか。誰にもおびやかされず、そそのかされず、影響されずに。
俺は、よく、そう思う。
でも、ここは、そんな世界じゃない。お前も俺も、このままじゃ共倒れだろ。
俺は、お前に執着し過ぎる自分が、嫌いだ。お袋そっくりだ。
死ぬまでの一生を、こんなふうに生きるのかと思うとうんざりする。お前じゃない、自分自身にだ。
それから、俺の執着を許すお前も、駄目だ。心のどこかで、我慢を強いられているはずなのに、気がつきもせず、文句ひとつ言わずに、俺を許す。
一生このままで、いいはずがない。このままだと、俺より先にお前が壊れそうだ。
別に、これっきり縁を切ろうって言ってるわけじゃねえだろ。いつだって、会える距離だ。用事があれば連絡しろ。車が必要なら出してやるし、俺の飯が食いたければ作ってやるし、抱いて欲しくなったら抱いてやる。
俺もお前も、ちょっと頭を冷やした方がいい。少し距離を置くだけだ。わかるな、俺の言ってること。
…祥くんの言葉の意味はわかるけど、どうして、わたしがそれに従わなくちゃいけないのか、わからない。どちらもお互いのことを嫌いになったわけじゃないのに、どうして離れなきゃいけないのか、わからない。
祥くんの言うことを聞いておいた方がいいってこと、よくわかってるはずなのに、返事ができないばかりか、頷くことさえできない。
どのくらいの時間ぼんやりしていたのかわからない。
わたしの答えを聞くのは諦めたらしく、祥くんはわたしを抱き抱えると、静かにソファに下ろす。
そのまま、さっきの作業を再開する。わたしの持ち物を、段ボールの箱に次々と入れていくのだ。
この部屋からわたしのものが何かひとつなくなるたびに、わたしの中でも何かが一つ消えていくみたいだ。
今まで大事してきた何か。それが次々になくなって、次第に自分が空っぽになって行くような感覚に陥っているのに、そのことを祥くんに訴えることもできない。
わたしの荷物なんか、たいした量じゃない。よく考えてみれば、この家で祥くんと暮らすようになって3カ月が過ぎているけど、元々ここにあったものを使わせてもらうことが多かったから。
あっという間に荷造りを終えたらしい祥くんが、「鍵を出せ」って言う。その言葉は聞こえてるんだけど、体が動かない。
そんなわたしにため息を吐いて、祥くんはわたしの鞄から、アパートの鍵を探して出している。
自分の鍵とキーホルダーがぶつかる、聞き慣れた金属音が、次第に遠ざかって、ばたんと閉ざされるドアの向こうに消えた。
部屋の中に、段ボール箱は、もうない。
やっぱり祥くんは、意地悪だ。わたしの返事も待たずに、もう荷物を持って行ってしまった。
祥くん、本当に、わたしが出て行った方がいいって、思ってるんだね。
ようやく、そのことだけは、理解ができた。
「…ちょっと、九条さん。しっかりしてくれない?」
呆れたような声がして、わたしははっと現実に引き戻される。
ふわふわで明るい色の髪。見るからに軽そうなこの男は、10月から入社した後輩の、香山慎(こうやましん)。
内心、ちょっとは名前のごとく、慎みってものを持てばいいのに、って思ってる。3月に大学を出て、半年何をしてたのかって尋ねられ、外国を放浪してたと答えたのを、面接官の一人がやたらと気に入って採用。
わたしは一応4月からこの会社に在籍していることになってるけど、コーディネーターになったのは同じ10月。先輩後輩と言うよりは、同期に近いライバルの関係にある。
