結婚したいから!
To 藤田紗彩
To 結城晃一
Sub. お願い!!
本文 愚痴を聞いてほしいから、仕事が終わったら、家に来て!何時でもOKです。
今日は金曜日で、わたしは明日休みだけど、もしかしたら紗彩とコーイチはそうじゃないかもしれない。
でも、今日は、夜遅くでも、ほんの少しの時間でも、ふたりに会いたい気分だった。
でも、もう、何この、洪水。
涙線がどうにかなって、防波堤が決壊してるので、初めて、会社帰りにタクシーを利用した。いつもみたいに、居酒屋さんでお酒を飲むことなんか、不可能だ。
今日ばかりは、家に呼びつけることを、許してもらおう。
よく考えたら、わたしからふたりを誘うのは、初めてだった。いつも、人恋しくなる前に、紗彩かコーイチか、どっちが提案するのかわからないけど、飲もうよ、ってメールが入ってたんだ、って気がつく。
鈍感だなあ、わたし。そんなに、気遣ってもらってたのに。
「うわ、ひどい顔!」
紗彩の第一声は、それだった。営業先から直帰すると会社に連絡を入れて、そのまま家に来たらしい。
「もう諦めて、メイク落としなよ」
洗面所まで行く元気もなくて、タオルでごしごし顔を拭くわたしを見て、紗彩は「こすっちゃだめ!」と、慌てて鞄からメイク落としのコットンを出して、綺麗に拭いてくれた。
「なんなのよ、どうして今頃?」
困惑した顔で、紗彩がわたしの顔を覗き込んだ時だった。
ガン!と大きな金属音がして、玄関のドアが何かにぶつかったようだ。「うわ、鍵開いてるし!」って、コーイチの独り言が聞こえてきて、思わず紗彩と顔を見合わせると、笑ってしまった。
「どんだけ力入れて、ドア開けたのよ?」
息切れしながら入ってきたコーイチは、紗彩が先に来ていたことに、ほっとしたように表情を緩めた。
「いや、ほんとに、焦った!紗彩が、まだ営業先だって言ってたからさ」バツが悪そうな顔をしてる。…わたしがひとりで、手首切ってるとでも思ったんだろうか。それなら鍵開けておくはずがないと思うけど。
全速力で走ってきたコーイチ、営業先から駆け付けた紗彩。
「ありがど。…わだじ、いいどもだぢがいてうれじー……」
「何言ってるのかわからん!」
紗彩とコーイチは声を合わせて笑ったけれど、絶対にわかってたはず。
「どうしたのよ?どうせ、例の幼馴染のことでしょ?」
勝手知った様子で、わたしの家のキッチンで飲み物を用意してから、紗彩が、こう切り出してきた。
「…わたし、いよいよお役御免、って感じなんだぁ」
自分でそう口に出してから、ああ、そうなんだ、って思うくらい、心の中の整理がついていなかった。幸くんに会って、ほっとした気持ちが、どうしてこんな涙につながるのか、いまいちわかってない。
「海空はなんのお役目をもらってたのよ?」
「えっと……、彼をひとりにしない、って役?」
ああ、上手く言えない。
でも、祥くんの家庭の事情に触れないように話すのって、思いのほか難しかった。なんとなく、家のことって、直接関わりがない人にでも話さない方がいいような気がして。
「要するに、誰かに頼まれて、彼がひとりにならないように傍にいたってこと?
