結婚したいから!
そして、愛のある日々との別れ
本当に、わたしを突き離すつもりなんだね。
何よりも、そのことを痛感しただけだ。
実家の母に書いた、返事の手紙を、近くのポストまで行って、投函してきたところだった。帰ってきたら、見慣れた靴と、見慣れない靴があった。
ドキドキしながらリビングに向かった私は、寝室の半開きのドアの前で、足を止めることになったのだった。
目の前で、祥くんが、わたしの見たこともない女の人とキスしてる。
これまで、彼氏に浮気されたんじゃないかって思うことはあっても、その現場に遭遇したことはない。想像しただけでも痛い場面を、実際に目の前で見ているこの衝撃。
ふたりは、しっかり抱き合って、深いキスを、してる。きっと、うっとりするようなやつ。
いつからそうしてたのかわからないけど、ようやく離れ、気配に気づいた女の人が、こちらを見て目を丸くした。
「だ、れ?」
それは、誰だって、びっくり、すると思う。自分のキスシーンを他人に見られたら。
「妹」
こちらを見もしないで、低い声で祥くんが答えた。
イモウト…かぁ…。ふたりでいると、よく間違われたっけ、兄と妹に。全然似てないのにな。
「早く帰れ」
そう言い捨てて、寝室のドアを後ろ手に閉める。最後まで、彼は一度もわたしを見なかった。
今度こそ、本当のさよならだ、ってわかる。祥くんの意思で、わたしは放り出されるのだから。
こんなに傷つけられるのなら、もっと早くに諦めて、ここを出た方がよかったのかもしれない。
彼は、わたしがうやむやな状態のままでは別れられないと気がついたんだろう。昔みたいに、訳が分からず納得がいかないままでは、彼の傍を離れないってことを。
きっと、なかなか自分のアパートに帰らないわたしを見ていて、方法を変えたんだろう。少し距離を置く、って生ぬるいことはやめて、完全に遠ざける、ってきっぱりしたやり方に。
さすがに新しい彼女ができたって言うなら、出ていくしかない。幸くんが言うには、女の子を家に入れることもなかったらしい、祥くん。
こうして、わざわざ彼女を連れてきたのは、わたしに諦めさせるためだとしか思えない。
こうなったら、わたしは、もう、祥くんに言われたとおりの妹になりきって、自分の家に帰るしかない。
祥くんに感謝することが、たくさん、たくさん、ある。でも、もうそれは直接は言えないらしい。
祥くん、もう少しだけ、待ってほしかったな。でも、祥くんから見れば、きっと、十分待ったって言えるくらいの時間が経ったんだろうね。
時折聞こえる、寝室からの彼女の声に、耳が汚されていくみたいだ。耳だけじゃなくて、それはわたしの精神もさらに蝕む。
夢中で、残りの自分の荷物をかき集めて、旅行鞄に押し込んだ。
買ってもらった服がたくさん、寝室の隣の部屋のクローゼットにあるけれど、それは祥くんが処分すればいい。
最後まで意地悪だった祥くんも、そのときくらい、少しは胸を痛めればいい。
震える指先で書いたメモは、やっぱり字も震えていた。
お兄ちゃん
ありがとう。幸せでした。
今度は、お兄ちゃんが幸せになって。
妹
その走り書きのようなメモを、どこに置いたのかもわからない状態で、靴だけはきちんと履いていた。
外に出ると、いつの間にか大雨になっていたけれど、傘を持ってくる余裕はなかった。
今度こそ、本当に頭がおかしくなりそうだった。
大勢の人がいる電車に乗れる気がしなくて、道でタクシーを拾った。運転手さんの視線も気にならないくらい、大声でわめきながら泣いた。
気がついたら、自分のアパートじゃなくて、紗彩のマンションのドアの前にいた。
しばらく、会いたいのに会えない状況が続いていたから、無意識のうちにここに来てしまったらしい。
「なに、やってん、の……」
日曜日の夜だから、さすがに自宅にいたらしい。紗彩が、綺麗な目を見開いて、わたしを凝視しているのに、まともにしゃべれなくて、変な悲鳴が漏れる。
まだ、ひどく泣いているみたいだ、わたしは。
全身、びしょ濡れで、頬が濡れているのも、涙のせいなのか雨のせいなのか、自分でも全然わからない。
…体中が、痛い。動くと、あちこちの関節がぎしぎしと鳴るみたい。