だからなのか、香山くんは23歳と年下のくせに、わたしに一切敬語を使わない。
どうなのよ、それって、って思うけど。もしかしたら、香山くんの方だけじゃなくて、わたしの方にも原因はあるのかもしれないから、まだ文句は言えていない。
「さっきかかってきたの、俺の客でしょーが。ぼんやりしてないで、さっさと電話回してくれないと、機嫌悪くて相手すんのが面倒くさいんだけど」
悔しいけど、意外にお客さん受けはよくて、そんな彼の発言にも、何も言い返せない。
「…ごめん。気をつける」
はあ。駄目だ。仕事に身が入らない。せっかくコーディネーターの仕事をさせてもらえるようになったのに、慣れるどころか、まわりの足まで引っ張ってる。
気がつくと、10月も最終週が終わりかけている。カレンダーを見ると、金曜日。
今日は、秋の歓送迎会がある。春ほどの人の動きはないけれど、新入社員として、わたしと香山くんが、紹介されるそうだ。
声をかけられた時には、行こうかどうしようか迷っていたけれど、こういう状況になったから、祥くんは何も言わないだろうと考えて、出席することにした。
とてもじゃないけど、お酒を飲んで、人とにこにこ話せる状態じゃないけど。
かといって、祥くんのマンションに帰るのも、楽じゃない。あれから6日経つ。
ぼんやりしているわたしは、一応、まともに生活しているつもりだ。朝は祥くんのご飯を食べて、仕事にも出てくる。でも、まだうまく状況が飲み込めない。
わたし、どうすればいいんだろう。
土日の休みの間に、もう一度、祥くんと落ち着いて話してみようか。
「…って、聞いてんの、九条さん」
「わ、わあ!」
もう、この人も、他人との距離が近すぎる人種だ。幸くんと同じ。
わたしは、慌てて目の前のふわふわ頭の男から、距離を置く。
「わざわざ部長が出向いてくれてるのに、ぼんやりしてんね。すんません、部長」
「ごごご、ごめんなさい!」
苦笑する部長さんが、グラスを傾けてビールを一口飲んだ。なんて言うか、この人って育ちがよさそう。仕草を見てると、何となくそう感じる。
ああ、しまった。もう飲み会始まってたんだっけ。
どきどきしながら、なんとか自分の挨拶を終えて、誰かが乾杯の挨拶をしている間に、自分だけの世界にトリップしてしまっていた。部長さんが近くに来てくれていたことにも気がつかなかった。「いいよ。仕事の内容も変わったところだし、緊張してるのかな。辛くはない?」
優しいな。失敗ばっかりしてるのにな、わたし。部長さんや理央さんの力になりたいって思ってたのに。
「いえ!わたしは、お客様とお話しするだけで、楽しいんです。でも、あー、えっと、成果が出せてなくて、すみません」
そう。接客は苦にならない。やっぱり、結婚したいって希望を持って、会社に来てくれる人と話すのは楽しい。
でも、相性のいい人を引き合わせるって、思った以上に難しい。成果が出ないってのはつまり、お付き合いが上手くいっている組み合わせが、まだないってこと。
「大丈夫。九条さんは、お客様からの信用が篤い。そのうち実になるから、そのままでいい」
部長さんって、わたしの扱いが上手いと思う。「そのままでいい」って、わたしにとっては何よりの励ましだと思う。
わたしだって、頑張ってないわけじゃない。どっちかっていうと、頑張りすぎて空回りすることが多いから、そう言ってもらえると、ほっとする。
「ぬるいよね、九条さんって」
「…は?」
ぬるい、とは?