だけど、彼自身から、離れろって言われたから離れたけど、気がかりだったんだ?」
泣きながら、ぐちゃぐちゃ言うわたしの話を、紗彩が慣れた様子でまとめあげるから、さすがだと思う。「うん。でもね、ひとりじゃないって。今日ね、お兄さんって人が、わたしに会いに来てくれたんだ」
幸くんが来たこと。これが、この涙の洪水のきっかけだってことは、わかってる。
「でね、彼にとって、本当にわたしは必要のない人間になったんだなあって」
「うん」
「その、悲しい気持ち、と。わたしは、彼に縛られてなくてもいいんだなあって、気が楽になった気持ち、も、あるみたい……」
そうだ。そうなんだ。紗彩が上手く話を聞いてくれるから、自分の気持ちが見えてくる。
「そっか。かなり嫉妬深い人だったしね」
自分がいなくても大丈夫だって言うのは、寂しくて悲しいのと同時に、どこか安心でもある。わたしと祥くんとの関係は、唯一無二のもので、誰かが代わりになれるようなものじゃないと思ってた。
それは、喜びでもあり、負担でもあったんだろう。
「嫉妬深い?」
紗彩の言葉に、コーイチが反応する。
「うん。あたしとごはん食べに行くこともできないくらいだった」
「そう言えば、怒ってたよ?コーイチのメール見て、『浮気してるのか』って言って」
「ええっ!?」
…おもしろい、かも。コーイチをからかうって…。ちょっと、紗彩の気持ちがわかってくる。
「だって、ごはん持ってきてとか書くんだもん。いつも持って行ってるんだろって、責められた」
ぐす、とわかりやすく鼻をすすってみるけれど、いつの間にかわたしの涙は止まっている。
わかりやすいな、わたし。
でも、動揺しているらしく、コーイチはわたしの演技にも全く気が付いていない。
「俺……、バカかも……。ミク、ごめん。ほんとに、ごめん」
「だね。バカだね。結城。空気読めないしね」
「……」
メールするときに、空気なんて読めるはずないのに。わたしの意図を酌んだらしい紗彩のひどい台詞にも、コーイチはしおれたように黙り込んでしまった。
意外…。なんて素直なわかりやすい人なんだろう。
どうやら、今のコーイチが、本物らしい。もう、初めて会った時のコーイチの姿は、すっかり消去してしまうことにした。
「嘘。嘘だよ、コーイチ。すぐに、誤解は解けたよ。わたし、不器用で浮気とかできないしね」
そう言うのに、まだ、心配そうな目でわたしを見つめている。叱られた子どもみたいに。
「コーイチ?ごめんね、からかったんだよ?」
おかしくて、笑いがこらえきれなくなる。
「ほんとに…?」
こんな面もあるんだなぁ、コーイチには。
紗彩とは付き合いも長いし、大抵のことは想定範囲内だけど、よく考えたらコーイチと親しくなったのって、まだここ数カ月のことだ。まだまだ新しい発見があるんだろうな。
「ぶっ。結城、かっこわる…」
「うるさっ」
どうやら、「モテない」と並んで、「かっこわるい」は、彼の自尊心を傷つける言葉らしい。過剰な反応が、かえって紗彩を喜ばせると言うのに、露骨に嫌な顔をしているから、よけいに笑えてくる。
一緒に笑っていた紗彩がふと、じっとわたしを見つめて、呟いた。
「海空、このところ、想い合ってるのに別れるよね」
そう。そうなのだ。こんなことは、初めて。っていうのか、好きだけど別れるって、わたしに言わせたら、その言葉からしてさっぱり意味がわからない。
「でもさ、あたし、わかる気もするんだよね」
「え?」
「うーん、パティシエの彼の気持ちも、幼馴染の彼の気持ちも」
「ど、どこが!?」
身近にいたはずのわたしに理解できない気持ちが、どうしてわかるんだろう?
「海空のことが、一番大切だって、ところ」
紗彩の目が優しくて、言葉が出なかった。
今となっては、玲音さんの気持ちも、祥くんの気持ちも、じっくり聞く機会はないけれど、紗彩がそういう解釈をしてくれるその気持ちだけは、ちゃんとわたしの心に響く。
「なんで?俺、全然わからないけど」
コーイチが、不思議でたまらないって顔で、そう言った。
「好きな女から離れること自体、理解できない。諦めたり引き離したりする努力をするよりも、一緒にいるための最善の策を考えるべきだろ」
…そう、思うよ、わたしだって。
「うわっ、俺、なんか地雷踏んだらしい!おい、紗彩、なんとかしろ!」
「は?あんたの責任でしょ。海空がこうなったら、どうせ何やっても無駄だから。思いっきり泣かせてやればいいの」
そうだよ。わたしは、何が何でも、傍にいてほしかったのに。わたしのことを思うなら、離れないでほしかった。
でも、相手を思う気持ちって、人それぞれ。こんなふうに、紗彩とコーイチとでも、考え方が違うのだから。
たまたま、わたしと、相手とで、愛情のかけ方が違っていたのだろう。