紗彩の部屋で、しかも、あろうことか、床の上で目が覚める。わたし、あれからどんな状態で寝たんだろう…。
うわああ、うめきたいくらい、頭が痛い。
紗彩が、どこかに電話をかけてるなあって、ぼんやり聞いていたけれど、電話をかけた先は、どうやらわたしの会社らしい。わたしが高熱を出してるって、嘘ついてる。
はあ。毎度毎度、失恋するたびに会社を休むなんて、我ながら、社会人としてどうかと思う。
でも、瞼を持ち上げるのもやっとのことで、体を起こすなんて全くできない。
電話を切って、紗彩がわたしの目が微かに開いていることに気がついたらしく、傍に来た。
「海空、あたし、会社に行くけど、どうする?このまま家で寝ててもいいけど」
そっと、額にほっそりした手のひらを当ててくれる。
気持ちいいなあ。どうして、心を許している人の、こういう仕草って、こんなにわたしを癒してくれるんだろう。
…それにしても、その手をずいぶん冷たく感じる。
「もしかして、わたし、ほんとに熱があるの?」
「もしかして、わたし、ほんとに熱があるの?」
声を出すと、上手く話せないくらい、喉がカサカサしていた。間違いない、風邪引いたな、ってわかるくらい。
「あるね。何度あるかわからないけど、測る必要ないくらい熱いわ。何かあったら携帯に電話しなさいよ」
「うん。紗彩、ありがとう」
そう言うと、紗彩は、ちょっと笑ってくれるけど、彼女は、自分がどれほどわたしを支えてくれているか、わかってくれているだろうか。
また、パニックを起こすんじゃないかって、思った。今度こそ、発狂でもするんじゃないかって。
そんな中で、紗彩のところに来たのは、自己防衛なのかもしれない。
今、この土地で、わたしを、無条件に受け入れてくれる人は、彼女だけになったのだから。
夜になって、食べ物や飲み物をたくさん抱えて紗彩が帰ってきたけれど、まだ動けずにいた。昼間もずっと寝てたのに、まだ熱が下がらないらしい。
「紗彩、わたし、帰りたい」
「はあ?その体調で?」
紗彩が呆れるのも無理はないけど。
祥くんが、自分の家に帰れって言ったもん。なんだか、意固地になっている気がするけど、とにかくアパートの部屋に戻って、誰にも迷惑をかけない空間に籠りたい。
だって、熱を出したわたしがここにいると、紗彩はソファで寝てるんだもん。
「もう、大丈夫。もうすぐ、よくなりそうだから」
不満げな表情を隠すことはないものの、それを口には出さず、紗彩が呼んでくれたタクシーになんとか乗った。
当然と言った顔をして、一緒に隣に乗り込んでくれた紗彩は、結局わたしのアパートに二晩泊まってくれた。
さすがに、11月に入ってからの冷たい雨に打たれたのが堪えたんだろう。紗彩にインフルエンザじゃないかと言われて、病院にも行ってみたけれど、検査の結果は陰性だった。
なかなか下がらなかった熱が、ようやく下がりつつあった3日目の夜、わたしの手紙を読んだらしい母から電話があった。
「すぐ、そっちに行く。明日の朝、行くからね」
わたしのガラガラ声を聞いて、母はすぐそう言った。どうするんだろう、仕事は。
そう思ったくせに、「来なくても大丈夫だよ」って言うことが、できなかった。
お母さん、辛いよ。
喉のところまで出かかった、子どもじみた言葉を、押しとどめるのが、やっとだった。
わたしの電話を聞いていた紗彩は、母が来ると知って、ほっと表情を緩めた。きっと心配をかけていたことだろう。
明日は自分のマンションに帰るけど、またときどき様子を見に来るから、と言い残して、仕事に出て行った。
お昼くらいだろうか。明るい部屋の中、玄関の鍵がかちゃりと静かに回った音が聞こえて、目が覚めた。
「海空」
荷物をたくさん抱えて、母は狭い玄関を体を横向きにしながら入ってくる。
旅行鞄に、紙袋、ビニール袋。がさがさしたその音を聞いていると、母が来た、って実感がわいてくる。
前に、鍵がなくて部屋の前で母を待たせたことがあったから、今は、わたしの部屋の合鍵も持ってもらっている。
「海空、もう大丈夫」
にこにこ笑ってる、いつも通りの緊張感のないその顔を見たら、あっと思う間もなく涙がどばっとわいてきた。
母の前で泣くなんて、いつ以来だろうか。思い出せないけれど、それは何年も前のことだろう。