「ただ客と話してるだけじゃ、会社の売り上げあがんないでしょ。自分が楽しいかどうかなんて、会社にとっては関係ないよね。もっと客にお金落とさせることを考えたらどーお?」
「…はあ!?」
このふわふわ頭め!!その髪の毛抜いてやろうかなと思ったのを、すんでのところで実行するのは踏みとどまる。
「ね、そうでしょ、資本主義社会なんだから♪」
でも、握りしめたこぶしが、膝の上でふるふる震えてきそうだ。
「…わたし、そんな人に大事な結婚を任せたくない」
睨んでみても、へっちゃらな顔で、香山くんはさらにわたしの神経を逆なでしてくる。
「ふーん、まだ1組もまとめられないくせに、えっらそー」
ぐっと喉が詰まって、何も言い返せなくなった。
こんなに軽そうなくせに、そんなに割り切った仕事のやり方なのに、すでに2組の夫婦を誕生させているのだ、彼は。
でも、絶対、香山流の接客なんか、したくない。
「なんて言われても、わたしはやり方を変えたくない」
いつか、彼を越えよう。わたしは、そんなに闘争心の強い方じゃないと思う。で、負けず嫌いってわけでもないし、誰かに気が強いと言われたこともない。
でも、こんなふうに言われたら、わたしだって、そのうちこの人より仕事ができる人になりたいって気持ちにもなる。
「ふーん。いい顔できるじゃん」
「うわ!」
もう、顔近いから!!なんなのよ、幸くん2号。後ずさりすると、香山くんがへらへら笑う。
「張り合いないんだよねー、そのくらい気合入れて仕事してくれないとさぁ」
悔しい!悔しい!!もーう、絶対こいつに負けたくない!!
バン、とビールの入ったグラスを机に叩きつけると同時に、わたしはもっともっと仕事もがんばろうって決心した。
時計を見ると、もうすぐ4時だった。夕方じゃなくて、朝方の。
帰って、来ない。祥くんが。こんなことは初めてだから、どうしたらいいのかわからない。
祥くん、どこに、いるの。
とうとう夜が明けてしまい、翌朝10時くらいに、携帯電話が鳴ったときには、思わず飛びついた。
From 平河祥生
Sub. 無題
本文 しばらく知り合いの家にいる
祥くんが無事だとわかった安心の後には、もう帰って来ないんじゃないかって言う予感が襲ってきた。
しばらくって、どのくらい?知り合いって、誰?
少し前なら、訊けたことが、もう訊けなくなっている自分に気がついた。
土曜日、祥くんの話を何度も思い返してみた。
日曜日、祥くんの旅行鞄がないことに気がついた。
月曜日、香山くんの顔を見たら、それだけでまたむかっとした。
火曜日、祥くんにメールをしようかと思ったけど、やめた。
水曜日、祥くんに電話をかけようかと思ったけど、やめた。
木曜日、紗彩に電話をしようかと思ったけど、やめた。
金曜日、わたしは諦めた。
ずっと祥くんがいないせいで、考える時間だけはあった。
祥くんに買ってもらった洋服や小物を除けば、わたしの手元には、最低限の着替えと化粧品、会社に持って行く鞄、それだけしかない。本を読んだり、編み物をしたりして、気を紛らわすこともできない。
香山くんの話にむかついたせいで、頭が多少働くようになったから、一生懸命考えた。
それで、最後には、諦めるしかなくなった。
今だって、祥くんの言ったことを理解し切れていない。今のわたしがあのときと同じことを言われたら、「パニックになってもいいから、祥くんと一緒にいたい」って言うんじゃないかって思うくらい、納得できてない。
でも、ここまでして祥くんは、わたしを避ける。
「用事があれば連絡しろ」って言ったけど、用事がない限りは関わらないってことなんだね。
どんな理由にしろ、わたしを必要としない祥くんに、用事はない。用事なんか頼めるはずがない。
別れるって言わないけど、実質的にはさようなら、だ。
どう考えても、最後にはそこに行き着いた。
わたしは、祥くんを諦めるしかない、らしい。
その結論だけは、変えられそうになかった。そのことは、もう無視できない。
祥くんの言うことをきいておいた方がいいってことは、わかってる。でも、このまま出ていくことだけは、嫌だった。
10歳のあの日、突然、幼馴染を失った悲しみは、もう繰り返したくない。
あれは、最後にちゃんと話ができていれば、わたし自身の気持ちの整理ももう少しついていたように思うから。
もう1回、祥くんの顔を見たかった。会って、今まで助けてもらったいろんなことを一言でも、感謝してるって伝えてから、さよならしたかった。
でも、もうそれも、叶わない。
やっぱり、わたしたちは、ともに深手を負って離れることしか、できないらしい。