結婚したいから!
あれからも、ときどき、紗彩と晃一が、わたしを訪ねて来てくれるのは、まだまだわたしが、あの痛みに負けそうに見えるんだろう。

早く、この痛みに慣れるといいのに。そう思うけれど、その日はなかなか来ない。

週末を経て、仕事に出るようになったけれど、相変わらず成績はふるわない。部長さんや理央さんの心配顔も、同僚の戸惑い顔も、同期の嫌味も、認識し切れていない。

毎日、お客さんの話を聞くだけで精いっぱいだった。

お腹もすかない。したいこともない。行きたいところもない。眠れないくせに、ベッドにゴロゴロするだけの毎日。


「紗彩、晃一って呼んでみて」

「…晃一」

「なんか、結城って呼ぶとき以上に、偉そうなんだけど!威圧感をひしひしと感じるんだけど、なんで?」

「はっきりとした意志を持って、あんたを威嚇してるから」

「え、まだ警戒されてんのか、俺」

予告なくこのふたりがよく現れるようになったのは、わたしのためだと思う。わたしの部屋に来たって、いつもこんなふうにどうでもいい話しかしてないけど、その会話を聞いているだけでおもしろい。
わたしがベッドに寝たままでも、ふたりは何も言わずにいてくれる。

「ミクも、晃一って呼んでみて」

「コーイチ」

「なんで、片言?」

「…ちょっと緊張した」

「へえ?」

「わたし、お父さんも男兄弟もいないし、男の人の名前を呼んだことがないから」

「でも」

「クラスメイトも、彼氏も、ないよ」

「ふーん、珍しいね」

「そうかな」

名前を呼ぶとしても、呼び捨てにした人はいない。ちゃんとか、くんとか、何かつけて、できるだけ自然に聞こえるように気をつけてた。何でかは、自分でもよくわからない。
「ふたりとも、アルコールは大丈夫だろ?」

「まあ、それなりに」

コーイチの問いに紗彩が答える。彼女は仕事の付き合いもあるし、かなり飲める。でも、わたしはそんな機会もないから、そこそこだ。ふたりを総合して、「それなり」だと答えたんだろう。

「じゃあ、今度は外で飲もう」

「なんで結城と飲まなきゃいけないのよ」

「俺、ミクと親友になりたいから」

「…明らかに、あたし、いらないじゃん。ふたりで行けば」

「ふたりで行ったら、嫌らしい紗彩が邪推するから嫌だ」

「嫌らしくないってば!!なに、あたしただの監視役!?ほんっと嫌な奴。結城って、絶対モテないよね!」

「…うるさいな」

「あ、何、その間、図星?だから、30過ぎても独身なんだ?」

「うるさい」

「へえ…、いいネタ、みっけ」

おっと、形勢逆転。わたしのよく知っている、強気の紗彩が復活した瞬間だった。
それにしても、紗彩とコーイチって、前から知り合いだったんじゃないかって思う。いつも一見喧嘩してるみたいな会話だけど、テンポも反応もいいし、どう考えても相性がいい。

紗彩だって、いつの間にか、コーイチが名前を呼んでも、怒らなくなっている。


「ふふ。行く。わたし、紗彩とコーイチとお酒飲みに、行ってみたい」


久しぶりに、出かけたい、って気持ちになった。このふたりの掛け合いを聞いていれば、きっと、楽しい気持ちになると思う。

あの、痛みにも、我慢が出来ると思う。勤労感謝の日だから、休みでしょ、って電話で紗彩に言われて、びっくりする。もう11月が下旬に差し掛かっているってことも、実感がなかった。

この頃、会社帰りに体がやけに冷えると思った。ずいぶん痩せたせいかと思ってた。

もう少し厚手のジャケットを出すか、コートを出すか、って考えながら、紗彩の話を聞く。

今日は、紗彩とコーイチとわたし、3人の予定が合うから、また飲もうって話だった。たぶん、紗彩かコーイチのどちらかの仕事が、急に休みになったんだろう。わたしと違って、ふたりは忙しい。