「お母さん、ありがと」
私が泣いていても、問いただそうとはしない。今は、そうしてくれる、母の気遣いが嬉しい。
別に、手紙に何か特別なことを書いたわけじゃなかった。
仕事の内容が少し変わったこと、前よりは少し料理を作るようになったこと、東京も寒くなってきたこと…、そんな差し障りのないことを書いただけ。
そんな手紙を読んだからって、母が毎回電話を寄越すわけじゃない。今回だって、偶然かもしれない。
偶然でも気まぐれでも勘でも、何でもいい、こうして母が来てくれたことが、わたしの精神を正常な位置に踏みとどまらせてくれるはずだ。
お母さんがアパートのキッチンで作ったお粥は、相変わらず味気なく、どろどろで、もうすぐ煮詰まっちゃうんじゃないかって言う代物だった。
でも、吸うタイプのゼリーしか口にしていなかったせいか、そのお粥を食べて、うとうと眠ると、頭が少しすっきりしたのがわかった。
夕方、すっかり日が落ちてから、珍しくわたしの部屋のチャイムが鳴らされる。
「はぁーい」
と、母がとことこ玄関に出ていくけれど、一体誰だろう。
わたしは、祥くんの家で生活するようになってから、新聞も取ってないかったし、もう集金に来る人もいない。母がここにいるってことは、わたしに荷物を送ってくるような人もいない。
「あ、九条海空さんのお宅、ですよね?わたし、一緒にお仕事をさせていただいております。石原理央です」
あ、ああ!聞き慣れたこの声は、理央さんだ。かれこれ3日も仕事を休んだことになる。
もしかしたら、様子を見に来てくれたのかもしれないし、急ぎの仕事でもあるのかもしれない。
あわてて体を起こすと、やっぱりまだ激しく頭が痛みだした。
よろよろと体を起こして、玄関に向かうときに、ようやく異変に気がついた。母が、無口だ。
いつもならすでに余計なことを、一言二言、言っていそうなものなのに、玄関で立ち尽くしている。
「お母さん?あ、理央さん、すみません。ご迷惑をおかけして」
母の肩を掴むけど、ぼんやりしている。
あわてて、理央さんを中に通すけれど、彼女の後ろに部長さんまで立っていることに気がついて、驚いた。
「部長さんまで!す、すみません。よかったら、どうぞ」
部長さんが、はっとした顔で、わたしを見る。
「あ、いや…、俺は、出張のついでに、君の顔を見に来ただけだから、ここでいいよ。九条さんは…何月生まれ?」
困惑して、「12月です」と答えたものの、なぜ今、誕生月を尋ねられたのか、さっぱりわからない。
答えを聞いて、部長さんは静かな顔に戻り、名刺を出すと、母に差し出した。
「萩原勇哉です。ここに、連絡をいただきたい」
母はこくりと頷いただけだった。もしかして、わたしの風邪、お母さんにうつったかな。
部長さんだけは帰ってしまって、理央さんと、部屋で少し話している間にも、母はちっとも邪魔してこなかった。
「具合、かなり悪そうね。その声といい、顔といい」
「…なんか、顔の具合が悪いって、造りがまずいみたいに聞こえたんですけど」
「ちがうって。顔が赤いんだってば」って理央さんが笑いながら、簡単に仕事の状況を教えてくれる。事前に予約が入っていたお客さんたちも、理央さんが対応してくれたみたいで、安心した。
「ゆっくり休めばいいよ。部長も、ずいぶん心配してたし。出張のついでなんて、嘘だから。わたしが仕事帰りに海空ちゃんの家に寄ってみるって言ったら、わざわざついてきたんだもの。仕事は当分休んじゃえばいいと思うな」
理央さんが、わたしのベッドの傍らでくすくす笑うと、なぜかソファで母が泣きだした。
「え?お、お母さん!?」
それこそ、母はあっけらかんとして能天気な人だから、泣いたところなんて、ほとんど見たことがない。
最後に見たのは、おばあちゃんが亡くなった時だ。
「心配なさってたんじゃない?私も、もう帰るね。お大事に」
理央さんは、そう言って帰って行った。その間も、母は「うぅ」とか言いながら、子どもみたいに泣いてる。
「お母さん、どうしたの」
わたしが重い体を引きずって、ソファの母のところへ行くけれど、母は泣き声で何かぐちゃぐちゃ言うからよくわからない。
「―――#$%&*@―――海空のお父さんなの!!」
はっ!?