またしても滝のように流れ落ちる涙を、タオルに押しつけながら、わたしはわんわん泣いた。
たくさんの涙が、わたしの中の痛みを、消化しきれない思いを、押し流してくれるように祈りながら。「あっちぃ!」
「ちょっとぉ!ほんと、あんたって不器用!」
「じゃあ、紗彩がやれよ!」
「あたしは、食べるのが専門だから!」
「…お前の彼氏、かわいそうだな」
「よ、余計なお世話ー!!」
ソファでごろごろしながら、紗彩とコーイチが、わたしの部屋の小さなキッチンで何かを作っているところを見ている。泣きすぎてパンパンに腫れた瞼を冷やしてはいるけれど、視界はかなり狭い。
「もー!なんか焦げ臭い!!」
「お、おい、火、弱めるのって、どっちだっけ?」
「知らないし!」
「もういいや、早く切っちゃえよ」
「あんたがやりなさいよ!」
「ええ?それも俺かよ!」
その狭い視野の中で、押し合ったり小突きあったりしてる様子を見ながら、ふたりが話してる声を聞くと、お腹からくつくつと笑えてくる。頭で考えるより前に。
「た、食べよっか」
紗彩が、いくらか作った微笑みで、運んできたのは、だし汁のないうどん…。「焼うどん?」って聞いたけど、「だし汁が蒸発しちゃった」って言われた。
なるほど。それで、どこか焦げ臭いわけだ。見た目も、卵がまるい形でもなく、溶いた形でもなく、微妙に固まった姿で、麺にまとわりついているから、笑える。
「食べて?」
もう一度、そううながした紗彩の顔は、いつの間にか真剣になってる。ふと、コーイチを見てみるけど、同じような顔をしていた。
あ、ばれてたんだ、って思う。わたしがあまり食べられなくなってること。
ふたりと一緒に、飲んでる時なんかは、わりと食べ物がのどを通ってたはずなんだけどな。
「うん。ありがと。食べるから、ふたりとも一緒に食べて?」
そう答えて、体を起こしてみるけれど、正直、食欲はない。あ、うどんの見た目のせいじゃないけどね。
でも、今は、ふたりの気持ちに応えたい、っていう気持ちが勝っている。
わたしが、箸をつけたのを見届けて、ふたりもうどんをすする。「辛い!」
「なんか苦い!」
「硬い!」
三者三様の文句が飛び出してくる。
みんな立派な大人と言える年齢のくせに、そろいもそろって、料理が満足に作れないってことが、今、明らかになった。似た者同士なんだ、そこは。
紗彩も、前はもんじゃ焼きを器用に焼いてたけど、あれは、すでに適温になった鉄板に、味付け済みの材料をのせただけだ。ちゃんとした料理は、あまりしないに違いない。
おかしくなって、笑いながら食べるけど、全部、喉で詰まってるみたいな気がする。飲み込んでも飲み込んでも、お腹までは落ちないで、喉のところにたまって行くような気がする。
「ミク、ゆっくり噛め。吐くな」
いつもより落ち着いた声がして、コーイチがまっすぐにわたしを見ている。そのまなざしに驚いて、ごくん、と息を飲んだら、少し喉が楽になった気がした。
「よし。偉いぞ。ほら、水飲んでみろ」
にこっと笑って、グラスを差し出しながら、頭を撫でてくれる。
なんか、…お兄ちゃんみたい?「海空、あたしたちには気を遣っちゃだめ。慣れない料理したけど、無理に食べさせたいわけじゃない。少しでいいから、何か食べてほしかっただけだよ」
紗彩も、お姉ちゃんみたい。なんでも、お見通し。
ほら、って箸で小さく切ったうどんを口に運んでくるから、つい口を開けてしまう。
「これくらいでも、いいんだ。少しずつ、気をつけて食べて。海空が、何か食べてるところを見ないと、安心できなかっただけ」
芯が残った上に、味が濃く、焦げ臭いうどんを、ゆっくりと噛みしめてみる。
吐けないように、形が残らないくらい、よく噛んでみようって思う。
どうして、わたしが食べたものを吐いているって、気がついたのかはわからないけど、ふたりはそれを知っていて、苦手なのに料理をしてくれたのだから。
「あたし、もう、海空が、男に振られて弱ってるところを見るの、嫌だよ」
紗彩が、泣いてる。初めて、見た。
どれだけ心配掛ければいいんだろう、わたしは。「ご、ごめんね、紗彩。わたし、もう好きな人なんて一生できないから、大丈夫だよ」
「余計、心配なんだけど!!」
紗彩が、涙声でつっこんでくる。
あ、確かに。なんか変な言い回しだったな、今の。自分でも笑えて来る。
「結城、誰かいい人紹介してやってよ」
「は?俺が?」
「一応男でしょ。会社でも友達でもいいから、知り合いの中で、海空を大事にしてくれる人、探してみてよ」
「そうだなぁ。…っていうか、一応ってなんだよ」
ふたりで、そんな相談を始めるから、慌ててこう言った。
「いい、いいの!わたし、合コンもお見合いももう懲りた!そういうところには、一切行きたくない!!」
