結婚したいから!
ひとりでどこまでも自己探求を

ルーツは父と母


「部長さんが、わたしの、お父さん……?」


声に出してみても、現実味が全くない話だ。


あれから、とぎれとぎれになりながらも、なんとかそう言って、ようやく涙が止まった母。まだ真っ赤な目をしながら、うんうんと頷いている。

にわかには信じがたいことだけど、尋常でない母の様子と、違和感のある部長さんの様子とを考え合わせれば、それは事実なのだろう。


だとしたら、なんて偶然だろう。

母は、一度会っただけの父に、それきり会っていなかったはずだ。

その父と、わたしが一緒に仕事をしていたなんて。


「電話、してみたら」


わたしがそう言うと、母は静かに首を横に振るのだ。部長さんは、確かに、連絡が欲しいと言って名刺を渡していたはずだ。

あのときは、わたしの体調に異常があれば、ってことかと思ったけれど、思い返してみるとそうじゃなさそうなのに。
「結婚してるでしょう」


ああ、そういうわけか、って、意外と女らしい発想をしている母に、驚く。

あの僅かな時間に、部長さんの左手の薬指を、意識して見た、ってことだ。

「あの指輪はね、偽物だよ。部長さんモテるから、独身なのに結婚指輪をしてる」

母が、不思議そうに首をかしげた。

「独身なのに、変でしょう。モテたら、かえって都合がいいもんね。でも、本人が言うには、困るんだって」

きっと、母だって変だと思っているはずだ。引きこまれるように、わたしの瞳を凝視している。


「初恋の人が、忘れられないからだって聞いたよ」


それは、お母さんのことでしょ。心の中で、そう付け足す。


わかりやすく真っ赤になって、ぽろぽろと涙をこぼす母は、今は本当に少女のように見えた。「もう少しね。ひょっとすると、明日には良くなるかも」

母が、柔らかい手を私の額から離す。まだ熱は下がりきらないものの、高くはない。

「もう大丈夫。お母さん、帰るけど、辛いときは海空からも電話して」

ベッドから起き上がらずに、こくんと頷いた。


母は、明日の昼から仕事に出なければならないらしい。今日の夜の便で、札幌に戻る。

心細くないと言えば嘘になるけれど、今回母が家に来てくれたことは、わたしたちにとって大きな出来事となった。

父が誰かってことがわかったし、わたし自身も壊れずに済んだし。


ピンポン、と聞き慣れた音がする。母は一瞬私の顔を見たけれど、旅行鞄を持ったまま、玄関に向かった。

かすかに人の話し声がした。母が、すぐに戻ってきたけれど、その顔のわかりやすかったこと。


「お、お父さんが、空港まで送って、くれるって」


…噛んでるし。顔赤いし。

たぶん、昨日、わたしが寝た後にでも、母が電話をしたんだと思う。今朝はやけにすっきりした顔をしていた。

部長さんが、タイミング良く来たのも、母が乗る飛行機の時間を聞いていたんだろう。わたしも、ちょっと緊張しながら、ベッドを出た。

昨日ほどふらつかなくなった体に、ほっとしつつ、玄関に向かうと、部長さんの照れくさそうな顔が、そこにあった。


「ごめん、急に。あ…、いろいろと、君にも、謝らなければならない」


珍しく緊張した顔になって行く部長さんを見ていると、わたしの方はなぜか少し力が抜けてきた。

この人が、わたしの、お父さんなのかぁ…。もしかしたら、どこか、似てるところもあるのかな?

一生会うことのない人だと思っていた人が、目の前にいる、いや、すでに目の前にいたのだと思うと、やっぱり不思議。


「あの…、よかったら、仕事中じゃない時には、海空って呼んでください」


部長さんが、はっとした顔で、わたしを見つめる。仕事中には見たことのないような、まなざしで。

口下手すぎる母のせいで、詳しい事情がわからないけれど、母は、父のことを、一度も悪く言ったことはない。

おそらく、母が子どもを産んだことすら知らなかったはずだ。

実際には、わたしに謝るようなことなんて、ひとつもないに違いない。「これからも、よろしくお願いします、お父さん」


頭を下げて、顔をあげてみると、部長さんが顔を赤くしたのを、初めて見た。

母は、目も頬も赤くしたままで、部長さんの車の助手席に乗り込んで、帰って行った。

26年ぶりに会って、何を話すんだろう、って想像すると、なんだか微笑ましい。

それにしても、そんな長い年月が経っていて、お互いに年を取っていただろうに、よくわかったなあ、って感心したりする。面影とか、残ってるのかな。

母の若い頃の写真を見たときには、「若い!!」ってびっくりした気がするから、結構変わってると思うんだけどな。


それだけ、お互いを思う気持ちが強かったんだろうか。


だとしたら、いいな。
まだ熱があったけれど、全身がべたべたするのがたまらず、シャワーを浴びて、ベッドのシーツまで取り換えた。この数日、ほとんどをベッドの中で暮らしていたから、すごい量の汗を吸っているはずだ。