最後に、気になる言葉が、はっきり聞き取れて、わたしは目を見開いた。
何よりも、そのことを痛感しただけだ。
実家の母に書いた、返事の手紙を、近くのポストまで行って、投函してきたところだった。帰ってきたら、見慣れた靴と、見慣れない靴があった。
ドキドキしながらリビングに向かった私は、寝室の半開きのドアの前で、足を止めることになったのだった。
目の前で、祥くんが、わたしの見たこともない女の人とキスしてる。
これまで、彼氏に浮気されたんじゃないかって思うことはあっても、その現場に遭遇したことはない。想像しただけでも痛い場面を、実際に目の前で見ているこの衝撃。
ふたりは、しっかり抱き合って、深いキスを、してる。きっと、うっとりするようなやつ。
いつからそうしてたのかわからないけど、ようやく離れ、気配に気づいた女の人が、こちらを見て目を丸くした。
「だ、れ?」
それは、誰だって、びっくり、すると思う。自分のキスシーンを他人に見られたら。
「妹」
こちらを見もしないで、低い声で祥くんが答えた。
イモウト…かぁ…。ふたりでいると、よく間違われたっけ、兄と妹に。全然似てないのにな。
「早く帰れ」
そう言い捨てて、寝室のドアを後ろ手に閉める。最後まで、彼は一度もわたしを見なかった。
今度こそ、本当のさよならだ、ってわかる。祥くんの意思で、わたしは放り出されるのだから。
こんなに傷つけられるのなら、もっと早くに諦めて、ここを出た方がよかったのかもしれない。
彼は、わたしがうやむやな状態のままでは別れられないと気がついたんだろう。昔みたいに、訳が分からず納得がいかないままでは、彼の傍を離れないってことを。
きっと、なかなか自分のアパートに帰らないわたしを見ていて、方法を変えたんだろう。少し距離を置く、って生ぬるいことはやめて、完全に遠ざける、ってきっぱりしたやり方に。
さすがに新しい彼女ができたって言うなら、出ていくしかない。幸くんが言うには、女の子を家に入れることもなかったらしい、祥くん。
こうして、わざわざ彼女を連れてきたのは、わたしに諦めさせるためだとしか思えない。
こうなったら、わたしは、もう、祥くんに言われたとおりの妹になりきって、自分の家に帰るしかない。
祥くんに感謝することが、たくさん、たくさん、ある。でも、もうそれは直接は言えないらしい。
祥くん、もう少しだけ、待ってほしかったな。でも、祥くんから見れば、きっと、十分待ったって言えるくらいの時間が経ったんだろうね。
時折聞こえる、寝室からの彼女の声に、耳が汚されていくみたいだ。耳だけじゃなくて、それはわたしの精神もさらに蝕む。
夢中で、残りの自分の荷物をかき集めて、旅行鞄に押し込んだ。
買ってもらった服がたくさん、寝室の隣の部屋のクローゼットにあるけれど、それは祥くんが処分すればいい。
最後まで意地悪だった祥くんも、そのときくらい、少しは胸を痛めればいい。
震える指先で書いたメモは、やっぱり字も震えていた。
お兄ちゃん
ありがとう。幸せでした。
今度は、お兄ちゃんが幸せになって。
妹
その走り書きのようなメモを、どこに置いたのかもわからない状態で、靴だけはきちんと履いていた。
外に出ると、いつの間にか大雨になっていたけれど、傘を持ってくる余裕はなかった。
今度こそ、本当に頭がおかしくなりそうだった。
大勢の人がいる電車に乗れる気がしなくて、道でタクシーを拾った。運転手さんの視線も気にならないくらい、大声でわめきながら泣いた。
気がついたら、自分のアパートじゃなくて、紗彩のマンションのドアの前にいた。
しばらく、会いたいのに会えない状況が続いていたから、無意識のうちにここに来てしまったらしい。
「なに、やってん、の……」
日曜日の夜だから、さすがに自宅にいたらしい。紗彩が、綺麗な目を見開いて、わたしを凝視しているのに、まともにしゃべれなくて、変な悲鳴が漏れる。
まだ、ひどく泣いているみたいだ、わたしは。
全身、びしょ濡れで、頬が濡れているのも、涙のせいなのか雨のせいなのか、自分でも全然わからない。
…体中が、痛い。動くと、あちこちの関節がぎしぎしと鳴るみたい。
紗彩の部屋で、しかも、あろうことか、床の上で目が覚める。わたし、あれからどんな状態で寝たんだろう…。