ほんとにそう思う。
結婚したいって気持ちはなぜかしつこく残ってる気がするけど、誰かを好きになることなんかできそうにないし、まして過去に痛い思いをした場に、すすんで出ていく気なんか起こらない。でも、そうやって正直に言ってしまうと、ふたりはすっかり黙り込んでしまうから。
「彼氏は要らない。紗彩と、コーイチが、こうして一緒にいてくれるのが、今のわたしには一番いい」
「ありがとう」って言いながら、左手で紗彩、右手でコーイチの手を握ると、本当にお姉ちゃんとお兄ちゃんに挟まれてるみたいで、嬉しくなって「えへへ」って笑ってしまった。
「力になるから、今日みたいに、ちゃんと連絡して」
紗彩が、そう言ってくれて、よかった。こうして、急に呼び出したりしたことも、受け入れてくれたんだって思う。
「そうだな。言わないとわからないこともあるんだから」
コーイチも、そう言ってくれる。
わたしのSOSは、紗彩とコーイチには、言葉にしなくても、ある程度は届くらしい。さらには、言葉にして甘えても、いいらしい。
それに、わたしは、なぜか、このふたりになら、甘えられるらしい。
自分たちで作ったくせに、まずいまずいって文句を言いながらも、綺麗にうどんを平らげた紗彩とコーイチを見てると、心が温かい何かで満たされていくのを感じた。
ただ、ふたりと一緒にいると楽しい、ってだけじゃない。
この日から、わたしは、自分の胸の内を、ふたりにだけはさらけ出すことができるようになった。
To 結城晃一
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本文 愚痴を聞いてほしいから、仕事が終わったら、家に来て!何時でもOKです。
今日は金曜日で、わたしは明日休みだけど、もしかしたら紗彩とコーイチはそうじゃないかもしれない。
でも、今日は、夜遅くでも、ほんの少しの時間でも、ふたりに会いたい気分だった。
でも、もう、何この、洪水。
涙線がどうにかなって、防波堤が決壊してるので、初めて、会社帰りにタクシーを利用した。いつもみたいに、居酒屋さんでお酒を飲むことなんか、不可能だ。
今日ばかりは、家に呼びつけることを、許してもらおう。
よく考えたら、わたしからふたりを誘うのは、初めてだった。いつも、人恋しくなる前に、紗彩かコーイチか、どっちが提案するのかわからないけど、飲もうよ、ってメールが入ってたんだ、って気がつく。
鈍感だなあ、わたし。そんなに、気遣ってもらってたのに。
「うわ、ひどい顔!」
紗彩の第一声は、それだった。営業先から直帰すると会社に連絡を入れて、そのまま家に来たらしい。
「もう諦めて、メイク落としなよ」
洗面所まで行く元気もなくて、タオルでごしごし顔を拭くわたしを見て、紗彩は「こすっちゃだめ!」と、慌てて鞄からメイク落としのコットンを出して、綺麗に拭いてくれた。
「なんなのよ、どうして今頃?」
困惑した顔で、紗彩がわたしの顔を覗き込んだ時だった。
ガン!と大きな金属音がして、玄関のドアが何かにぶつかったようだ。「うわ、鍵開いてるし!」って、コーイチの独り言が聞こえてきて、思わず紗彩と顔を見合わせると、笑ってしまった。
「どんだけ力入れて、ドア開けたのよ?」
息切れしながら入ってきたコーイチは、紗彩が先に来ていたことに、ほっとしたように表情を緩めた。
「いや、ほんとに、焦った!紗彩が、まだ営業先だって言ってたからさ」バツが悪そうな顔をしてる。…わたしがひとりで、手首切ってるとでも思ったんだろうか。それなら鍵開けておくはずがないと思うけど。
全速力で走ってきたコーイチ、営業先から駆け付けた紗彩。
「ありがど。…わだじ、いいどもだぢがいてうれじー……」
「何言ってるのかわからん!」
紗彩とコーイチは声を合わせて笑ったけれど、絶対にわかってたはず。
「どうしたのよ?どうせ、例の幼馴染のことでしょ?」
勝手知った様子で、わたしの家のキッチンで飲み物を用意してから、紗彩が、こう切り出してきた。
「…わたし、いよいよお役御免、って感じなんだぁ」
自分でそう口に出してから、ああ、そうなんだ、って思うくらい、心の中の整理がついていなかった。幸くんに会って、ほっとした気持ちが、どうしてこんな涙につながるのか、いまいちわかってない。
「海空はなんのお役目をもらってたのよ?」
「えっと……、彼をひとりにしない、って役?」
ああ、上手く言えない。
でも、祥くんの家庭の事情に触れないように話すのって、思いのほか難しかった。なんとなく、家のことって、直接関わりがない人にでも話さない方がいいような気がして。
「要するに、誰かに頼まれて、彼がひとりにならないように傍にいたってこと?
