結婚したいから!
はじめは、知らない人かと思った。
もう12月に入ったなんて、きっとあっという間に年末になるんだろうな。実家に帰っても、母は仕事があるだろうな。
…なんて、どうでもいいことを、ぼんやり考えながら歩いていて、会社の正面玄関を出たところで、「海空ちゃん」って呼びとめられたのだ。
「ごめんね、急に会いに来て。ここの会社で再会したって、祥生から聞いたのを憶えてたから」
落ち着いて、よく見れば、幸くんだった。
わたしは、久しぶりに彼に会ったけど、変わったところはない。なのに、外で会ったせいか、前は幼く見えていた幸くんが、年相応に見える。
「ううん。大丈夫」
そう答えると、自分の声が少し震えていることに気がつく。それでも、幸くんは、少しわたしを見つめただけだ。
痩せたことも、肌荒れがひどいことも、何も言わないのは、賑やかな彼には似合わないけれど、優しさの表れだろうか。
「ちょっと話そ?」
「うん」
入った喫茶店は、人も少なくて、広い店内の窓際で、ゆっくり座ることができた。わたしはいつの間にか飲み慣れないコーヒーをブラックで飲んでいる。
ふと、それが、祥くんが好きな飲み物だったことを思い出した。
「俺、祥生の兄なんだよ」
「え?」
「あ、腹違いでね」
びっくりした。前置きなく、祥くんの名前が出たことにも、その内容にも。
あまりにふたりのキャラクターが違っているし。でも、そういえば、二人が背中を並べて仕事をしている姿を見ると、雰囲気だけはよく似ているって感じたこともあったっけ。
あれは、同じ仕事をしているせいだけじゃなかったんだ。
「でも、まだ祥生には打ち明けてないから、内緒だよ?」
そう言って、いたずらっ子みたいに笑うと、ようやくいつもの幸くんに見えた。「俺、祥生のことをお袋に聞いてから、ネットで名前打ち込んで検索かけたんだ。
小さな会社を立ち上げてるってことがすぐわかった。だから、社員募集の記事を見たとき、応募してみたんだよ。
まあ、直接会ってみたかっただけなんだけど。でもなーんか、馬が合って、結局転職しちゃったよ」
って、何でもないような顔をして、また笑う。
「祥生の親父さんが、お袋さんと出会う前に、職場で付き合ってたのがうちの母親。
別れてから、妊娠に気がついたらしいんだけど、その時にはうちの父親と大恋愛中だったんだって。だから、父親の子として俺を産んで育てたらしいよ」
わたしの頭の中で、ひとつの記憶が呼び起こされる。
「その話って、もしかして、祥くんは知ってるんじゃ…」
「うん。そういう女がいたってことは知ってる。祥生が小学生の頃、親父さんが転勤して、俺の実家の近く、って言っても、電車で数駅離れてるんだけど、そこに一家で越してきたんだよ。
で、間の悪いことに、転勤先ではうちの母親が働いてたってわけ。たまたま俺の年齢を知って、親父さんは自分の子だと確信したらしい。
だまっときゃいいのに、祥生のお袋さんにも話したんだろうなー」
おじさん、実直そうだから、おばさんに隠し事をしたくなかったんだろうな。
「結局、お袋さんの具合が悪くなって、離婚したらしい」
浮気をしたのしないのって騒ぎは、こういうことだったんだ。浮気をしたとは言えないけど、隠し子がいた、と言えなくはない。
「すごかったらしいんだー、お袋さんの嫉妬っていうのが。
何か危害を加えるってわけじゃないけど、親父さんについて回ったり、俺んちまで来たり。常軌を逸してるって感じで」
あの落ち着いた雰囲気のおばさんが?