あれから、ときどき、3人で飲みに行っている。それは、わたしの今の生活の中で、貴重な時間だ。

何も考えず、かといって、考えないように努力する必要もなくて、ただ楽しい。食べ物が、少しは喉を通って、あとでトイレで吐いたりしなくてもいい。


ふたりに会えると思うと、少し、気持ちが明るくなって、アレを、片づけようかって思いついた。

アレっていうのは、クローゼットの一番上の段に放り込んだままだった、旅行鞄。

祥くんの家から、最後に持ってきた荷物だ。

すぐに使う化粧品や着替えは出したものの、動悸がして気分が悪くなりそうだったから、片づけ損なっている。あれ、片づけなくちゃ。あとひと月もすると、年末が来て、また実家に帰るかもしれない。そのときには、あの鞄を使わないといけないから。

踏み台に上って、投げ込んだ形のままの鞄を引っ張りだした。

ジッパーを引いて開けるけれど、大したものはなさそう。タオル、メモ帳、レシート、なにかのパンフレット。

かなり動揺してたんだろうな。手当たり次第に放り込んだって感じだ。

…わたしのものじゃなさそうなものも入っていて、呼吸が苦しくなってくる。

普通なら、簡単に捨ててしまうレシートが、とても貴重なものに思えて、震える両手で包む。


祥くん、どうしてるんだろう。


まだ、ときどきはこのレシートを貰った、あの古びたスーパーにも行ってるのかな。泣いてばかりだったわたしが笑うんだったら、似合わないレジかごも持ってくれるって言ってたな。


どうしても、優しい人だったとしか、思えない。何を思い出しても。
祥くんが、女の人とキスしてるのを見たのは、確かにショックだったけど、あれさえも、彼なりの優しさだったような気が、今ではする。

彼自身の決意の強さを思わせる。わたしを突き離して、わたしが祥くんを憎むくらいの強い気持ちを持てるように、とか考えてないだろうか。

紗彩がそう思ったように、祥くんが、わたしが死んじゃうんじゃないかって考えないはずがない。そのくらい、わたしの中で、祥くんの存在は大きかった。


その喪失感には、まだ慣れることができない。


なんだろう、これ。

何気なく目についた紙を手に取ってみる。折りたたまれた一枚の薄い紙に、びっしりと文字が透けて見える。ところどころ上から書き直した、ボールペンの字が並んでいる。

紙を開くけれど、見慣れない筆跡…。


でも、初めの一行を読んだだけで、誰が書いたものか、わかった。
祥生をお願いします。

あの子は、ひとりになるかもしれない。ひとりになっても、泣きもしないで、強がって生きていくかもしれない。

私には、それが幸せなこととは思えません。あなたに頼り切って、結局は自分を保てなかった私が言うのも変ですが。

苦しいこともあるけれど、愛する家族と暮らす喜びは、何にも代えがたいことです。それを、あの子から奪ってしまったのは、弱かったわたしです。

今だから、はっきりと言えますが、あなたと暮らした日々は、私にとって、人生で最良の日々です。

だから、こんなふうに死ぬ間際にでも、一目あなたに会えて、幸せでした。今では憑き物が落ちたかのように、あなただけを見ることができます。

あのとき、どうして私は、あなたの言葉を信じ切れなかったのでしょう。

もうこれでおしまいなのだと思うと、澄んだ目で物事が見られるようになった気がします。
祥生にも、無条件に安心できる誰かが必要です。それは、ひとりでなくてもいいのです。あなた、幼馴染の海空ちゃん、それに東京でできた友人もいるかもしれません。