だけど、彼自身から、離れろって言われたから離れたけど、気がかりだったんだ?」
泣きながら、ぐちゃぐちゃ言うわたしの話を、紗彩が慣れた様子でまとめあげるから、さすがだと思う。「うん。でもね、ひとりじゃないって。今日ね、お兄さんって人が、わたしに会いに来てくれたんだ」
幸くんが来たこと。これが、この涙の洪水のきっかけだってことは、わかってる。
「でね、彼にとって、本当にわたしは必要のない人間になったんだなあって」
「うん」
「その、悲しい気持ち、と。わたしは、彼に縛られてなくてもいいんだなあって、気が楽になった気持ち、も、あるみたい……」
そうだ。そうなんだ。紗彩が上手く話を聞いてくれるから、自分の気持ちが見えてくる。
「そっか。かなり嫉妬深い人だったしね」
自分がいなくても大丈夫だって言うのは、寂しくて悲しいのと同時に、どこか安心でもある。わたしと祥くんとの関係は、唯一無二のもので、誰かが代わりになれるようなものじゃないと思ってた。
それは、喜びでもあり、負担でもあったんだろう。
「嫉妬深い?」
紗彩の言葉に、コーイチが反応する。
「うん。あたしとごはん食べに行くこともできないくらいだった」
「そう言えば、怒ってたよ?コーイチのメール見て、『浮気してるのか』って言って」
「ええっ!?」
…おもしろい、かも。コーイチをからかうって…。ちょっと、紗彩の気持ちがわかってくる。
「だって、ごはん持ってきてとか書くんだもん。いつも持って行ってるんだろって、責められた」
ぐす、とわかりやすく鼻をすすってみるけれど、いつの間にかわたしの涙は止まっている。
わかりやすいな、わたし。
でも、動揺しているらしく、コーイチはわたしの演技にも全く気が付いていない。
「俺……、バカかも……。ミク、ごめん。ほんとに、ごめん」
「だね。バカだね。結城。空気読めないしね」
「……」
メールするときに、空気なんて読めるはずないのに。わたしの意図を酌んだらしい紗彩のひどい台詞にも、コーイチはしおれたように黙り込んでしまった。
意外…。なんて素直なわかりやすい人なんだろう。
どうやら、今のコーイチが、本物らしい。もう、初めて会った時のコーイチの姿は、すっかり消去してしまうことにした。
「嘘。嘘だよ、コーイチ。すぐに、誤解は解けたよ。わたし、不器用で浮気とかできないしね」
そう言うのに、まだ、心配そうな目でわたしを見つめている。叱られた子どもみたいに。
「コーイチ?ごめんね、からかったんだよ?」
おかしくて、笑いがこらえきれなくなる。
「ほんとに…?」
こんな面もあるんだなぁ、コーイチには。
紗彩とは付き合いも長いし、大抵のことは想定範囲内だけど、よく考えたらコーイチと親しくなったのって、まだここ数カ月のことだ。まだまだ新しい発見があるんだろうな。
「ぶっ。結城、かっこわる…」
「うるさっ」
どうやら、「モテない」と並んで、「かっこわるい」は、彼の自尊心を傷つける言葉らしい。過剰な反応が、かえって紗彩を喜ばせると言うのに、露骨に嫌な顔をしているから、よけいに笑えてくる。
一緒に笑っていた紗彩がふと、じっとわたしを見つめて、呟いた。
「海空、このところ、想い合ってるのに別れるよね」
そう。そうなのだ。こんなことは、初めて。っていうのか、好きだけど別れるって、わたしに言わせたら、その言葉からしてさっぱり意味がわからない。
「でもさ、あたし、わかる気もするんだよね」
「え?」
「うーん、パティシエの彼の気持ちも、幼馴染の彼の気持ちも」
「ど、どこが!?」
身近にいたはずのわたしに理解できない気持ちが、どうしてわかるんだろう?