うわああ、うめきたいくらい、頭が痛い。
紗彩が、どこかに電話をかけてるなあって、ぼんやり聞いていたけれど、電話をかけた先は、どうやらわたしの会社らしい。わたしが高熱を出してるって、嘘ついてる。
はあ。毎度毎度、失恋するたびに会社を休むなんて、我ながら、社会人としてどうかと思う。
でも、瞼を持ち上げるのもやっとのことで、体を起こすなんて全くできない。
電話を切って、紗彩がわたしの目が微かに開いていることに気がついたらしく、傍に来た。
「海空、あたし、会社に行くけど、どうする?このまま家で寝ててもいいけど」
そっと、額にほっそりした手のひらを当ててくれる。
気持ちいいなあ。どうして、心を許している人の、こういう仕草って、こんなにわたしを癒してくれるんだろう。
…それにしても、その手をずいぶん冷たく感じる。
「もしかして、わたし、ほんとに熱があるの?」
「もしかして、わたし、ほんとに熱があるの?」
声を出すと、上手く話せないくらい、喉がカサカサしていた。間違いない、風邪引いたな、ってわかるくらい。
「あるね。何度あるかわからないけど、測る必要ないくらい熱いわ。何かあったら携帯に電話しなさいよ」
「うん。紗彩、ありがとう」
そう言うと、紗彩は、ちょっと笑ってくれるけど、彼女は、自分がどれほどわたしを支えてくれているか、わかってくれているだろうか。
また、パニックを起こすんじゃないかって、思った。今度こそ、発狂でもするんじゃないかって。
そんな中で、紗彩のところに来たのは、自己防衛なのかもしれない。
今、この土地で、わたしを、無条件に受け入れてくれる人は、彼女だけになったのだから。
夜になって、食べ物や飲み物をたくさん抱えて紗彩が帰ってきたけれど、まだ動けずにいた。昼間もずっと寝てたのに、まだ熱が下がらないらしい。
「紗彩、わたし、帰りたい」
「はあ?その体調で?」
紗彩が呆れるのも無理はないけど。
祥くんが、自分の家に帰れって言ったもん。なんだか、意固地になっている気がするけど、とにかくアパートの部屋に戻って、誰にも迷惑をかけない空間に籠りたい。
だって、熱を出したわたしがここにいると、紗彩はソファで寝てるんだもん。
「もう、大丈夫。もうすぐ、よくなりそうだから」
不満げな表情を隠すことはないものの、それを口には出さず、紗彩が呼んでくれたタクシーになんとか乗った。
当然と言った顔をして、一緒に隣に乗り込んでくれた紗彩は、結局わたしのアパートに二晩泊まってくれた。
さすがに、11月に入ってからの冷たい雨に打たれたのが堪えたんだろう。紗彩にインフルエンザじゃないかと言われて、病院にも行ってみたけれど、検査の結果は陰性だった。
なかなか下がらなかった熱が、ようやく下がりつつあった3日目の夜、わたしの手紙を読んだらしい母から電話があった。
「すぐ、そっちに行く。明日の朝、行くからね」
わたしのガラガラ声を聞いて、母はすぐそう言った。どうするんだろう、仕事は。
そう思ったくせに、「来なくても大丈夫だよ」って言うことが、できなかった。
お母さん、辛いよ。
喉のところまで出かかった、子どもじみた言葉を、押しとどめるのが、やっとだった。
わたしの電話を聞いていた紗彩は、母が来ると知って、ほっと表情を緩めた。きっと心配をかけていたことだろう。
明日は自分のマンションに帰るけど、またときどき様子を見に来るから、と言い残して、仕事に出て行った。
お昼くらいだろうか。明るい部屋の中、玄関の鍵がかちゃりと静かに回った音が聞こえて、目が覚めた。
「海空」
荷物をたくさん抱えて、母は狭い玄関を体を横向きにしながら入ってくる。
旅行鞄に、紙袋、ビニール袋。がさがさしたその音を聞いていると、母が来た、って実感がわいてくる。
前に、鍵がなくて部屋の前で母を待たせたことがあったから、今は、わたしの部屋の合鍵も持ってもらっている。
「海空、もう大丈夫」
にこにこ笑ってる、いつも通りの緊張感のないその顔を見たら、あっと思う間もなく涙がどばっとわいてきた。
母の前で泣くなんて、いつ以来だろうか。思い出せないけれど、それは何年も前のことだろう。
「お母さん、ありがと」