でも、あなたもよくわかっていることとは思いますが、人との関係は変わりやすいものです。

いつか、祥生がひとりぼっちになったとき、あなたのことを思い出せるように。父と子の関係は、決してなかったことにはならないのだから。

それに、あなたたちはよく似ている。黙ったままで、自分の意思を通すところとか。

きっと、そのうちに理解しあえるようになると思います。

今更、こんなことを押し付けてすみません。でも、もう動くこともままならない私は、あなたに頼むよりほかにないのです。

愛するあなたの息子です。会いに行ってやってください。
「女って、腹の底では何を考えてるのかわからねえから。

こっちがよくわかってるつもりでも、本当のところは全然わかってなくて、いつの間にか口にも出さないような奴のことばかり考えてたりする」

おばさんからの手紙を読み終えて、すぐに浮かんだのは、いつか祥くんがわたしにこぼした謎々のような言葉だった。

「女」って言うから、恋人か何かだと思い込んでたけど、母親であるおばさんのことを言ってたんじゃないか。


わたしがリビングの引き出しからかき集めて持ってきてしまったこの手紙を、祥くんはどういう気持ちで読んだだろうって思うと、あの台詞が思い当たった。


おじさんが、ああやって、突然祥くんのマンションにやってきたってことは、おばさんが清書した手紙を受け取った証拠だろう。

あの短く、寂しい親子の再会には、こんな意味があったんだ。

たぶん、絶縁状態にあったおじさんとおばさんが、ひそかに連絡を取って会っていた、ということが、祥くんにとってはかなりショックだったんだと思う。
あのマンションで、一番日当たりがいい一室を、おばさんのために空けていた祥くん。綺麗に梱包した荷物も、クローゼットに入れてあったっけ。

あの性格だから、何かとおばさんを守りたいと、不器用ながら、頑張り続けてたに違いない。

だから、最後の最後に、おじさんに会ったおばさんに、裏切られたような気持ちにもなったのかもしれない。

もしかしたら、おばさんが北海道を離れようとしなかったのは、おじさんの傍にいたかったからかもしれない。

「今更、のこのこ出てくることに、一番腹が立つ」って言った祥くんに、違和感を持ったけど、あのときは、おばさんの精神が危ないときに離れておいて、いよいよ亡くなると言うタイミングで現れたおじさんに怒りを感じてたのかもしれない。

あれこれ考えてみるけれど、全部、全部、わたしの頭の中だけの推測にすぎない。

よく知っているつもりだった祥くんの性格を考えて、こう思うんじゃないかって、想像してみるだけだ。

もう、悔しい気持ちを噛みしめながら、直接、気持ちを尋ねてみることだって、できないのだから。


「ひとりになっても、泣きもしないで、強がって生きていくかもしれない」

この一文が、胸に痛い。

わたしがパニックを起こした夜、祥くんが泣きそうな顔をしていたことを思い出して。

あのときにはもう、ひとりになる覚悟をしていたのかもしれない。
おばさんは、母親だから、そんな祥くんの未来を見透かしていたんだろうか。

そういえば、わたしは、おばさんにも「無理して祥生に合わせなくてもいい」って、言われたっけ。


そして、おばさんの最後の一言を、思い出すともっともっと胸がぎゅっと痛くなった。

「幸せに、なってね」と、言ってくれたけど。よく思い返してみれば、「ふたりで」とか「祥生と」とか、そういう言葉がひとつもくっついていなかった。

まるで、わたしたちがつき合っていないことを見抜いていたみたいに。もしかしたら、付き合っていたとしても、いずれは上手くいかなくなると、予期していたみたいに。


祥くんのことをお願いねって、再会した直後には言ってくれていたはずなのに。わたしには、それが果たせないってこと、もうわかってたのかな。


ごめんね、おばさん。やっぱりわたしは、おばさんの力に、なれなかった。ごめんなさい。
わたしは、ずいぶん長い時間、おばさんの手紙を胸に抱きしめたままでいた。


あの手紙を読んだのが、今日でよかったって、思う。

昔ながらの居酒屋さんで、すでになにやら言い合いをしている紗彩とコーイチの姿を見つけて。険悪なムードってわけじゃなくて、好き勝手に言ってるって空気が、わたしの気持ちを楽にする。


自分の無力さを、忘れることができる。胸に開いた穴の痛みに、耐えられる。あなたたちがいてくれるなら。

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