「海空のことが、一番大切だって、ところ」
紗彩の目が優しくて、言葉が出なかった。
今となっては、玲音さんの気持ちも、祥くんの気持ちも、じっくり聞く機会はないけれど、紗彩がそういう解釈をしてくれるその気持ちだけは、ちゃんとわたしの心に響く。
「なんで?俺、全然わからないけど」
コーイチが、不思議でたまらないって顔で、そう言った。
「好きな女から離れること自体、理解できない。諦めたり引き離したりする努力をするよりも、一緒にいるための最善の策を考えるべきだろ」
…そう、思うよ、わたしだって。
「うわっ、俺、なんか地雷踏んだらしい!おい、紗彩、なんとかしろ!」
「は?あんたの責任でしょ。海空がこうなったら、どうせ何やっても無駄だから。思いっきり泣かせてやればいいの」
そうだよ。わたしは、何が何でも、傍にいてほしかったのに。わたしのことを思うなら、離れないでほしかった。
でも、相手を思う気持ちって、人それぞれ。こんなふうに、紗彩とコーイチとでも、考え方が違うのだから。
たまたま、わたしと、相手とで、愛情のかけ方が違っていたのだろう。
またしても滝のように流れ落ちる涙を、タオルに押しつけながら、わたしはわんわん泣いた。
たくさんの涙が、わたしの中の痛みを、消化しきれない思いを、押し流してくれるように祈りながら。「あっちぃ!」
「ちょっとぉ!ほんと、あんたって不器用!」
「じゃあ、紗彩がやれよ!」
「あたしは、食べるのが専門だから!」
「…お前の彼氏、かわいそうだな」
「よ、余計なお世話ー!!」
ソファでごろごろしながら、紗彩とコーイチが、わたしの部屋の小さなキッチンで何かを作っているところを見ている。泣きすぎてパンパンに腫れた瞼を冷やしてはいるけれど、視界はかなり狭い。
「もー!なんか焦げ臭い!!」
「お、おい、火、弱めるのって、どっちだっけ?」
「知らないし!」
「もういいや、早く切っちゃえよ」
「あんたがやりなさいよ!」
「ええ?それも俺かよ!」
その狭い視野の中で、押し合ったり小突きあったりしてる様子を見ながら、ふたりが話してる声を聞くと、お腹からくつくつと笑えてくる。頭で考えるより前に。
「た、食べよっか」
紗彩が、いくらか作った微笑みで、運んできたのは、だし汁のないうどん…。「焼うどん?」って聞いたけど、「だし汁が蒸発しちゃった」って言われた。
なるほど。それで、どこか焦げ臭いわけだ。見た目も、卵がまるい形でもなく、溶いた形でもなく、微妙に固まった姿で、麺にまとわりついているから、笑える。
「食べて?」
もう一度、そううながした紗彩の顔は、いつの間にか真剣になってる。ふと、コーイチを見てみるけど、同じような顔をしていた。
あ、ばれてたんだ、って思う。わたしがあまり食べられなくなってること。
ふたりと一緒に、飲んでる時なんかは、わりと食べ物がのどを通ってたはずなんだけどな。
「うん。ありがと。食べるから、ふたりとも一緒に食べて?」
そう答えて、体を起こしてみるけれど、正直、食欲はない。あ、うどんの見た目のせいじゃないけどね。
でも、今は、ふたりの気持ちに応えたい、っていう気持ちが勝っている。
わたしが、箸をつけたのを見届けて、ふたりもうどんをすする。「辛い!」
「なんか苦い!」
「硬い!」
三者三様の文句が飛び出してくる。
みんな立派な大人と言える年齢のくせに、そろいもそろって、料理が満足に作れないってことが、今、明らかになった。似た者同士なんだ、そこは。
紗彩も、前はもんじゃ焼きを器用に焼いてたけど、あれは、すでに適温になった鉄板に、味付け済みの材料をのせただけだ。ちゃんとした料理は、あまりしないに違いない。