「俺も、何回か、見かけたよ。綺麗にお化粧した女の人が、道の向かい側から、ずっと家の方を見てるんだ。魂が抜けたみたいな顔で。怖いくらいだった」
想像、できない…。
おばさんが、そんなふうになるなんて。
「うちの母親はバカだからさー、それに気がつくと『あ、透子さん!寄って行ってよ』なんて言って、家の中まで誘いこもうとするんだー。
いまだに父親といちゃいちゃして気持ち悪いくらいだから、祥生のお袋さんを見ても『同僚の奥さん』としか思ってなかったみたいでさ。
そうすると、やっと我に返ったみたいに、ちょっと微笑んで、帰っちゃうんだよ」
…なんだか、幸くんは、お母さんそっくり、みたい。
「祥生はさ、前にもちょっと言ったけど、基本的には他人に冷たいんだよ」
話は、変わる。心臓の音が、はっきりと大きくなる。
「誰にも執着しなかった。でも、海空ちゃんに再会して、そうじゃない自分に気がついて、ちょっと怖くなったんじゃないかな。お袋さんに似てるって」
お前に執着し過ぎる自分が、嫌いだ。お袋そっくりだ。死ぬまでの一生を、こんなふうに生きるのかと思うとうんざりする。…って、祥くんは言ってた。
「だから、結局、親父さんがとった手段に倣った」
それが、距離をおくってこと。「好きな人が、壊れたり死んだりするよりは、ましだって思ったんだろうなー。親父さんも、祥生も」
そんなに、深刻な状況だったんだろうか。わたしは、自分ではそこまで、重症なつもりはなかった。
「おじさんとおばさんも、好きだったのに、別れたってこと?」
隠し子があったおじさんに、おばさんが別れを切り出したわけでもない。異常な行動をとるようになったおばさんに、おじさんが愛想を尽かしたわけでもない。
「たぶんね。親父さんは、離婚してからも、俺の母親のところになんか一度も来ないよ。それどころか、職場でも、俺の母親に『透子が来たら、様子を見ててくれ』って頼んでたらしいから。
お袋さんが少し落ち着いたら、戻るつもりだったんじゃないかな」
なんとなく、幸くんの話はしっくりきた。祥くん一家の、それぞれの性格を考えて合わせてみると、なおさら。
そして、祥くんは姓が変わっていない。たぶん、おばさんだってそうだろう。それって、おばさんのおじさんに対する気持ちの表れじゃないだろうか。
「どうして、わたしにそれを、話しに来てくれたの?」
幸くんの話は、謎々みたいだった祥くんの言葉を、わたしに理解させてくれた。
でも、なぜわざわざそれを、仕事帰りのわたしを待ち伏せしてまで、言いに来たのだろう、っていう別の疑問がわいてくる。
「だから、祥生はひとりじゃないよ。兄貴の俺が、ちゃんとついてるから、心配いらないよ、海空ちゃん」
大粒の涙がぼたぼたぼたぼたこぼれ出した。
膝の上が瞬く間に濡れていくのに、どうすることもできない。
祥くんの家を出てから、わたしにしては、めそめそしていないなって思ってたけど。初めに泣きすぎて枯れたのかって思ってたけど。
どこかにたくさん涙がたまっていたみたい。
幸くんが、これほど頼りがいのある人だと思ったことはない。
明るいお母さんと、そのお母さんを愛するお父さんに育てられて、天真爛漫に育ったんだろうな。落ち着きのない、騒々しい人だとしか思ってなかったけど、深い愛情をかけてもらったから、ちゃんと周りの人の状態を見抜ける人なんだろうな。
「幸くん、ありがと。祥くんのこと、よろしくお願いします」
わたしは、おばさんに祥くんのことをお願いね、って言われたこと、心のどこかでずっと気にしてた。
もう、傍に居られませんって、謝ることもできなくて、もやもやしてた。
でも、お父さんであるおじさん以外にも、祥くんの近くに、お兄さんである幸くんがいれば、天国から見たおばさんも、少しは安心して、わたしの失敗も大目に見てくれるかもしれないって、思った。