私が泣いていても、問いただそうとはしない。今は、そうしてくれる、母の気遣いが嬉しい。
別に、手紙に何か特別なことを書いたわけじゃなかった。
仕事の内容が少し変わったこと、前よりは少し料理を作るようになったこと、東京も寒くなってきたこと…、そんな差し障りのないことを書いただけ。
そんな手紙を読んだからって、母が毎回電話を寄越すわけじゃない。今回だって、偶然かもしれない。
偶然でも気まぐれでも勘でも、何でもいい、こうして母が来てくれたことが、わたしの精神を正常な位置に踏みとどまらせてくれるはずだ。
お母さんがアパートのキッチンで作ったお粥は、相変わらず味気なく、どろどろで、もうすぐ煮詰まっちゃうんじゃないかって言う代物だった。
でも、吸うタイプのゼリーしか口にしていなかったせいか、そのお粥を食べて、うとうと眠ると、頭が少しすっきりしたのがわかった。
夕方、すっかり日が落ちてから、珍しくわたしの部屋のチャイムが鳴らされる。
「はぁーい」
と、母がとことこ玄関に出ていくけれど、一体誰だろう。
わたしは、祥くんの家で生活するようになってから、新聞も取ってないかったし、もう集金に来る人もいない。母がここにいるってことは、わたしに荷物を送ってくるような人もいない。
「あ、九条海空さんのお宅、ですよね?わたし、一緒にお仕事をさせていただいております。石原理央です」
あ、ああ!聞き慣れたこの声は、理央さんだ。かれこれ3日も仕事を休んだことになる。
もしかしたら、様子を見に来てくれたのかもしれないし、急ぎの仕事でもあるのかもしれない。
あわてて体を起こすと、やっぱりまだ激しく頭が痛みだした。
よろよろと体を起こして、玄関に向かうときに、ようやく異変に気がついた。母が、無口だ。
いつもならすでに余計なことを、一言二言、言っていそうなものなのに、玄関で立ち尽くしている。
「お母さん?あ、理央さん、すみません。ご迷惑をおかけして」
母の肩を掴むけど、ぼんやりしている。
あわてて、理央さんを中に通すけれど、彼女の後ろに部長さんまで立っていることに気がついて、驚いた。
「部長さんまで!す、すみません。よかったら、どうぞ」
部長さんが、はっとした顔で、わたしを見る。
「あ、いや…、俺は、出張のついでに、君の顔を見に来ただけだから、ここでいいよ。九条さんは…何月生まれ?」
困惑して、「12月です」と答えたものの、なぜ今、誕生月を尋ねられたのか、さっぱりわからない。
答えを聞いて、部長さんは静かな顔に戻り、名刺を出すと、母に差し出した。
「萩原勇哉です。ここに、連絡をいただきたい」
母はこくりと頷いただけだった。もしかして、わたしの風邪、お母さんにうつったかな。
部長さんだけは帰ってしまって、理央さんと、部屋で少し話している間にも、母はちっとも邪魔してこなかった。
「具合、かなり悪そうね。その声といい、顔といい」
「…なんか、顔の具合が悪いって、造りがまずいみたいに聞こえたんですけど」
「ちがうって。顔が赤いんだってば」って理央さんが笑いながら、簡単に仕事の状況を教えてくれる。事前に予約が入っていたお客さんたちも、理央さんが対応してくれたみたいで、安心した。
「ゆっくり休めばいいよ。部長も、ずいぶん心配してたし。出張のついでなんて、嘘だから。わたしが仕事帰りに海空ちゃんの家に寄ってみるって言ったら、わざわざついてきたんだもの。仕事は当分休んじゃえばいいと思うな」
理央さんが、わたしのベッドの傍らでくすくす笑うと、なぜかソファで母が泣きだした。
「え?お、お母さん!?」
それこそ、母はあっけらかんとして能天気な人だから、泣いたところなんて、ほとんど見たことがない。
最後に見たのは、おばあちゃんが亡くなった時だ。
「心配なさってたんじゃない?私も、もう帰るね。お大事に」
理央さんは、そう言って帰って行った。その間も、母は「うぅ」とか言いながら、子どもみたいに泣いてる。
「お母さん、どうしたの」
わたしが重い体を引きずって、ソファの母のところへ行くけれど、母は泣き声で何かぐちゃぐちゃ言うからよくわからない。
「―――#$%&*@―――海空のお父さんなの!!」
はっ!?
最後に、気になる言葉が、はっきり聞き取れて、わたしは目を見開いた。