おかしくなって、笑いながら食べるけど、全部、喉で詰まってるみたいな気がする。飲み込んでも飲み込んでも、お腹までは落ちないで、喉のところにたまって行くような気がする。
「ミク、ゆっくり噛め。吐くな」
いつもより落ち着いた声がして、コーイチがまっすぐにわたしを見ている。そのまなざしに驚いて、ごくん、と息を飲んだら、少し喉が楽になった気がした。
「よし。偉いぞ。ほら、水飲んでみろ」
にこっと笑って、グラスを差し出しながら、頭を撫でてくれる。
なんか、…お兄ちゃんみたい?「海空、あたしたちには気を遣っちゃだめ。慣れない料理したけど、無理に食べさせたいわけじゃない。少しでいいから、何か食べてほしかっただけだよ」
紗彩も、お姉ちゃんみたい。なんでも、お見通し。
ほら、って箸で小さく切ったうどんを口に運んでくるから、つい口を開けてしまう。
「これくらいでも、いいんだ。少しずつ、気をつけて食べて。海空が、何か食べてるところを見ないと、安心できなかっただけ」
芯が残った上に、味が濃く、焦げ臭いうどんを、ゆっくりと噛みしめてみる。
吐けないように、形が残らないくらい、よく噛んでみようって思う。
どうして、わたしが食べたものを吐いているって、気がついたのかはわからないけど、ふたりはそれを知っていて、苦手なのに料理をしてくれたのだから。
「あたし、もう、海空が、男に振られて弱ってるところを見るの、嫌だよ」
紗彩が、泣いてる。初めて、見た。
どれだけ心配掛ければいいんだろう、わたしは。「ご、ごめんね、紗彩。わたし、もう好きな人なんて一生できないから、大丈夫だよ」
「余計、心配なんだけど!!」
紗彩が、涙声でつっこんでくる。
あ、確かに。なんか変な言い回しだったな、今の。自分でも笑えて来る。
「結城、誰かいい人紹介してやってよ」
「は?俺が?」
「一応男でしょ。会社でも友達でもいいから、知り合いの中で、海空を大事にしてくれる人、探してみてよ」
「そうだなぁ。…っていうか、一応ってなんだよ」
ふたりで、そんな相談を始めるから、慌ててこう言った。
「いい、いいの!わたし、合コンもお見合いももう懲りた!そういうところには、一切行きたくない!!」
ほんとにそう思う。
結婚したいって気持ちはなぜかしつこく残ってる気がするけど、誰かを好きになることなんかできそうにないし、まして過去に痛い思いをした場に、すすんで出ていく気なんか起こらない。でも、そうやって正直に言ってしまうと、ふたりはすっかり黙り込んでしまうから。
「彼氏は要らない。紗彩と、コーイチが、こうして一緒にいてくれるのが、今のわたしには一番いい」
「ありがとう」って言いながら、左手で紗彩、右手でコーイチの手を握ると、本当にお姉ちゃんとお兄ちゃんに挟まれてるみたいで、嬉しくなって「えへへ」って笑ってしまった。
「力になるから、今日みたいに、ちゃんと連絡して」
紗彩が、そう言ってくれて、よかった。こうして、急に呼び出したりしたことも、受け入れてくれたんだって思う。
「そうだな。言わないとわからないこともあるんだから」
コーイチも、そう言ってくれる。
わたしのSOSは、紗彩とコーイチには、言葉にしなくても、ある程度は届くらしい。さらには、言葉にして甘えても、いいらしい。
それに、わたしは、なぜか、このふたりになら、甘えられるらしい。
自分たちで作ったくせに、まずいまずいって文句を言いながらも、綺麗にうどんを平らげた紗彩とコーイチを見てると、心が温かい何かで満たされていくのを感じた。
ただ、ふたりと一緒にいると楽しい、ってだけじゃない。
この日から、わたしは、自分の胸の内を、ふたりにだけはさらけ出すことができるようになった。