取り換えたところまではいいけれど、汚れたシーツを洗濯機に放り込んだだけ。

無理に体を洗ったせいか、ぐったり疲れて、そのまま、またベッドに沈んでしまった。


ピンポンの音とともに、ガンガンと玄関のドアが激しく叩かれていることで、無理に意識が引き戻されて、心臓がバクバクした。

あ、わたし、寝てたのか…。


それにしても、この激しい叩き方、誰だろう、って怖いけど、わたしの古いアパートの覗き窓からは、外の様子なんて、ほとんど見えない。

仕方なく、ドアチェーンをかけたまま、薄くドアを開くと、泣き顔の紗彩が見えた。

「海空、海空のあほ!!」

「え、ええええ!?」

いきなり罵られてびっくり。出にくい声を絞り出したら、マスクの中で盛大にむせてしまった。

なんとかチェーンを外して、彼女を部屋に入れると、今度は抱きつかれてしまって、さらにびっくりした。「な、なに、どうしたの…」

ぎゅうっと締め付けんばかりに抱きつきながら、紗彩が「生きてた」って囁いた気がして、ドキッとした。

心配、してたんだ、わたしのこと。


見ないふりをしている胸の傷に意識が向かいそうになったその時、ごっちんと信じられない力で、頭を殴られて、くらくらした。

「バカ!携帯の電源くらい入れときなさいよ!!」

「あ、ああ……」

い、痛くて、返事もできないんですけど。

ええっと、携帯、携帯。どこにあるか考えてみる。

「あ、たぶん、あれから一度も充電してないからね……」

「今すぐ充電しろ!!」

うわーん、紗彩が怖い。

のろのろと病身に鞭打って、携帯電話を鞄から出すと、確かにディスプレイは真っ暗だった。充電器において、通電する。


そのとき、どうしても、どうしても、彼の顔を思い出すことを止められなかった。
あの、わたしとの決別の仕方や、彼の性格を考えれば、連絡があるはずもないのに。

でもきっと、着信もメールもなければ、わたしはひとりで勝手に傷つくんだろうと思ったら、この電話は永久に眠っていてくれた方がいいような気もして。

紗彩がいなかったら、このまま、解約しちゃったかも。いや、今からでも、解約しに…。


ピンポン、とまたチャイムが鳴って、今日はなんて珍しい日だろう、って思う。呼んでもないのにこんなにたくさんの人が来ることって、滅多にない。

「ふぁい」

マスクの中で、もごもご言いながら、ちょっとだけドアを開けると、これまた珍しいお客様だった。


「あれ、結城さん?」


「ああ、風邪!?そっか、よかった!急に来てごめん。携帯、ほら、全然つながらないし」

「……すみません」

どうやら、あの電話が眠ったままであることにより、わたしの家にはお客様が集まってきているらしい。

嫌でも何でも、とりあえず、復活させた方がいいらしい。

「電源入れといたよー」って、紗彩の声がして、はあ、ってため息を吐く。

わざと切っておいたのに、紗彩め。
「あ、ああ、上がります?友達もいるんで」

「いや、いい。もう帰る」

「お茶くらいしか…、あっ、お茶さえないんだった」

良く考えたら、恋する少女に戻ってしまった母も、慌ててかけつけた紗彩も、わたしに水ひとつ持ってきてくれなかったっけ。

「俺、買ってくるよ」

「あっ、い、いや、そういうわけじゃあ…」

「いいって」

「は、はあ…、すみま、せん」

くすくす笑いながら、結城さんは、廊下を歩いて行ってしまった。

あの人、本当はどういう人なんだろう?春に会ったときと、ボロボロのスーパーで会ったときと、どっちが本物?

あ、それに、くだらない内容のメールを作成中は、どんな顔してるんだろう?


「海空、誰だったの」

紗彩が、様子を見に来た。「結城さん」

「は?なにしに来たのよ」

「紗彩とおんなじ理由で」

そう言うと、不審そうだった彼女の表情が固まるから、おもしろい。

「ふたりって、もしかして、似てるのかもね?」

追い打ちをかけると、紗彩は慌てて「似てるはずないでしょう!」と言いながら、怖い顔を作った。


わたし、生きていけそう。

心配してくれる人がいるから。お母さん、部長さ、いや、お父さん、理央さん、紗彩、結城さん。

紗彩の恐れていた通り、死にたいって思ってたわけじゃない。でも、胸に負った深い傷のあたりに、「死んじゃえばいいんだろうなあ」って言葉がぷかりぷかりと浮かんでいた。
だからって、包丁を握りしめたり、大量の薬を用意したり、なにか具体的な行動をとったことはなかった。

だいたい、すぐに寝込んでしまってそんなことする元気もなかったし、思いもよらないことにお父さんが誰かわかったりしたし、次々と人がやってくるしで、体力も時間もない。


神様って、いるんだなぁ、なんて思う。


母と父を引き合わせてくれて。わたしが一番つらいときには、誰かが傍にいてくれるようにはからってくれて。

ベッドに入って、そんなことを考えた。紗彩が傍にいてくれるせいか、思い出したくないことは思い出さなくて済む。

起きてうろうろしていたせいか、またうとうと寝ていたみたい。


「もう会うなって言ったでしょう」


紗彩のきつい声が聞こえてきて、ドキッとした。なんか、怒ってるみたい。玄関先から、声が響いてくる。「女癖の悪い男なんか、海空に近づくと困るの、特に今は」

わ、わたしのこと?

「それは、君の勘違い。俺は女癖も悪くないし、海空に邪念も持ってないし」

わあ!結城さんの声だ。本当に飲み物を買って、戻ってきてくれたんだ。わ、わたしが寝てたせいで、なんだか、修羅場?

「はあ!?どこが勘違い!?クラブの女とキスしてたでしょ!」

「あれは彼女なりの営業活動。あれで売り上げが伸びれば安いものなんだって」

「嘘!嘘!そんな女の子が世の中に存在するなんて、信じられない!!」

「彼女たちにとっては、恋愛も仕事のうちなんだよ、お子様。視野が狭いね」

「は!?誰に言ってんのよ」

「病人の家で大騒ぎしてる君に」
「もう!むっかつく男!!とにかく、海空に近づくな!!帰れ!!」

「うるさいな。俺は海空と友達になりたいだけだってば」

「気安く海空って呼ぶな!!」

「だって、九条って雰囲気じゃない気がする」

おそるおそる覗いていたのに、途中からおかしくなって、くすくす笑ってしまっていた。

だって、あの紗彩が言い合って、勝てないんだもん。きいきい言って怒ってるところをみると、年相応で、可愛らしく見える。

それに、結城さんのイメージもなんだかよくなった。

雪女さんは、恋愛も仕事のうちかあ、業種は違えども、わたしはそれに失敗したっけ。そういう世界で頑張ってる女の人もたくさんいるんだな。

それに、友達になりたい、ってところには、なんだか久しぶりに心が震えた気がする。

わたしも、結城さんとは、友達になれそうな気がする。今なら。

「紗彩、わたしも、結城さんと友達になりたい」

ガラガラの声でそう言うと、紗彩がやっと私の存在に気がついて、振り返った。ちょっと気色ばんだその顔を見ると、また笑いがこみあげてくる。
「紗彩と結城さんの組み合わせを見てると、楽しいよ、わたし」

紗彩の目が、潤んだのは、気のせいじゃない。

「じゃあ、晃一って呼んで。紗彩も」

紗彩とは対照的に、全く力の入っていない様子で、「晃一」は紗彩の頭にぽんと手を乗せる。

「ちょっ、馴れ馴れしい!ぜったい呼ばないから!こら、結城、女の子の部屋に気軽に入るな!」

「嫌らしいこと考えるなよ、紗彩。晩飯食わしてもらったら、すぐ仕事に戻るから」

「嫌らしいことなんか考えてない!常識でしょー!?ちょっと、海空、なんとか言って!!」

「え、わ、わたし?ん?賑やかで楽しいよ?」

本当に、紗彩と晃一は、いいコンビかも。くすくす笑うと、今度はそのふたりが同時にわたしに「バカ」って言う。

あれ、なんで?あ、心配してたから、ほっとしたんだったりして?

なんでもいい。こうして、ふたりが言い合っていてくれたら、変なこと考えないで済みそう。

わたし、もう倒れないで、やっていけそう。
晃一がお弁当を食べて、紗彩がプリンを食べて、わたしがゼリーを飲んで、ちょっと落ち着いたころ。

紗彩がわたしの表情を見ながら、こう切り出した。

「海空、携帯の着信、整理した方がいいかも。あたし、ストーカー並みに連絡入れちゃったし」

「あ、俺もだ」

「…わかった」

口ではそう言いながら、後でやったほうがいいかも、って思ってる。でも、紗彩はいつまでも、わたしから視線を外さない。

たぶん、自分がいるうちに、やって欲しいんだろうな。

紗彩の家で大泣きした時、祥くんが何の連絡もくれないってわめいた気もする。


元々電話だのメールだのってあんまりマメな人でもなかったし、あんな別れ方を選んだのに連絡があるはずないってわかってるのに、それでも悲しかったのはどうしてだろう。

あの時すでに充電が切れてたんだとしたら、馬鹿みたい。あの大騒ぎをもう一度、繰り返すなんて、嫌だなあ。

だいたい、今考えてみると、連絡もなしに部長さんと理央さんが家に来るのも変だし、ずっと電池切れだった可能性が高いもの。
履歴の中に、祥くんの名前を、どうしたって、探しちゃうんだろうなぁ。

まだ、携帯電話に手も触れていないのに、泣きそうで困る。

充電が終わってもないのに、紗彩が痺れを切らして、携帯電話をわたしの手に持たせる。

あ、いつもよりずいぶん重い気がする。風邪で体力が落ちたから、っていうわけじゃないんだろうな。

仕方なくディスプレイの画面を起こして、確認する。

ぶっ。紗彩と、晃一の、メールや着信の多さに思わず噴き出した。

「ありがと。ふたりとも、心配してくれて」

今更だけど、今日からさかのぼりながら、一通一通嬉しい気持ちで開いて読んで行く。


でも、途中でふと、指が止まって、動かなくなってしまった。


From 平河祥生
Sub. 無題
本文 お前こそ幸せになれよ

ごめんとか、ありがとうとか、ないんだろうかって思う。

いや、でもきっと、ないんだろう。祥くんは、いつでも、わたしにとって最善だと思う方法や手段を優先に選んできたのだから。

ごめんとありがとうを言うべきなのは、いつもわたしの方。


愛されていたはずだって、思う。そんなこと、一度も言ってくれなかったけど。

似合わないよ、「幸せになれ」なんて文面、祥くんには。なのに、わざわざ、送ってくれたんだね。どんな顔して、送信ボタンを押したんだろう。


さっきまで笑っていたわたしが、号泣するのに、紗彩も晃一も、何も言わなかった。

次の日の金曜日、本当に、わたしの熱は完全に下がった。母の予言通り。看護師として、というよりは、母親としての予感のような気がする。

午前中横になっていると、頭痛やめまいもずいぶん楽になった。

昨日、晃一にもらった飲み物や、アイスクリームを口にすると、久しぶりに、美味しいという感覚を感じた気がした。

体が楽になってくると、かえって思い出してしまうのは、彼のこと。


元気に、してるんだろうか。


わたしにあれだけひどいことをしておいて、自分だけ無傷ってこともない気がする。

相変わらず、寝起きがよくて朝ごはんも自分で作って食べてるのかな。よくわからない難しそうな業界誌を読んでるのかな。今頃、会社で幸くんと一緒に、仕事してるんだろうな。

考え始めると、あらゆるものから、祥くんを連想してしまって、こめかみがずっきんずっきんと熱く疼きだす。


そっか。生活を共にするって言うのは、こういうことだ。一緒に暮らすと、同じ時間を長く共有しているから、さらに多くのきっかけから、その人のことを思い出す羽目になる。
こめかみを、爪を立てるくらい強く押さえるのに、痛みが消えない。

わたしは、また、掃除を始める。昨日、洗濯機に放り込んだままだったシーツを洗って、部屋を片付け、掃除機をかける。

だめだ、まだすっきりしない。床を必死で拭いていると、ぽつりと赤いものが、落ちた。


噛みしめた唇が、切れたらしかった。

どのくらい、こうして、歯や唇を噛みしめればいいんだろう。部屋中を磨きあげればいいんだろう。

わたしが、祥くんを失った痛みに、耐えられるようになるまでに。

永久に、彼を忘れることはないと思う。だから、せめて、その不在に伴う痛みに、負けてしまいませんように。


ただ、ひたすら、それを祈るだけ。
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